古い入間川川跡をたどる その1 現在の入間川接点から新川、鴨川へ

【はじめに】これは2022年4~5月に古い入間川川跡を辿った記事内容を改訂したものです。先行記事は内容が混乱した箇所があったので以前から修正等検討していましたがようやく..というところ

 

まずは前口上

《入間川について》
現在の入間川は荒川水系の河川、埼玉県内を流れています。大持山南東斜面(飯能市)に源流があり、飯能市、入間市、狭山市、川越市を流れてさいたま市西区と川越市境界付近で荒川に合流します。飯能市の旧名栗村地域では名栗川とも呼ばれます。
《古い入間川》
現在入間川は荒川と合流してその下流は荒川として流れていきます。
しかしかつて(大ざっぱに数千年前といわれています)は単独で現在の荒川合流点付近からその東側を蛇行しながら大宮台地南西外縁、浦和周辺、(現)毛長川、古利根川(現・綾瀬川)流路などを通って(現)中川に達していた時期がありました。

 

現荒川合流点付近から下流の古入間川流路跡を辿り、その様子を記録したのがこの記事になります。
先行記事では下流側から遡る形で記録しましたが今回は逆方向にしました。
記事中の写真は2022年のものを再使用しているので24年現在とは多少異なるかもしれません。

 

歩いた川跡は地理院地図の治水地形分類図に反映しました。
今回分の範囲を中心に2枚示します(クリックで拡大)一部重複してます

👆地図に個人で手を加えたのが以下3点
・青の点線で挟まれた部分が古入間川河道跡
・古入間川跡を現在流れる新川、鴨川のラインを強調
・丸囲み数字は写真の撮影位置、記事中写真と番号対応してます

以下は治水地形分類図凡例(一部抜粋)

ちなみに地図中の白い部分は荒川(一部入間川)河川敷、河道が薄青色になってます。

 

地図1枚目左上の点線区間のはじまりから下流方向に向かって進みます。

はじめは現在の入間川の流れる様子
①上江橋から入間川下流方向

見えているのは入間川、荒川とはこのあたりほぼ並行に流れていますが間を分ける背割堤防の存在によってお互いの姿は確認できません。
現在はカーブの先で合流し、その下流『荒川』として下っていきます。

上江(かみごう)橋は荒川と入間川を一気にこえる長大な橋で長さ1609.9m、国道16号が通ります。

 

次は荒川も背割堤もなかった頃の古入間川流路のはじまりあたり
②荒川左岸河川敷から

こちらから見ると(どちらも見えないけど)手前に荒川、向こうに入間川が並流しているはずです。
左は上江橋。
下に見える流れは滝沼川といい荒川左岸に合流する小河川です。この背後、かつて古入間川が流れ出していた地点から流れ込んでいます(荒川左岸堤防に樋門がある)。
古入間川の流れていた地点ですが具体的な痕跡は現場では見つかりませんでした。

ところでその頃の荒川はどうしてここに無かったのでしょうか。
埼玉県川口市文化財センターにそのあたり記されたPDF資料があったのですが、最近見に行ったらリンク切れでした〈全文確保しておけばよかった〉
抜粋していた資料断片とその他情報から

約5000年前、大宮台地と武蔵野台地の間には今の利根川と荒川が合流した大河が流れていた。(現在の荒川低地、現荒川流路付近)
約2000年前、ここを流れていた荒川が現在の埼玉県北部方面(元荒川流路など)へ流れを変えた。跡には入間川が単独で流れるようになったものの大河が残した土砂堆積の影響で流れの方向が変化し、大宮台地の裾をまわって毛長川川筋を草加方面へ流れた。←これが川跡歩きした古入間川
その古入間川も年月を経てまた土砂を堆積させ、河床の上昇などで本流を以前の大河跡(現在の荒川流路)に戻したので古入間川の水量は少なくなり場所によってはほとんどなくなった。
その後江戸時代に入って幕府の荒川西遷事業により荒川流路が変えられ、この近辺で再び入間川と合流して江戸方面に流れるようになった。

ここでまた治水地形分類図の話にもなりますが
上の文中に「(川が)土砂を堆積させ、河床の上昇などで..」といった箇所があります。大雨の氾濫などで上流から運ばれた土砂は川の周囲に堆積して「自然堤防」という微高地を形成します。上に示した地図中黄色で示された部分が自然堤防です。大きな川の周囲にのみ形成されます。
また地図中オレンジ色は段丘面、元からあった台地、段丘上の平らな部分。薄い緑は平らな低地で「氾濫平野」といい、やや濃い緑は低地のうち「後背湿地」といいぬかるみやすい土地でしょうか。

 

荒川左岸堤防上を上江橋下流側に移動
③前方は国道16号、左が上江橋
古入間川は左向こうからこちらへ流れていましたがこのあたりで蛇行がありました。
現在の河川敷内(堤防の左側)でターンしていったん上江橋の上流側へまわってから現荒川左岸堤防の外側へ出ます。そこでまたターンして写真右側を通ってこちら側へ流れていました。〈地図の川跡見たほうが早いですね〉

 

荒川左岸側、古入間川の流路跡へ移動します。
④県道2号(さいたま春日部線)から(さいたま市西区西遊馬)
古入間川河道跡の中央あたりにいますがこの画からはわかりません。

その古入間川河道は1596(慶長元)年に発生した大洪水を契機に伊奈忠次によって堤が築かれて締め切られたと記録があります。
その堤防、現在痕跡は残っていませんがこの付近を通っていました。道路前方に見える緑の歩道橋付近、右の団地建物と並ぶあたりを通過し、右にあるJR川越線指扇駅近くへのびていました。
堤防が築かれた頃はまだ荒川西遷事業前で古入間川は単独で流れていましたが、すでにこれから跡を追いかける河道側に流れはなかった(現荒川河道方面に再び流路を変えていた)のでしょう。ですが洪水時には水が溢れ元の河道にも流れ出す状態になっていたので締切堤防が築かれたと考えられます。

 

河道跡を100mほど下って
⑤新川の流れが顔を出しました
右に梁が渡してある流れ、新川といいます。
今立っているところは古入間川河道中央付近、かつての川底いちばん低い部分です。
川底だった頃からは長い年月が経過していますが地形はさほど変わらないので、いちばん低いところへは雨水や周囲から浸みだした水などが集まりかつての流路に沿って流れができます。

古入間川の水量には及びませんがこのように元の河道が再び川や水路となっている部分はこの先もしばしば存在します。

 

河道跡、新川に沿って1600m下ったところ
⑦名無しの橋の上から
旧河道中央部を流れる新川、水量もやや増えました。
両岸に広がる田畑、幅は150mくらいありますがこれが旧河道(古入間川)の幅です。〈普段は河川敷だった部分もあるかと思いますが〉これだけの川幅に水が流れていました。
河道の両端から先は心持ち土地が高くなって住宅などがのっています

⑥手前から新川、旧河道の低地、家が載る自然堤防の上
自然堤防となっているところは手前の低地より1~2m高く、それが川と並行に続いています。
新川の反対側も同じような様子です。
川の運んだ土砂が洪水のあとに置いていかれ、それが度重なり積もってできたのが自然堤防です。
ある程度以上水量のある大きな河川でないとできないので、これもここに古入間川が流れていた証拠になります。

 

新川沿いにさらに下ると新たな河川改修が最近行われ、川幅はさらに広がり川底も掘り下げられていました。
⑧飯田橋上から新川上流方向(さいたま市西区飯田)
出来て間もない橋、河川改修工事もつい最近です。

 

さらに800mほど下り
⑨「袋橋」付近から(さいたま市西区水判土)
前方水判土(みずはた)交差点の先、水波田観音こと慈眼寺。

慈眼寺の境内、地形が一段高くなってますがそこは古入間川の自然堤防ではなく段丘(大宮台地)の先端になります。〈上の治水地形分類地図を見て気づきました〉

 

袋橋から200m弱下ると新袋橋

⑩新袋橋上から新川上流方向
飯田橋付近から下流は最近川幅を広げて川底を掘り下げてあります。見えてる範囲川幅は30m程度、そこを少量の水が流れています。
元の古入間川河道は両岸住宅などのある範囲にも広がって幅150mほどありました。

⑪新袋橋から下流方向
下の新川は前方で左から来る鴨川と合流します。合流後は鴨川です。
古入間川の流れていた時もこの付近で鴨川との合流があったと思われます。

 

⑫鴨川・新川合流点(さいたま市西区水判土)
右から鴨川、左から新川。
鴨川は桶川市鴨川付近に源がある自然河川です。ここで古入間川の河道跡に入り込んできます。
これより下流は古入間川河道跡に沿って流れていきます。

 

合流点から200mほど下ったところ
⑬「関沼」があったとされるあたり
合流点から下流へ少しの間河道の幅が広がっています。

古入間川の流れがなくなった後の事だと思いますが、この付近で鴨川の流れが淀み水が溜まっていたようです。昭和20~50年代頃の航空写真では池か沼の存在が確認できますのでそれが関沼でしょう。
現在は干上がってしまったのか確認できません。〈鴨川の旧流路跡などが残って一部公園になっている〉

 

河道幅が広がった続きの範囲(さいたま市大宮区三橋4丁目)
鴨川沿いの農道から水田越しで遠望になりますがちょうど段丘(大宮台地)の縁となるところに
⑭茶臼塚古墳
水田部分は(このへん少し広くなっている)古入間川河道跡、その向こうガードレールから奥は現在ほとんど高低差ないですが大宮台地で古墳はその先端(縁)にあります。

調べてみると周辺は側ヶ谷戸(そばがいと)古墳群、そのうちのひとつでした。

古入間川の流域はこのあたりから浦和近辺にかけていくつも古墳群が存在しているとのことです。大宮台地の段丘面だけでなく発達した自然堤防上にも古墳がいくつも造られているようです。

 

さらに700mほど下ります。
⑮「藤橋」の下流から上流方向(さいたま市桜区白鍬)
この付近も川の両岸は自然堤防になってますが、最近の河川改修工事で鴨川河道を掘り込んで低くし、流路も直線化されてしまってます。
古い航空写真では住宅などきっちり自然堤防、丘陵地に分類される範囲に建てられているのがわかりますが、近年は旧河道内なども宅地転換されています。
いろいろ判断の難しい区間になってしまいました。

 

同じような風景のなか、2㎞近く下って
⑯学校橋付近から鴨川上流方向(さいたま市桜区大久保領家)
このあたりも河川改修で細かく蛇行していた鴨川流路は直線化され、河道は掘り込んで低くされています。
鴨川が人の手のたくさん加わった一般的な都市河川となってしまいました。このへんで古入間川痕跡探すのは少し難しそうです。

 

また500mほど下ります。
⑰鴨川と五関樋管ゲート(さいたま市桜区五関)
鴨川は古入間川の河道跡をここまで流れてきましたが、古い河道はここで西へ大きく蛇行していました。
鴨川はここで古い河道跡から離れます。

一方ここには樋管ゲートがあり、この先古入間川河道跡を通ってくる水路が鴨川へ合流しています。

 

古入間川河道と鴨川が分かれるここでいったん刻みます。