散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

座間丘陵尾根伝いに歴史散歩〈その1〉

今回座間丘陵の尾根伝いに歩いてみました。
少々こじつけ感がないでもないですが、古いもの、歴史あるものが目にとまったので歴史散歩とかタイトルに入れて実は備忘録、あるいは自分の歴史知識乏しさを補う事後学習のまとめ記録であります。

まず座間丘陵について少し

神奈川県中央部を流れる相模川、その東には相模野台地(相模原台地)があります。
相模野台地は古い相模川の運んだ堆積物によって形成されましたが、その西縁部、相模原市南部から座間市、海老名市にかけて南北に細長く伸びる、より高度のある丘陵が分布します。これが座間丘陵です。
座間丘陵は相模野台地形成に先立つ27万~14万年前頃に相模川が運んできた堆積物でつくられた台地でした。〈相模野台地の先代の台地〉
その後に浸食開析が進んで台地平坦面が少なくなり丘陵地形となり、再び相模川が砂礫等を運んで相模野台地を形成していくことで堆積物によって周辺がしだいに埋まっていき、現在はいちばん高度の高い部分が相模野台地上に頭を出した状態になって残っています。

 

歩き出したのは藤沢市内からでしたが序盤はアプローチとして〈すいません〉省略。そしてまだ座間丘陵の範囲内でもありませんが
綾瀬市に入り広い畑の間から(綾瀬市吉岡)

ほぼ正面の建物、綾瀬市役所。

西側を向いて富士、丹沢など

このあたり戦後神奈川県の農村振興整備事業で開かれた耕地(畑)。この平坦な台地面は相模野台地のひとつの典型風景として

 

その農地西端、谷に落ち込むところ(綾瀬市早川)

谷間を目久尻川(めくじりがわ)が流れます。
正面階段が谷に下りるところトンネル(天神森隧道)出口です。

その北側小字「武者寄」、「城山」公園があり、源頼朝御家人のひとり渋谷氏の城跡があるようです。
また、階段下には庚申塔と『古墳各霊供養塔』がありました。近くに古墳は確認できずですが

目久尻川付近は古くから小さな集落がありました。
橋をわたって集落に沿う道

古地図にも記載のある道ですが名前のつくほどの規模ではなさそう

 

その道をたどるとしだいに丘陵の上へとあがっていきます。

このへんは座間丘陵でよろしいかと。その尾根筋まであがって
現在綾瀬市海老名市境界付近の五社神社鳥居前へ

こちらも渋谷氏と縁のある神社らしいです。
道路拡幅で神社境内拡幅分後退してました。〈なので鳥居前が真新しい〉

神社の先を横切る道が古い道です。現在の藤沢市用田から海老名市国分を経て座間星谷寺へ向かう、いわゆる『坂東三十三観音巡礼街道』のひとつかと。

神社の先右折して巡礼街道(おそらくこのへん『ほしのやみち』という)へ入ります。
その道はしばらく(座間)丘陵の尾根あたりを辿っています。周囲は最近開発された住宅地となって古い道の面影は無いですが100年ほど前の地図ではこの道しか存在しません。

 

海老名市国分寺台1丁目まで来るとその道の傍らに古墳が残っています。
瓢箪塚(ひさごづか)古墳解説

少々見にくくなっているので文字読みます

瓢箪塚古墳 (海老名市指定史跡 平成10年8月28日指定)
相模川とその両岸の平野を見下ろす、ここ座間丘陵上には、7基の古墳が確認され、上浜田古墳群を形成しています。上浜田古墳群は、円墳、方墳前方後円墳からなる4~5世紀代にかけての古墳群であり、瓢箪塚古墳は同古墳群内で現存する唯一の前方後円墳で、市内最大の古墳です。
瓢箪塚古墳は、地元で「ひょうたん山」と呼ばれ、古くから親しまれてきました。また、明治43年には郷土史家中山毎吉によりその著作『神社名勝古蹟誌』のなかで、瓢箪塚古墳の計測結果が記されるなど、古墳としても古くから認識され、大正8年には、当時の海老名村が墳丘部分を保存のために購入し、村有地としました。
平成8年の発掘調査の結果、神奈川県内では最古級とみられる埴輪片が出土し、4世紀から5世紀初頭にかけて造られた古墳であることが判明しました。
造られた当時は前方部がもう少し南に延び、墳長80㍍級の規模であったろうと推定されます。
平成13年3月 海老名市教育委員会

推定復元図を見ると周囲、特に前方部が(住宅地造成時に)削られてなくなっていることがわかります。
復元図に示された範囲は現在公園として整備されています。

墳丘へあがる階段

前方部と後円部の間くびれ部分から後円部にかけての側面がみえてます。

階段を上がって西側の眺め

お、いいながめ
すぐに海老名市街地、その先相模川があるはずですが建物で見えず、さらに厚木から大山丹沢方面が見えています。

こちらは後円部から北側

海老名市国分あたりの住宅地。

後円部から前方部、右には三角点があります

四等三角点瓢箪山68.4m。いつ設けられたものかわかりませんが、この周辺でいちばん高い場所だったのでしょうか。

前方部の先には「相模國造之墳墓」石塔。

相模国造(さがむのくにのみやつこ)は相模の国の東部を支配した国造。初代国造の墳墓が寒川町の大神塚古墳との説があり、だとするとこちらはその後継国造となるとは某歴史雑誌から引用..

墳丘の西外側から

ここからも墳丘周囲が削られているのがわかります(解説板の写真と比較するとさらによくわかる)。この位置からは右が前方部、左が後円部になります。

あたりは『上浜田古墳群』なのでもう少し古墳墳丘が残っているのですがこの時は先へ進みました。〈いずれまた〉

 

次は相模国国分寺跡を目指します。

瓢箪塚古墳から先ほどの道を丘陵から下りつつ歩いていくと
前方は「国分寺」境内

現在の相模国分寺(東光山医王院国分寺)です。
その手前は現在大きく切通しとされて厚木街道(神奈川県道40号)が通ってます。

陸橋(跨道橋)で向こうへ渡ると境内への階段


その背後になりますが
『海老名の大けやき』と呼ばれる古木

国分寺とは直接関係ないものだと思いますが新旧国分寺の間にあります。
県指定天然記念物。樹齢は580年ほどと推定されています。幹はだいぶ損傷して竹材で覆われたりしてます。
このあたりが入江になって漁師が船をつなぐため逆さに打ち込んだけやきが根付き大きくなったとの伝承があり『逆さけやき』とも

大けやきの傍らで厚木街道(旧道)を渡ると相模国分寺跡に出ます。
いちばん偉そうな看板の前から

相模国分寺は741(天平13)年国分寺建立の詔を受け全国に建設された国分寺、国分尼寺のひとつです。
国分寺跡はこれまでの発掘調査結果に基づいて塔、金堂、講堂の基壇復原、中門、廊跡、僧房跡の位置表示を行っています〈現地案内文のまま〉。現在建物はありませんが跡地は原っぱ広場、そこに建物跡などがわかるよう整備されてます。
地形的には座間丘陵の尾根から西に少し外れますが相模川の流れる低地から一段上がった段丘の平坦面にあります。

解説、出しておきます

国史跡 相模国分寺跡
奈良時代、聖武天皇は仏教の力で国の安寧を図るため諸国に国分寺の建立を命じました。相模国分寺もその一つで、8世紀後半には建築が始まったとみられます。七重塔と金堂を東西に、講堂を北側に配置する法隆寺に似た建物配置をとり、回廊と築地塀で周囲を囲んでいます。その外側は素掘りの溝で区画され、寺の範囲は東西240m、南北300m以上と諸国の国分寺跡の中でも有数の規模を誇ります。
七重塔や僧房などの建物は、多くの瓦が出土していることから瓦葺きだったとみられます。瓦は乗越瓦窯(のりこしがよう)(横須賀市)、その後、瓦尾根瓦窯(かわらおねがよう)(東京都町田市)などで焼かれたものが使用されています。また、塔跡や金堂跡などの礎石は中津川上流から運ばれています。相模国分寺跡近くの逆川跡は、これらの資材を運ぶために人工的に開削された運河とみられています。
通常国分寺は国府の近くに建立されますが、相模国では、国府は大住郡(平塚市)、国分寺は国府から12キロも離れた高座郡(たかくらぐん)(海老名市)に置かれました。これは大住郡と高座郡の郡司が壬生氏という同じ氏族であったからではないかとされています。ここから500mほど北には、相模国分尼寺も置かれ、二寺が並び立つ様子は壮観だったことでしょう。
相模国分寺は平安時代中頃まではこの場所で存続していたとみられますが、中世には判然としなくなります。江戸時代には現在の東光山国分寺の場所へと移り、その法灯が受け継がれています。

解説左上復元図では右端の角あたりから内部を見て

左端の舗装部分が回廊と中門跡、中央松の木右奥が七重塔跡、右の木すぐ背後が金堂跡。
塔と金堂の間、奥に講堂がありましたが、現在道路が通っています。

この場所は大正昭和の一時期、海老名村(町)役場があったようです。

役場建物だった現在は海老名温故館(郷土資料館)

国分寺の復元模型もあります。

 

こちらは塔(七重塔)跡

基壇(建物基礎の土盛り)を復原、礎石を置いてます。

礎石

こちらの七重塔、高さ65m、初重(重なった七つの一番下の屋根)広さは10.8m四方ありました〈現地解説から〉。

現在海老名駅近くのショッピングモール横に1/3サイズレプリカがあります。

2018年に撮ったものです。

 

中門・回廊跡、碑

左解説板のうしろが中門、その右が回廊跡。碑は「史蹟 相模國分寺阯」側面に大正十四年三月建設の文字

回廊横から

かつてはこの右側から門を通ったのですね。回廊もずいぶん広さがあったようですが、四方に巡らされてはおらず、例えば東側は築地塀だったことが確認されています。〈西、北は不明な模様〉
(右側フェンス外側はマンション建築予定でしたが反対運動があって建設中止になったとか..蛇足かな)

 

これは金堂跡

土盛りの基壇、当時の礎石がいくつか残っています。
石碑には「相模國分寺遺蹟」

後方、左に木が1本あるあたりが講堂跡ですが現在は道路が横切っていて「国分寺講堂跡」の石碑が1つと礎石がいくつかあるだけです。

 

道路を挟んだ北側には僧房跡、北方建物跡の案内解説があります。

僧房跡

解説には国分寺の僧が生活した施設がここにあり、少なくとも9つの区画に仕切られた長さ東西81m以上の建物があったことや火災などで2回は建て替えられ、建築もその都度進化していったことなどが書かれていました。

北側の跡地


同じく南側を見て


相模国分寺、記録を残してない部分もありますがひととおり見て回りました。
〈事後にチェックしたことも含めてほんの少しは自分の知識も深まったかな?〉

 

まだ先へ進む予定ですが案外長くなったのでいったん刻みます。