散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

古い入間川の川跡歩き その5 武蔵浦和駅前から鴨川の流れに沿うまで

武蔵浦和の駅前から旧入間川跡遡上再開。

駅西口デッキ上から(前回再掲)

ここに昔は大きな川が流れていたのですね。

右建物はさいたま市南区役所、川跡はバスターミナルから区役所建物をぬけていきますが、工事現場との間の歩道は現役の暗渠水路、この先もずっと旧入間川跡に沿ってのびています。

 

南区役所建物の先へ出て

右の小学校内が川跡で、左の暗渠水路が通る歩道あたりまでがその範囲内です。

この先暗渠の歩道を伝っていきます。
この暗渠は田島排水路という水路、旧入間川なきあと周辺水田などからの排水路として整備されたものとのことです。元の河道位置がいちばん土地が低かったのでここを通ることになったのでしょう。

 

前の写真から1㎞ほど先(南区鹿手袋7丁目)

この周辺珍しい地名『鹿手袋(しかてぶくろ)』、由来を、国会図書館レファレンス協同DBからの引用ですが

『袋』の地名は、河川が曲流したところに発達した自然堤防上に拓かれた村落に多い。
さいたま市南区の鹿手袋は、古入間川の流跡と鴻沼の尻にあたって出来た袋地に拓けた村落であった。
元来は鴻沼の尻手袋(しりてぶくろ)から鹿手袋(しってぶくろ)と呼ばれていたが、現在は鹿手袋(しかてぶくろ)と呼んでいる。

 

整備された暗渠歩道は曲流した川跡に沿って約1700m続き、志木街道に突き当たって終わりますが、水路はその先へ続いて鴻沼川(鴻沼排水路)に出ます。

鴻沼川・合野谷橋上から

入間川跡はこの目前を横切っており鴻沼川とは直交する形になります。しかしこの鴻沼川は江戸時代の享保年間、人工的に開かれた排水路がはじまりでそれ以前にあった旧入間川とは同時に存在しておらず、流路が直交しても不思議ではありませんね。

 

入間川跡、田島排水路の鴻沼川を挟んだ延長上に存在する水路

上流側にも小さいながら水路が存在していました。(名称不明)

入間川跡の中央部分に沿う小さな水路、次はこの流路沿いに進みます。

 

桜区南元宿1,2丁目境界の新六間道路(県道57号)付近で川跡は西方向へ折れます。

新六間道路に沿って西方向へ行くと向こうから流れてくる水路が現れました。
新六間道路に出て暗渠となる水路が右奥からこちらへ

水路は道路からはずれて住宅地の奥へ引っ込んでしまいます。ちょうど川跡もこんな形で奥へ斜めに入り込んでいます。
ここの住宅地界隈の道すじが良くなく、奥へ入った水路をうまく追えません。

 

いったん新六間道路を先へ進み新大宮バイパス国道17号)の先で川跡に合流します。
新大宮バイパスと首都高大宮線・町谷交差点歩道橋から北側

迂回中のため足元付近は川跡からはずれてます。川跡は前方250m付近で道路を横切っており、そこから北向きに方向を変えてます。

 

その先へまわり込むとまた小さな水路が存在していました。
桜区中島4丁目付近

 

先へ追うと暗渠となってゴルフ練習場のまん中を横切ってました(桜区栄和3丁目)

 

背後上流へ埼大通り(国道463号)を横切り北へ上大久保中学校校内を通過して県道215号宗岡さいたま線を横切るとそれまでほぼ北向きに進んでいた川跡は南西方向へターンします。

上大久保中学校脇から下流方向をふりかえって(中央区上峰1丁目)

まだターンする前。右側校舎あたりが川跡、左は公園敷地、公園内にみえる段差はそこまで台地が迫っているためです。ちょうど台地の縁を川が流れていたことになります。

あまり関係ないけどこのあたりはさいたま市中央区。この川跡歩きでほんの100mほど中央区を通ってるところです。

 

川跡がターンしている途中(桜区上大久保)
「作田排水路第1調整池」

フェンスにそのように記されていました。排水路ですが排水しきれない量の水が出ることがあるので調整池が設けられているわけですね...〈何だかわかりにくい〉
とにかくまたまた川跡に現れる水路(に設けられた調整池)です。

 

少し先にある浦和大久保団地内を貫く水路

作田排水路の続きのようですが、現在排水路のほうは暗渠化されているらしくこちらは水路跡かと。団地内にもこの水路跡とつながる小規模な調整池がいくつか残り公園などになっていました。

入間川跡に沿って建てられた浦和大久保団地をぬけると作田排水路の流れが顔を出します。

 

相変わらず川跡の中央部を流れてます(桜区大久保領家)

左側フェンスの向こうに水路。このあたり埼玉大学キャンパスの北側あたりになります。(キャンパスは川跡ではないです)

 

少し先へ進むと正面に土手が現れます。

鴨川の土手

右側ちょっと先を鴨川が流れ、その古い堤防ですが最近手入れされてきれいになっているようです。

 

鴨川へ出て橋を渡り対岸から

右岸(西)側に出ました。奥の水門が作田排水路の鴨川への放流口です。手前此岸の水門(名称失念)部分はかつての鴨川旧流路本流の跡であり、左のほうへ伸びて荒川に合流していました。
現在の鴨川流路は右手前方向に新流路がひらかれて今はさらに下流で荒川に合流しています。

手前水門部分の旧流路は鴨川になる以前は旧入間川流路で、そのころの流れの向きは逆、ここからだと左から右へ、旧鴨川の水門から作田排水路水門の方へ水が流れていました。

入間川流路をここから左へさかのぼっていくと、現在の荒川堤防あたりでU字にカーブして現在の鴨川河道この3~400m上流側へ達し、そこから上流は現在鴨川となっている河道を流れていました。
つまり現在の鴨川はこの付近まで旧入間川河道を流れ、U字カーブ部分はショートカットされてさらにこの下流側に新河道が開削されたということになります。

 

手前の水門付近から左(西)側を見たところ

古い鴨川流路でその前は旧入間川河道だったところ。親水公園となって水が流れています。今は人工の流れだと思いますが荒川堤防付近まで続く遊歩道に下りて先へ。

 

鴨川にあった水門から400mほど行くと古い煉瓦の樋門『千貫樋(せんがんぴ)』があります。荒川の増水時に鴨川への逆流を防ぐため古い荒川堤防部に造られた水門です。

裏側(鴨川側)

2つの口があって現在は水路と歩行者用通路になってますが、当初は両側に水が流れていました。

表側(荒川側)

表側にはかつて観音開きの扉があり、それを支える柱と戸当たりが残っています。扉は荒川側の水位が上がると押されて自然に閉じる仕組みになっていたようです。その上部には右から千貫樋の銘板が入ってます。

樋門の上、左右に通るのが荒川の古い堤防でそこをくり抜いてます。現在は樋門上の堤防部分を県道57号(さいたま鴻巣線)が通っています。

 

千貫樋の解説があります

千貫樋(せんがんぴ)
千貫樋は鴨川が荒川へ流れ込む地点に設置した荒川からの逆流を防止するための水門でした。当初の水門は江戸時代に木造で建設されましたが、数年で腐朽し洪水の度に破壊されていたので、1904(明治37)年に鴨川落悪水路普通水利組合が煉瓦造りへと全面的に改築したものです。
千貫樋の建設工事は、明治37年4月30日に着手し同年6月15日に竣工しました。また、使用煉瓦数が153,000個の大規模な工事でした。煉瓦水門として改良されてからは、荒川の洪水に対して非常に有効な土木構造物でした。
現在の千貫樋は水門としての役目を終え、荒川の旧堤防であった主要地方道57号さいたま鴻巣線の千貫樋橋として今なお現役です。

 

遊歩道から

 

千貫樋から西へ300mほどで現在の荒川堤防にぶつかります。
手前の千貫樋水郷公園から

桜並木の向こうが現荒川堤防です。

この公園部分も旧入間川跡です。向いている方向がその上流ですが、現堤防の向こう側ですぐに右へアピンカーブ、この右側でまたこちら側へ出てきていました。(水の流れる方向とは逆の言い方してます)

 

荒川堤防へ直登、上から下にみる千貫樋水郷公園

 

荒川堤防上を上流へ250mほど、再び下を見て

入間川跡ヘアピンカーブの上流側。学校(浦和北高校)敷地の右側、正面に向こうからカーブしつつ来る道があり隣りが水路になっています。そのあたりが川跡です。

 

川跡を通る水路沿いに進むと再び鴨川に出ます。
鴨川と五関樋管ゲート

浦和北高脇を流れていた水路が鴨川に注ぐ樋管ゲートですが、かつては鴨川上流方向から流れてきた旧入間川がここでゲート外側へ方向を変えていた場所です。
またUターンしてこの3~400m下流へ戻ってましたが、その部分、現在の鴨川はショートカットされてます。〈さっきも言った〉

ここから上流へ現在の鴨川流路が旧入間川の河道です。昔の鴨川はもっと上流で旧入間川に合流し一緒の流れとなってましたが現在は単独で流れています。川の蛇行も現在は改修されて直線的になっています。

 

鴨川を上流へ3.5㎞ほどさかのぼって歩きます。

まず500mほど、学校橋の上流側(桜区神田)

とりあえずここでまた休憩いれます。

 

入間川流路地図

 

前回分

miwa3k.hatenablog.jp