散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

利根川水系の変遷(古代から中世頃まで)についての覚え書き

今回は歩いて見て記た、ではなく最近やった調べものからです。

関東平野を流れる主な河川の古代からの流路変遷(利根川と荒川がメイン)<荒川は現在荒川水系でしたね〈あとで気がつく〉

江戸時代以降の資料はわりと目にはいるもののそれ以前の情報は少なく、断片的
再確認に手間取るし、走り書き程度には残して自分への備忘録としました。
公開する意味はあまりないとは思ってますが、出してみました。

基本メモ書き、自分用なので読みにくい、分かりにくい、伝わりにくいは絶対あります。
それを補うにも至りませんが、少し前に歩きまわったこれら川の様子を添えました。

 

古代

関東平野の成立はおよそ10万年前とされる。

利根川、荒川から運ばれた土砂、堆積物は関東平野成因のひとつであることは間違いない。川が山地から平地に出てくる地点もほぼ変わってないと思われる。

利根川は渋川市で平地に出て、ここを扇頂に前橋市、高崎市周辺にかけて扇状地を広げる。伊勢崎市本庄市あたりでは烏川やその支流も合流してくる。

荒川は寄居町を扇頂に深谷市熊谷市にかけて扇状地を形成している。新旧2つの扇状地がある。
北側にある古い扇状地はおもに深谷市の範囲内にある。新扇状地と呼ばれる部分はその南側、熊谷市範囲にあり、新扇状地中央を現在の荒川河道が通る。現河道の南側にも扇状地地形は見られ、和田吉野川河道などはその範囲にある。

荒川は扇状地扇端部、深谷市、熊谷市付近でで利根川と合流していた。(利根川は熊谷市あたりで今よりもやや南側を流れていた)
約6万年前には合流すると南方向へ現在の荒川流路にだいたい沿って流れ下り、大宮台地と武蔵野台地の間に谷間と荒川低地を形成していった。河口は東京湾。

熊谷市街地にほど近い熊谷大橋から荒川上流方向

まっ平らにしか見えないけど扇状地。こんな薄く広い扇状地は珍しい。
荒川が上流から土砂を運んできても横から利根川が次々さらい取ってしまった?

 

渡良瀬川もみどり市、桐生市付近で関東平野へ出るとそのまま真南に扇状地を形成しつつ流れ下っていた時代があったらしく伊勢崎市、太田市あたりで利根川に合流していた形跡もある。

渡良瀬川はその後平野部に出てから南東方向へ流れるようになり、現流路に近い形となったのもかなり古い時代らしい。
思川などと合流し古河市付近を通過して埼玉県、千葉県境界近く(現中川、江戸川筋など)を下って東京湾へ、現在の中川低地などを形成するようになる。

埼玉・茨城県境三国橋から渡良瀬川下流方向


渡良瀬川・思川合流点(栃木県栃木市・野木町境界)

現在渡良瀬川は埼玉県加須市、茨城県古河市境界で利根川に合流します。そのあとは江戸川、利根川分流点を通ってどちらかへ流れ下るはずです。

 

現在利根川が流れる加須低地、ボーリング調査によれば約2万年前に流れていた形跡はないとのこと。

この時点で利根川は引き続き荒川と熊谷市深谷市付近で合流し、現荒川筋を下っていたよう。

そして利根+荒川の荒川低地、渡良瀬川の中川低地は川口市東方で合流して東京湾へ。当時は最終氷期で海面は現在より100m以上低く、神奈川県浦賀付近まで古東京川として流れていた。

 

<それから縄文海進ころまでの情報はあればこのへんへ付け足す>

 

5千から7千年前、縄文海進により海面が最大で現在より5m上昇、荒川低地では川越市付近、中川低地では古河市付近まで海水が入り込む。奥東京湾の形成

中川低地方面はあまり情報なし。渡良瀬川に連なる太日川も古河まで海であればかなり短い川。

現荒川入間川合流点付近が河口に近い。たくさんの堆積物で砂州を形成。

その後の海退で5千年前ころに派川を形成した可能性が高い。現荒川流路側に元の本流、大宮台地近くに新しい流路(いまの毛長川へつながる河道)ができる。
この時は利根川+荒川+入間川にそれらの支流も加わって大量の水が本川派川に流れていたはず。

 

現在の荒川・入間川合流点(埼玉県川越市古谷本郷)

左入間川、右荒川。かつての合流地点は数キロ上流。
海進期はこの付近に河口があったという。

 

5千年前くらいから海退がはじまり海面が低くなっていく。

 

3千~4千年前
利根川流路の変化、熊谷市付近で荒川と合流しなくなったこと。これが古代の最大イベントかも。

荒川が上流から運んだ土砂はしだいに扇状地を巨大化(高く、広く)し、利根川もみずからが運んできた土砂で河床は上がる。
位置関係から西と南側が高くなるが、加須低地のある東側は関東造盆運動により継続的(数十万年前から現在も)に沈降している。(沈降速度は年間1~2mm程度)

利根川は荒川を伴って東側加須低地方面へ流れの方向を(しだいに)変えた。(荒川を伴ったかは証拠ないが無関係ということもない)

利根川は関東造盆運動が主因で東流をはじめ、荒川は扇状地地形の変化が主因で流路が変わったとする見方もある。

 

東流をはじめてからできた利根川河道部 武蔵大橋上から上流方向(埼玉県行田市・群馬県千代田町境界)


葛西用水元圦(取水口)付近の利根川(埼玉県羽生市本川俣)

 

 

東流し加須低地へ流れ込むようになった利根川はこの低地の途中で南へ折れる分流がいくつかできていった。
折れた跡、おもなものは現在の会の川、浅間川(現在廃川)で河道(跡)には自然堤防が現在もはっきり残る。

会の川はさらに下流でいく筋も分流しあちこちに流れをつくった。加須市川口で分かれた一方は島川(現中川の一部)へ合流し、もう一方は古利根川(葛西用水→大落古利根川)へ合流していた。また現在新川用水流路沿い(かつては「日川」と呼ばれた川跡)にも会の川(派川)がつくった自然堤防がはっきり残っている。

星川(から見沼代用水)筋も同様にはっきりした自然堤防が残るがこちらは荒川流路だった時のものか。(利根川も一時星川流路を流れたとも)

 

見沼代用水・星川合流(埼玉県行田市荒木)

左星川、右見沼代用水、一方は用水路ですが星川の河道を共用してしばらく流れていきます。
自然堤防の存在はこの画からはわかりません。

 

その下流は現在の大落古利根川と中川の流路を通って中川低地から東京湾へ注いでいた。
利根川が加須低地を流れるようになると下流は中川低地を経由して東京湾に注ぐ。荒川低地→中川低地へ経由地が変化

 

大落古利根川(埼玉県春日部市赤沼)


大落古利根川(埼玉県越谷市増林)

広い川幅と両岸の自然堤防が大河の痕跡。

古利根川(現中川)と元荒川合流(埼玉県吉川市吉川)

かつての利根川・荒川合流点。左正面青い橋をくぐって元荒川、右から中川(古利根川)。

 

渡良瀬川も利根川流路が変化した頃には群馬、栃木県あたりは現在とほぼ同じ流路となっていたらしい。古河付近で思川と合流して栗橋付近で西へ入って浅間川と合流していたり、現在の権現堂川を経由して庄内古川から太日川へ流れたりした。いずれも中川低地を通過して東京湾へ流れていた。

 

権現堂川(跡)、現在は中川の流路となっているがその水量に不釣合いな川幅(埼玉県幸手市高須賀)

会の川から島川経由で利根川本流が流れたこともあるところです。

庄内古川(跡)、こちらも現在は中川(埼玉県松伏町古川通)


江戸川(太日川)三郷排水機場の下流側から(千葉県松戸市栄町西)

 

荒川+利根川の流路が変わるとそれ以前に合流し南流していた河道は水量が減る(当然)。元の河道には和田吉野川、市野川、入間川(越辺川、都幾川..)など残った河川が流れた。

 

和田吉野川 荒川合流直前の玉作水門付近(埼玉県熊谷市玉作)


市野川 これも荒川合流直前、荒川河川敷内(埼玉県川島町鳥羽井新田)


入間川 川越橋から上流方向(埼玉県川越市上寺山)

 

熊谷市付近からはじまる星川、忍川流路は荒川が利根川から離れて以降元荒川流路が定まるまでの荒川流路だったと思われる。(その頃できた河川かも)

荒川新扇状地から星川流路への川跡、周囲にはっきりした自然堤防が残る。星川全体が一時期荒川の主流筋であった(元荒川合流より下流も元々星川流路とも)。利根川の派川だったこともあるとの説あり。

忍川は行田市周辺の堆積段丘を削りつつその間を流れたあとが鮮明。星川の派川であった時代を経て次第に荒川の派川となっていった。近くを流れる前谷落は忍川の旧流路を改修したもの。(旧忍川については1730年(享保年間)ころ開削された人工水路、名前が紛らわしい)

 

忍川、前屋敷橋から(埼玉県鴻巣市袋)

元荒川との合流近く。橋の一部には鉄道の古いレールが使われています。

 

おそらくそののち、荒川は現・元荒川の流路を流れ出す。熊谷市域から鴻巣市にかけて流域はずっと自然堤防が発達している。

 

国道17号熊谷バイパス元荒川橋から上流方向(埼玉県行田市野・鴻巣市箕田)

 

久喜市から桶川市にかかるあたりからは丘陵地を削りつつ流れて現在の綾瀬川流路に入っていった。

この綾瀬川河道は荒川本流が大宮台地を削りつつ造ったものではないかと想像。その台地出口は鳩ケ谷支台の東側、越谷市との境界付近でここから中川低地を流れていく。

荒川本流が貫流しなければ綾瀬川はいまも無かった?

 

綾瀬川(さいたま市岩槻区馬込、対岸見沼区丸ヶ崎)


綾瀬川(さいたま市岩槻区横根)

 

また星川の河道も元荒川、綾瀬川の北側にあってこちらも発達した自然堤防がみられる。(現在見沼代用水と流れている行田市、加須市、下星川となる久喜市など)

元荒川ははじめ綾瀬川河道を流れ下っていたが、綾瀬川流頭部付近から分岐して丘陵地を分け入る(人工なのか自然なのか不明)流路もある。(現在はこちらが元荒川)

 

その丘陵地を流れる元荒川(埼玉県久喜市菖蒲町下栢間)

 

野通川と合流して(ただし野通川は付近の沼池の干拓排水路として開発された流れ)東に流れて蓮田市白岡市境界付近で[下]星川と合流。以下元荒川として蓮田市からさいたま市岩槻区、越谷市などを流下して古利根川(現中川)と合流。中川低地を東京湾へ流れ下る。

 

星川合流点の少し上流を流れる元荒川(埼玉県白岡市篠津)


末田須賀溜井部分の元荒川(さいたま市岩槻区末田)

 

荒川流路が西遷事業により現流路(元の流路とも)に変えられるまで元荒川が荒川本流であり、場所は変化したが、結局利根川とは合流(越谷市吉川市境界)して現在の中川筋を下って東京湾へと注いだ。

渡良瀬川下流も庄内古川から太日川を、利根川と別流になって流れ下り、東京湾へ別河口で注いでいた。

 

その後中世の頃までそれほど大きな変化はなかった。でいいのかな

江戸時代に入る頃には利根川を銚子方面へ、荒川を古い河道に戻す東遷、西遷事業がはじまり、河道の劇的な変化が起こる。
これが近世以降の最大イベントでしょう。

なんだかんだ見逃し、記録忘れ、矛盾間違いなどあるかと思うけどここまででしめます。