散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

古い入間川川跡の果てに 中川(古利根川)から小合溜井を経て江戸川へ

2022年4~5月に『古入間川*1』川跡を辿った記事内容を改訂、再構成しています。
前回、綾瀬川と合わさった古入間川が現在の垳川(古綾瀬川)流路へ入り、中川(古利根川)へ接続するところまで下ってきました。
現在位置は東京都足立区六木と埼玉県八潮市垳の境界、中川左岸下流側は葛飾区西水元になります。

 

(90)中川左岸、新大場川水門の下流側から上流方向(葛飾区西水元)

ここに見えている中川、前方は昭和初期の流路直線化工事で新たに開削されたところです。また数十年前まで「古利根川」と呼ばれていました。
それ以前は右側へ蛇行していた流れがターンして新大場川水門(右側、半分以上見切れてますが)部分へ戻り、こちら方向へ流れ出ていました。

その河道跡が下の【地図1】に現れてます。(「古利根川旧流路」とテキストを入れた川跡)

 

いつものようにこの周辺の地図(地理院地図・治水地形分類図)を置きます。

【地図1】

毎度の説明ですが
・青い横縞部分は河道跡
・黄色で示されているのが自然堤防
・緑系は低地(平野、湿地)
・河川、水路の一部はラインを強調
・赤地カッコ付き数字は写真撮影位置、記事中写真と番号対応(100番以降は丸囲み数字)

クリックまたはピンチ操作などで拡大すると〈やや〉はっきり見えるとおもいます。

 

古入間川(+綾瀬川)はここ((90)の位置)で合流すると中川(古利根川)の流路を流れ下っていました。
名称も中川(古利根川)に変わるので古入間川を辿るのはここまでになりますが、この先に江戸川へ向かう流れがかつてありました。今回はそちらを辿ります。

 

中川(古利根川)に出てきたので少し書きます。

現在の「中川」には多くの変遷がありました。
江戸時代初期までは利根川と荒川の合わさった大河の本流でした。
利根川東遷、荒川西遷事業によりそれぞれの河川の流路が変更され、本流からは切り離されますが、あとに残った古利根川(大落古利根川)、元荒川やその他多くの支川、水路の水を集めて古利根川として流れ下ります。
そして現在の葛飾区亀有付近に分流があり、分岐点から江戸川区西葛西付近の河口へ向かう流路範囲が「中川」と呼ばれました。(もう一方の流れは「古隅田川」となり隅田川に合流)

(別の分流が葛飾区西水元(猿ヶ又)にもありましたが、そちらはこのあとこの記事に書く部分)

そして昭和初期、埼玉県北東部の庄内古川流路(松伏町大川戸付近)と古利根川(松伏町下赤岩付近)を結ぶ人工流路が開削されて接続され、この時に川の名称も庄内古川(さらに上流の島川)より東京湾河口まで「中川」で統一されました。
ただし昭和50年頃までの地理院地図では埼玉県内の流域で古利根川と中川の名称が混在して表記されています。いまも「古利根川」の呼び方を使う人は結構いるのではないでしょうか。
現在は羽生市東に上流の農業用排水路が繋がれた中川の起点があり、東京湾河口まで延長83.7㎞の河川となっています。

 

今回はまず新大場川水門の裏へまわります。

中川左岸側から新大場川水門

かつては水門うしろ側から古利根川(中川)本流がこちらへ流れ出ていました。現在は大場川からの水がこちらへ出てくる形になっています。
水門は中川からの逆流防止用として存在しています。(1980(昭和55)年完成)

 

(91)水門裏側へ移動(水門背にして)
正面水面は大場川、と言っても大場川はそれほど大きな川ではなく、古利根川旧流路の川幅がそのまま残っているところです。
水の流れもほとんどありません。

 

(92)新大場川水門から500mほど先(八潮市古新田)
大場川マリーナ付近。このあたり流れが穏やかで船の停泊などに適しているのでしょうか。マリーナがいくつか並んでます。
対岸は東京都葛飾区西水元。大場川に沿って都県境になっています。

 

(93)さらに大場川に沿って1000m弱(八潮市大瀬)
見えているのは大場川水面、現在位置は八潮南公園の端ですが、かつてこの背後から流れてきていた古利根川の流路の上にいます。(【地図1】(93)地点、北側に川跡が伸びてます)

大正末期に古利根川(中川)流路直線化工事が実施されて古い河道は切り離されましたが、昭和30年代頃までそのまま放置されていたようです。その後この付近まで埋立てられて跡は宅地となりました。現在も地図を見ると川跡がそのまま宅地転用され分譲されたことがわかります。
またその旧流路中央は古くから村の境界(潮止村・戸ヶ崎村)でした。現在もそのまま八潮市三郷市の境界です。

そしてこの地点は古利根川が2つに分流していたところでもあります。
現在埋立済の旧流路を下ってきた流れはここで東西に分派(分流)していました。西へは現在大場川が合流して新大場水門へ向かう流れ、東へは現在小合溜井(こあいためい)として残る水面を通って江戸川へつながる流れです。

 

そこから方向を少し変えると

(93)大場川、二郷半用水合流点から
正面奥から大場川、横切る橋は葛三橋(かつみばし)と閘門橋(こうもんばし:奥のレンガ橋)、手前左から二郷半用水が合流しています。
閘門橋奥に小合溜への水路がありますが、のちほど。

 

(94)葛三橋と閘門橋の間へ移動

葛飾区と三郷市境界にかかる折衷橋名の「葛三橋」は車のために後から増設されたもの。
ここは閘門橋が主役です。

閘門橋の解説

閘門橋(明治四十二年完成)
閘門橋は、レンガ造アーチ橋としては、東京に現存する貴重な橋です。
橋名の閘門というのは、水位・水流・水量等の調節用の堰のことをいいます。
江戸時代(宝永年間)この辺りは、古利根川(現在・中川)、小合川(現在の大場川、小合溜)が入り込んだ、複雑な地形を有しており古利根川の氾濫地域でありました。この古利根川と小合川の逆流を防ぎ、水田の水源確保のため、さらに岩槻街道の流通路として閘門と橋が造られたと言われております。
現在の橋は、明治四十二年、弐郷半領用悪水路普通水利組合(にごうはんりょうようあくすいろふつうすいりくみあい)によって「弐郷半領猿又(さるがまた)閘門」としてレンガ造アーチ橋が造られました。
その後、本橋は新大場川水門の完成により閘門としての役割を終え、また隣接する葛三橋(かつみばし)に車道を譲り、歩行者・自転車道に移り変わりました。
この改修に当たって、レンガのアーチ部分は原形のままとし、橋面上の修景にとどめました。アーチの橋脚部のブロンズ像は、荒れ狂う風雨と必死に闘いながら閘門の堰板を差込んでいる姿です。
閘門橋は、こうした人々の水との生活史を今に伝えるものです。
平成二年三月 東京都

解説板の下には土木學會選奨土木遺産(2013)のレリーフもあります。

大場川の先から閘門橋

 

(95)大場川と小合溜の接続地点

手前左から右に大場川、右の橋の下を奥へ小合溜井に入っていく水が流れます。
これより東側しばらく大場川と小合溜(小合溜井)は2つの流れの中央に設けられた「背割堤」と呼ばれる堤防で仕切られています。

小合溜側にはその南側に水元公園が広がっていますがこの時は北側、三郷市側を歩きました。この先当分渡る橋がないので水元公園(葛飾区)側には行けません。

 

大場川をさかのぼる形で先へ約1000m

(96)大場川(右)のすぐ近くを流れているのは二郷半用水(左)(三郷市寄巻)
二郷半用水は葛三橋閘門橋近くで大場川と合流していた農業用水路です。
大場川の右側には薄い堤防越しに小合溜があるのですがここからはほとんど見えません。

少し先で手前大場川、向こう小合溜、2つの水が見えました(三郷市鷹野)
もう少し行くと小合溜は大きく蛇行、その途中で大場川が離れていきます。

 

(97)大場川を渡る(三郷市鷹野)

渡っている橋は半川橋、大場川のみを渡り、左隣りの小合溜は越えません。

 

橋を渡ると小合溜の水面が見えてきます。

(98)みさと公園の端から

(99)対岸、都立水元公園のメタセコイア並木

ここにある小合溜(こあいだめ)/小合溜井(こあいためい)と呼ばれる長細い溜め池、かつては古利根川(中川)が現在の閘門橋付近で分派(分流)した流れの一部でした。現在も蛇行した川の形をそのまま留めています。

1729(享保14)年幕府の指示によりこの流れが締め切られ、農業用水確保および周辺水害防止の目的で遊水池化されてできたのが小合溜井です。また溜井からの用水路も整備されて周辺の水源にもなり、「水元」の地名の由来にもなっています。(水元は東京都葛飾区の地名として現存)

 

❶みさと公園内いくつか

 

小合溜井を挟んだ葛飾区と三郷市、境界が未だ定まっていないそうです。それが原因なのかわかりませんが、なかなか対岸へ渡れません。

みさと公園南端出口よりも先、小合溜井の川幅〈現在準用『河川』に指定されているらしいので「川幅」〉が狭くなったあたりで渡河

❷水元公園に入り(葛飾区水元公園)
公園内なのでせせらぎのようになってますがこの流れは小合溜井と江戸川方面を結ぶ用水路跡で「加用水」の名があったようです。

加用水についてはあまり手がかりがないのですが明治以前すでに存在したようで、水路が開かれた当時は江戸川に取水口が設けられ、そこから小合溜井に向かって水が流れて貯水されたとの情報がありました。
現在は川幅狭いですがかつてはここも古利根川河道の中にあります。

 

❸以前東京都水産試験場があったあたり

周辺はプールのような池がたくさん残ってます。

 

少し先で水元公園の外へ出ます。
「加用水」水路は【地図1】を見ると、かつての古利根川川跡(現水元公園東端付近で2本になっている)とは離れたところを通って江戸川に達しているのがわかります。
それに沿って江戸川右岸堤防付近まで移動します。

 

❹江戸川堤防下で小合溜井方向を見て
暗渠水路が見えますが加用水跡、現在水はここに達していないようです。(現在小合溜井側から流れている水(加用水運用時とは逆の流れ)は新たな地下排水路が設けられそこへ落とされている)

右建物は東京都下水道局東金町ポンプ所。暗渠下水路自体は今も江戸川とつながっているので、現在はポンプ所から排出された水が江戸川へ流れていくと思われます。

同じ位置で江戸川方向ふり返ると
❹暗渠の上に「金町関所跡之記」碑と解説板

金町関所跡(かなまちせきしょあと)
所在地 葛飾区東金町八丁目23番地先
金町関所は、金町松戸関所と称され、水戸街道が江戸川を渡る地点に置かれた江戸の東の関門でした。関所の施設がある一帯は金町御番所町と呼ばれ、四名の関所番が明治二年(一八六九)まで、その任にあたりました。
対岸松戸宿との間には渡船が常備されていましたが、将軍が小金原に鹿狩りに出かける際には、江戸川に高瀬船を並べた仮設の船橋が架けられました。四度行われた鹿狩りのうち、最後の嘉永二年(一八四九)の史料は、関所付近のようすを多く伝えています。
その後、明治末期に行われた江戸川の改修により、御番所町の家並みの一部は拡幅された堤防の下となり、江戸川の河身も大きく変貌しました。
関所跡は、松戸宿との位置関係から、現堤防下の河川敷一帯と推定できます。
葛飾区教育委員会

古い水戸街道はここで江戸川を渡ったのですね。
また古利根川の一派もこの近くで江戸川に注いでいました。

 

少しこのあたりの江戸川も見ていきます。

関所跡碑から江戸川下流方向へ250mほど
❺葛飾橋西詰付近から上流を見て

江戸川右岸河川敷になります。左へカーブしていく道の先に見える樋門ゲートは加用水水路(跡)。現在は隣りの東金町ポンプ所からの水が排出されていると思います。

金町関所もゲート近く(現在の河川敷内)にあったようです。

またこれより上流600mとこの背後下流500mほどの地点2カ所には古利根川河道跡が残り、そこが江戸川との古い合流地点になります。

 

橋を渡って千葉県松戸市側から

❻江戸川左岸側堤防付近

先は松戸市街地。

❻ここは江戸川を渡る橋が集中して何本もかかってます
いちばん手前葛飾橋を渡りました。この付近で最初(1911(明治44)年)にかけられた橋です。後に江戸川の改修で川幅拡張されて500m近い橋長の現在の橋になっています。

江戸川も渡って千葉県まで来たのでこのへんで一段落つけることにします。

 

最後に江戸川の歴史について書きます。

現在江戸川は利根川の派川(分流)で、茨城県五霞町と千葉県野田市境界付近で利根川から分かれ、千葉県と埼玉県、東京都の境界を流れ下ります。
江戸川区篠崎‐市川市稲荷木境界、江戸川大橋の下流で旧江戸川と本流(1920(大正9)年完成した元江戸川放水路 1965(昭和40)年以降江戸川(本流)となった)が分流、本流の河口は市川市本行徳・上妙典の間、一方、放水路建設前の本流であった旧江戸川は東京都千葉県境を下り河口は江戸川区臨海町と浦安市舞浜の間で東京湾へ注ぎます。

歴史をさかのぼると、江戸時代初期の利根川東遷事業の一環で江戸川も大規模な改修が行われました。現在の野田市関宿町と埼玉県松伏町金杉の間約18㎞に新たな河道が開削され、その上流側が東へ流れるようになった利根川と接続されて分流点ができます。これで現在の利根川派川としての江戸川ができあがります。

江戸時代に開削された江戸川河道(春日部市東中野)

それより前の江戸川は現在中川流路の一部になっている庄内古川(庄内川)が松伏町金杉付近から現江戸川流路に入って流れていました。このころ江戸川は太日川(ふといがわ、太井川の表記も)と呼ばれていました。

利根川は中世以前、東京湾に流れ込む河川でした。現在の大落古利根川(古利根川)から中川流路を下っていた時期が長いようですが、庄内古川が利根川の川筋だった時もあったようです。
その庄内古川の川筋、古い時代には上流で渡良瀬川とつながっていました。利根川と渡良瀬川の合わさった川が流れていた時代もあったようです。

庄内古川(現・中川)の様子(杉戸町大塚)

 

さらに古く、まだ利根川と渡良瀬川が合流する前、江戸川(太日川)にはおもに渡良瀬川の水が流れて東京湾に注いでいたとされています。しかし利根川と渡良瀬川はたびたび河道を変化させていたので一貫して単独で流れていたとは思えません。現小合溜井を経由した古利根川の一派が流れ込んでいた時にも利根川の水が入っていたことになります。

そもそも利根川、渡良瀬川、荒川が合流して現中川筋を下った頃もあったとされ、そうすると江戸川(太日川)は無くてもいいのでは、ということにもなります。

 

*1:『古入間川』という名称は自分が勝手に名づけたもの 正式な名称が存在するのかもわからないので、通称として使用しています。