散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

古い入間川川跡をたどる その2 鴨川を離れ桜区内から武蔵浦和駅前まで

まず今回辿る川跡周辺の地図(国土地理院地図治水地形分類図)を置いておきます

👆上流部 👇下流部(👆の続き)

👆地図に個人で手を加えたのが以下3点
・青の点線で挟まれた部分が古入間川河道跡
・古入間川跡を現在流れる鴨川とその他河川水路のラインを強調
・丸囲み数字は写真の撮影位置、記事中写真と番号対応してます

凡例も

 

今回は古入間川河道跡が方向を大きく変える地点、さいたま市桜区五関の五関樋管ゲートのあるところから
⑰鴨川と五関樋管ゲート(前回再掲)
上の地図を見るとラベル⑰近辺で古入間川河道は西方向へカーブしています。

西(荒川の方向)へ800mほど進むとUターンして東に流れの向きを変え、現鴨川流路の五関樋管ゲートから3~400m下流へ戻りさらに東へ進んでいます。
流れがUターンしている部分は現在荒川河川敷にかかっています。

 

荒川の左岸堤防まで移動
⑱堤防上から浦和北高校方向
高校の敷地右側、正面に向こうからややカーブしつつ来る道があり左隣りには水路(五関排水路)が通ってます。その両側、この時更地となっている範囲なども含め古入間川河道跡です。

古入間川は向こうからこちらへ流れて足元堤防位置を通過していました。一方現在の五関排水路の流れは逆、水は向こう方向へ流れて⑰地点鴨川の五関樋管ゲートへ達します。
この周辺ほとんど土地に高低差がないので水の流れを逆にすることは難しくないのですね。

 

西方向に流れて荒川河川敷に出た古入間川はすぐUターン、次は東方向へ向かって流れていました。
荒川堤防を下流方向に250mほど移動して

⑲堤防上から千貫樋(せんがんぴ)水郷公園
手前木立ちの密集するところが公園、ちょうどこの真下あたり、Uターンした古入間川が向こう方向へ流れていました。

⑳公園に下りて荒川堤防方向をふり返り
川跡が水郷公園に整備されて菖蒲などが植えられてます。

ここは古入間川の河道でしたが、時を経て鴨川が荒川へ合流する流路に変化しました。(現鴨川は河川改修でここへは流れてこない)
『水郷』としての水は旧鴨川流路を整備した水路(千貫樋排水路)から供給されているようです。

 

㉑旧鴨川流路の水路が遊歩道になってます

遊歩道を少し行くと古い荒川土手(堤防)があり、その下に旧鴨川の水を通すための古い煉瓦の樋門『千貫樋(せんがんぴ)』があります。

樋門の表側(荒川に面した側)にはかつて観音開きの扉があり、それを支える柱と戸当たりが残っています。
扉は荒川側の水位が上がると押されて自然に閉じる仕組みになっていました。その上部には右から千貫樋の銘板が入ってます。
㉒千貫樋(表)
2つの口があって現在は水路と歩行者用通路になってますが、当初は両側に水が流れていました。

樋門の上、左右に通るのが荒川の古い堤防でそこをくり抜いてます。現在は樋門上の堤防部分を県道57号(さいたま鴻巣線)が通っています。

解説があります

千貫樋(せんがんぴ)
千貫樋は鴨川が荒川へ流れ込む地点に設置した荒川からの逆流を防止するための水門でした。当初の水門は江戸時代に木造で建設されましたが、数年で腐朽し洪水の度に破壊されていたので、1904(明治37)年に鴨川落悪水路普通水利組合が煉瓦造りへと全面的に改築したものです。
千貫樋の建設工事は、明治37年4月30日に着手し同年6月15日に竣工しました。また、使用煉瓦数が153,000個の大規模な工事でした。煉瓦水門として改良されてからは、荒川の洪水に対して非常に有効な土木構造物でした。
現在の千貫樋は水門としての役目を終え、荒川の旧堤防であった主要地方道57号さいたま鴻巣線の千貫樋橋として今なお現役です。

㉓こちらは裏(鴨川が流れ込んでいた方)

遊歩道と親水公園は千貫樋の先へ現在の鴨川接続点まで約400m続きます。

㉔現鴨川との接点付近から
現在は遊歩道と公園ですが元は鴨川下流の河道、それより前は古入間川の河道だったところです。(ここも鴨川、古入間川互いの流れの向きは逆です)

 

現在の鴨川の土手へあがります。
㉕現在の鴨川(さいたま市桜区五関・下大久保境界)
上流方向見てます。2つの樋管ゲートが写ってます。
手前此岸の樋管(千貫樋樋管)は左側千貫樋排水路に接続しています。鴨川旧流路本流の跡でかつてこの付近で鴨川は左へ急カーブしていました。(1935(昭和10)年河川改修により現在の流路へ変更)

この場所は古入間川河道が横切っていた地点でもあり、ここを左から右へ流れていました。また鴨川上流へ3~400mほどいったところは古入間川の蛇行がはじまる(現在五関樋管ゲートがある⑰)地点です。
対岸奥にもうひとつみえる樋管ゲート『作田樋管』といいますが、古入間川流路跡を流れる作田排水路の放流口になってます。

 

次は作田排水路を追いかけることで古入間川をたどります。
対岸へ渡り
㉖右は土手
右側ちょっと先を鴨川が流れます。右の土手は鴨川から続いてますが古入間川河道に盛り土して築いたものです。(したがってここは古入間川河道部分)

このあたり古入間川河道両脇は自然堤防が発達してますが、河道部が盛り土されたり、河道内まで住宅が建て込んだりしていて昔の様子はほとんど〈まったく〉わかりません。

 

㉗作田排水路沿いに出ます(さいたま市桜区大久保領家)
左側フェンスの下、梁が渡されコンクリートで固められた水路があります。
水路は古入間川河道内にあってその河道幅はこのあたり100~130mほどあり、昔はその外側が自然堤防の微高地になっているはずですが状況は把握できません。

作田排水路が通る河道跡は宅地開発前にはおもに水田だったようです。

 

水路沿いはしばらく同じような風景、1㎞弱進むと浦和大久保団地があります。
㉘浦和大久保団地内の水路
古入間川河道跡に建てられた団地、その中央に水路が通ります。
ただ、堀に水がないので本流は地下を通っているかと思われます。

 

団地を通り抜けた先に移動
㉙作田排水路第1調整池(フェンスと奥の建物の間)
フェンスに調整池と記されていました。排水路ですが排水しきれない量の水が出ることがあるので調整池が設けられているわけですね...〈何だかわかりにくい〉

この背後、古入間川下流方向へは河道が大きく蛇行して方向が変わります。作田排水路は古入間川河道範囲から外れていきます。

 

㉚河道が南方向へターンしたあたりへ移動(さいたま市桜区上大久保・中央区上峰3丁目境界)
上大久保中学校脇から。右側校舎あたりが川跡、左は公園敷地、公園内にみえる段差はそこまで台地(大宮台地与野支台)が迫っているためです。ちょうど台地の縁を古入間川が流れていたことになります。

 

上に写る中学校の南側から古入間川河道跡にまた小さな水路が出現します。
はじめ住宅の間を流れ、埼大通り(国道463号)を渡ってすこし行くと

㉛ゴルフ練習場内を暗渠で横切る水路(さいたま市桜区栄和3丁目)

さらにほぼ直線的に700mほど下って

㉜さいたま市桜区中島4丁目付近
この水路は『油面2号雨水幹線』と市に命名された要は雨水処理用の側溝であって古入間川を意識して造られたものではないと思われます。
この周辺は多数の人工水路が縦横に走っている区域です。(小さな自然河川もたまに混ざってるのでいろいろややこしい)

しばらくそんなところを進みます。

 

古入間川川跡に大きな道路が絡んで歩くの難儀しているところ。

㉝新大宮バイパスと首都高大宮線・町谷交差点歩道橋から北側
川跡は前方250m付近で道路を横切っており、足元付近ははずれてます。

 

バイパスや高速を渡って東側へ(さいたま市桜区南元宿2丁目)

㉞新六間道路に出て暗渠となる水路が右奥からこちらへ
ここも古入間川河道跡がこの水路に重なっているのですが、水路の出自が不明。手前で暗渠になって新六間道路沿いに進みますが姿が見えなくなります。

このあたり水路密度がほんと高くてどことどこがつながっているのか把握しきれません。
周囲の地形も把握できず、古入間川河道跡を地図をもとにひたすら辿る..

 

南元宿付近で南へ屈曲した古入間川河道跡に沿って1㎞ほど移動

㉟鴻沼川(鴻沼排水路)の近くに出てきた水路上流方向
古入間川河道跡、500mほど先から確認できていたこの水路は『合野谷排水路』または『鴻沼2号雨水幹線』という名前です。背後の鴻沼川を挟んだ先にある田島排水路とつながっていたと推測できる流路となっています。

 

㊱近くの合野谷橋から鴻沼川上流方向
古入間川跡(と合野谷排水路、田島排水路)はこの目前を横切っており、鴻沼川とは直交する形になります。
しかしこの鴻沼川は江戸時代の享保年間、人工的に開かれた排水路がはじまりでそれ以前にあった古入間川とは同時に存在しておらず、流路が直交しても不思議はありません。

また流路をはさんだ2つの水路が鴻沼川が存在しなかった頃にはつながっていたということも十分あり得ると思います。

㊲田島排水路の起点と鴻沼川・合野谷橋

鴻沼川先に架かるのが㊱合野谷橋、歩道手前赤白の車止めから左へ田島排水路がはじまります。対岸公園の右に見切れてますが㉟合野谷排水路があります。

 

次は古入間川川跡を通る田島排水路沿いに下ります。

田島排水路は古入間川なきあと周辺水田などからの排水路として整備されたものとのことです。元の河道位置がいちばん土地が低いのでここを通ることになったのでしょう。
現在は鴻沼川近くで単なる側溝からはじまりますが、200mほど先志木街道を交差した先からは曲流した水路に沿って歩道が整備され約1700m続きます。

㊳暗渠上に整備された歩道から(さいたま市南区鹿手袋7丁目)
この周辺珍しい地名『鹿手袋(しかてぶくろ)』由来を
国会図書館レファレンス協同DBからの引用ですが

『袋』の地名は、河川が曲流したところに発達した自然堤防上に拓かれた村落に多い。
さいたま市南区の鹿手袋は、古入間川の流跡と鴻沼の尻にあたって出来た袋地に拓けた村落であった。
元来は鴻沼の尻手袋(しりてぶくろ)から鹿手袋(しってぶくろ)と呼ばれていたが、現在は鹿手袋(しかてぶくろ)と呼んでいる。

 

㊴さいたま市南区役所建物付近から
右の小学校敷地を隔てた次の通りからこちら中央の暗渠水路の歩道の間が古入間川河道跡になります。
この背後、南区役所建物からJR武蔵浦和駅ホームなども河道跡が通ります。

 

㊵こちらは武蔵浦和駅西口側のデッキから
右建物はさいたま市南区役所、川跡はバスターミナルから区役所建物をぬけていきますが、工事現場との間の歩道は現役の暗渠水路、田島排水路の下流になります。このあと田島排水路は駅東口前で北から来る別所排水路と(暗渠同士)合流してさらに笹目川へ合流します。
〈この時(2022年5月)は左側建物建設中ですね〉

ちょうど駅前で便利なのでここでいったん刻みました。この先は日を改めて辿るのです。

 

その1

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