神奈川三浦半島、三崎口を起点に途中油壺、諸磯などに寄り道しながら三崎へ向かいます。
京急線の終点、三崎[マグ]口駅
久々にやってきました。こちらは何年も前から相変わらず「みさきまぐろえき」です。
〈最近「京急蒲タコハイ」駅を名乗った某蒲田駅はクレームがついて元に戻してしまったとか それは置いといて〉
駅前の通称三崎街道を南へ歩き出し、まず油壺を目指します。
途中を森と干潟の『小網代の森』経由もありますが、今回はその南側をまわってごく普通の道路を歩いて行きました。
そして意図したわけではないのですが、三浦半島一帯で平安時代頃から有力な豪族であった三浦氏に関連した古跡などをあちこち目にすることとなりました。
帰ってから三浦氏所縁の場所の解説を人力字おこししてついでに歴史の知識として蓄えてしまおうなんて気になり、そんなわけでいつもより文字数多いです。
三崎街道を先に進み、途中の引橋付近
この下は深い谷になっています。ここに昔「引橋」がありました。
道路向かい側に解説があります
横須賀市の衣笠城を中心にして栄えた三浦一族は、三浦義澄の孫泰村が時の執権北条時頼と仲たがいとなり、いわゆる宝治合戦がおこり、一族は滅びましたが、義澄の弟佐原十郎義連の系統が残り、その孫、盛時から八代目の時高が永享10年(1438年)新井城を油壺に構築し、本拠を三浦に移しました。
この時高は世継ぎの問題から養子の義同と争い、明応3年(1494年)新井城で自殺するに至ったとの説があり、三浦の城主となった義同は当時小田原を根拠とした北条早雲の勢力と対決、平塚市伊勢原市の両市にまたがる岡崎城、逗子市小坪の住吉城と各支城で敗退、最期のたのみを新井城に託して守りを固めました。ここ引橋はそのときの大手、つまり外的防御の第一線であったといわれ、谷間に橋を掛け渡し、敵が攻め寄せたとき、その橋を引いて防いだところから引橋の地名がおきたと伝えられています。
三浦市
引橋先で交通量の少ない道へ逃れます。
そしたら住宅と畑の間に丸い2つの塚がみえました
義士塚
こちらも三浦氏に関連したものでした。〈通りかかったときは古墳かと〉
16世紀前半三浦氏(三浦義同)と北条氏(北条早雲)がこの地で合戦となり(のちに三浦氏は滅びることになりますが)その戦死者を供養したのがこの義士塚とされています。当初は4塚あったともされていますが現在は2つが確認できます。〈現地に案内解説は無かった〉
義士塚の先、下りの細道に入って少し行くと小網代の森からの道と合流し、目の前は小網代湾になります。
手前は漁船、奥にはヨット。湾奥(右方向)へは干潟となってそのまま小網代の森に続きます。
湾奥を望む
中央小高い丘の左右にそれぞれ谷が切れ込んでさらに小さな湾となってます。
湾口側は一部埋立てられた陸地の上に大きな建物とマリーナがあります。
シーボニアの建物群
建物向こう側にはヨット、ボートがたくさんあるようでした。
こちらの施設は1967年に開業とのことで老舗といってもいいのでしょう
かつてはずいぶんもてはやされたところだそうですが、今はかなり落ち着いて見えます。
👆左に見える崖をあがってかつて京急油壺マリンパークがあった小さな半島の先を目指します。
あっという間に来ました〈ほんとは少し時間かかる〉
この付近はかつてあった京急油壺マリンパークの正面入口だったところです。
イルカ、アシカのショーも見られる大きな水族館でした。2021年閉鎖
工事看板には「[油壺エリアにおける既存建物設備解体撤去工事]旧京急油壺マリンパーク陸上部解体工事」
ということで隣接した元ホテル京急油壺観潮荘も閉鎖され工事準備がはじまってました
ところでこの付近にあった「油壺マリンパーク」バス停ですがいつの間にか「油壺温泉」バス停にかわってました。
マリンパークは実体がなくなりましたが代わりになぜ「温泉」と思ったら2018年から観潮荘脇で温泉掘っていて無事出たのですね。
温泉水は観潮荘などに供給されてたそうですが今はどうなってるんでしょう?
以前はそれなりに賑わっていた元マリンパーク周辺ですがこの日は工事関係者くらいしか人影がなく、淋しいところとなってました。〈でも再開発の計画は一応あるようです〉
折角ここまで来たので海岸に出てみました
海岸へ出る急な坂道
2枚の看板、手前はありきたりの注意書きですが奥は「三浦道寸の墓」の案内解説。また三浦氏現る
こちら坂道途中の「三浦道寸の墓」
〈先ほどの「引橋」ともかぶりますが〉解説文
三浦道寸の墓
新井城主三浦道寸義同は鎌倉以来坂東武門の名族である三浦一族最後の当主となりました。三浦一族は始祖為通にはじまり鎌倉時代には北条氏とともに幕府を二分して覇権を争ったことはよく知られています。この間、和田の乱(和田義盛滅亡)宝治合戦(三浦泰村滅亡)などいく度か興亡を繰り返し450年の後、奇しくも同じ北条を唱える伊勢新九郎(北条早雲)と戦い、戦国争乱の世の露と消えました。
永正9年(1512年)北条早雲は岡崎城(平塚市伊勢原市両市にまたぐ)から住吉城(逗子市)などにつづいて三浦氏を新井城(油壺)に攻めました。
そして日本籠城史でもまれな凄惨な攻防は三年にわたり、永正13年7月11日義同以下城兵ことごとく決戦にのぞみ、ここに、さしもの三浦氏はその歴史を閉じました。
(義同辞世の歌) 討つものも討たるるものもかわらけよ 砕けて後はもとの土くれ
三浦市
急な坂を下りきると砂浜
胴網海岸
相模湾に面した海岸です。上の画右に見切れている方に小網代湾があります。
磯伝いに半島反対側の油壺湾に歩けるようですが、先ほどの坂道をもどります。
油壺温泉バス停付近、観光施設は現在ほぼありませんが研究観測施設があります。
入口のみ
東京大学臨海実験所・海洋基礎生物学研究推進センターと東京大学地震研究所油壺地殻変動観測所
![](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/miwa3k/20240615/20240615132632.jpg)
![](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/m/miwa3k/20240615/20240615132642.jpg)
東大の施設以外にもあるはずですがこれだけ
地震研究所前の道から油壺湾
その道をちょっと行ったところ
立入禁止になってますが「新井城址」の入口
ここにも解説があったので読んでおきます
新井城址
三浦一族滅亡の地である新井城は、面積約128ヘクタールの自然をそのまま利用した要害でした。
相模湾に突出したこの一帯は、小網代湾と油壺湾にはさまれ、三方が海に面した断崖であり、陸路は、北方約3キロメートルの大手の引橋のみであり、この橋を切って落とせばどこからも攻めこまれないようになっていました。
引橋は後に地名になりましたが、ここで伊勢新九郎(北条早雲)勢は、橋を引かれて渡ることが出来ず、三浦勢に時を稼がれています。
現在は、関東大震災による隆起で、往時の面影はうすらいでいますが、当時としては多くの軍勢をもってしても攻めがたく、わずかの手兵で3年間籠城することができました。三浦一族の奮闘もさることながら、城としても、守りにすぐれた構えであったといえます。
室町時代の居館としての新井城の遺構は、本丸を中心にめぐらされている空堀や土塁に往時を偲ぶことができます。
三浦市
中へ入れず往時を偲ぶことはなりませんでした..
次に油壺湾の波打ち際へ下りました〈波ないけど〉
こちらもたくさんのヨットが係留中
油壺湾奥はほぼマリーナだけしかありません
海岸を前方に裏の駐車場から
密集してますね、こちら側のヨットはどうやって海に出すんでしょう?
その南側、諸磯湾へ向かいます。
諸磯湾北側から
湾、最奥から
南側から湾口方向
湾口付近の丸っこい高みからこちら側に入ってさらに諸磯、油壺二又に湾が分かれてます。
同じく南側から対岸
右は油壺方面からの道路が通り、切り通された崖の両側を結ぶ橋が横切ってるのが見えます。
この背後にも同様の橋があります。
漁船のたまり場に黒ねこ
諸磯湾南側も半島状に陸地がのびています。先端の浜諸磯、諸磯埼灯台目指して進みます。
途中を端折って浜諸磯の浜
諸磯湾方面です
対岸左端が先ほど湾奥から見えた『丸っこい高み』、その右を奥に油壺湾、右横へ諸磯湾
また草やぶの細道などは端折り、磯へ出ます。
諸磯埼灯台
灯台下から北方向
正面対岸茶色の四角い建物がわずかに見えていますが元油壺マリンパークの水族館〈もうすぐ解体の運命..〉
手前はベージュとチャコールの縞模様の岩場、ベージュはシルト、泥などが溜まって固まった泥岩層、チャコールは凝灰質砂岩で火山灰や砂が降り積もって固まった砂岩層、それが交互に重なった互層になってます。三崎周辺の海岸はだいたいどこもこんなかんじです。
諸磯埼から南方向
こちらはより黒っぽい岩場に見えます。右遠くにはう~っすらと伊豆大島、左から防波堤のようにのびているのは三崎の近くで行われている埋立工事だと思います。
このあと三崎へ向かうのですがここでひと休み