散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

中津原段丘の西際崖線上を歩く 神奈川厚木・愛川

一応「中津原段丘とは」からはじめましょうか。
神奈川県中央部、厚木市北部から愛川町に位置するテーブル状の段丘(台地)を指します。
大昔の相模川などが流路を変えながら流れて土砂を堆積させ広い台地を造りますが、その後相模川、中津川の流れが台地の両サイドを侵食して段丘を形成します。この部分が中津原段丘です。
段丘中央に『中津』という地域があるのでそれが名称由来でしょう。

まず今回は中津原段丘西側の際(段丘崖との境目近く)、崖線上を歩いて辿ったことを記します。
ところどころで眺めが良かった、坂道がいくつもあったという他愛ない話題が中心ではあります。

最初は中津原段丘の東側から上がりました。
段丘東側を流れる相模川です

座架依(ざかえ)橋から下流方向を見てます。前方のビル群は海老名、右側道路は圏央道。

圏央道の下をくぐると道はすぐ段丘にあがる坂になります。
その途中から座架依橋方向ふりかえって(厚木市関口)

向こう側にも相模野台地・座間丘陵がのびてます。間に相模川が削った低地が広がります。
その低地標高が30m弱、このへん段丘上が60mほどなので比高30m程度です。

中津原段丘の上面はどこもほぼ平らです。〈北へ向かって少しずつ高くなる〉

段丘上を通る『横須賀水道みち』から(厚木市関口)

このまっすぐな道は地下を水道用原水の送水管を通すため造られました。
およそ100年前、帝国海軍によって建設され横須賀市に上水道の水を供給した送水路でした。

ちなみに取水は愛川町半原の中津川、53㎞を経て横須賀市逸見浄水場まで水を送っていました。〈現在このルートは使用されていません〉
そこを歩いてたどったのはだいぶ前

横須賀水道みちを歩く その1 愛川町半原水源地から海老名 - 散歩の途中


横須賀水道みちはのちほどもう1回横切るとして

段丘西側までまず歩きます。〈と言っても大した距離ではない〉
西側の際、崖線を伝って道路が伸びているのでそれに沿って歩くためです。

西側の端まできました

南の方向を見てます。右の坂道は西側、中津川が流れる低地へ下る坂道(『オアナ坂』の名称)です。左正面から来る道が段丘西側崖線に沿ってのびており、この道に沿って〈背後へ〉進んで行きます。

600mくらい先、西の方向をみて

右前方に下っていく坂道、名前は『寺坂』。坂下に源養寺があります。
左から来て右へ続けて歩きます。

歩いている道ですが

なんとなく古道の雰囲気があります。周囲の家々も昔から集落を成していたよう。
道路の左側は20mほどで(敷地一軒分程度隔てて)切り立った段丘崖になってます。

崖側景色がなかなか望めなかったのですが

道路わき駐車場の先に展望がきくところがありました。
厚木市下川入(崖の上)、下は棚沢。下に見える道路が通る坂は『諏訪坂』、下って善明川を渡り水田の向こう側には中津川が流れています。そのまた向こうは鳶尾山、奥は大雑把に丹沢です。

諏訪坂に下る手前の道路と交差して横切りその先へ進むと県道に合流。
すぐ愛川町との境界


愛川町中津に入って少し、眺めのよいところ


下の住宅の間を通る道が坂本坂を通って崖上の現在歩いている道と交差するところでは
上にコンクリート製の構造物が渡ってました

これは戦時中に建設された排水用の水路橋です。当時近くに建設された陸軍中津飛行場(相模陸軍飛行場)の雨水を排水するために造られたものです。滑走路を舗装できなかったため、水はけを良くし、ぬかるみを防ぐのに設けられました。〈苦肉の策かな〉
飛行場跡は現在『内陸工業団地』に変わっていますが、工業団地内の雨水処理に現在も使用されています。
水路橋の水は右側、崖を下って中津川へ排水されます。

背後へ少し進むとまた飛行場の遺構がありました。

左に解説の札があるのでよみます。

旧相模陸軍飛行場「正門門柱」
この正門門柱は、高さ216㎝、71㎝角のコンクリート造りで、中ほどには駐留する部隊名を記した表札をはめ込むための長方形の切り込みがあります。頂部には、夜間照明用の電灯を設置した穴があります。
第二次世界大戦中の正門所在地は、現在の桜台付近で、2本の門柱がありました。戦後、戦争遺跡が失われるのを惜しんだ方の手で、1本の門柱が、400m西に離れたこの地に移設保存されました。
平成28年9月  愛川町教育委員会

 

道はまた厚木市内と同じ細い古道風情、時々西側へ下る坂道を分けつつで先へ続きます。
ここは『新坂』が分かれてます

愛川町中津、中津小学校近く。かつての中津村役場が近くにありました。(中津村は1956(昭和31)年愛川町編入)

その先、唐突に空中へ飛び出すような中津大橋

S字にカーブする急坂(勾配12%)の橋です

ここは1994年竣工の新しい坂道兼橋です。車で下るとジェットコースターのよう、坂を下りきるとすぐ中津川八菅橋です。〈安全運転しなさい>自分〉

奥ではなくすぐ前に見える山は八菅山(225m)。

 

付近の段丘上は旧中津村の中心、昔からの集落の面影が残ります。


崖ぎわの道はこのあたり町によって「中津往還」と名付けられています。

板塀は「山十邸」のもの、かつての豪農の屋敷でした。

門の前

古民家山十邸として町が保存、内部公開されていますがこの日は閉まってました。
1883(明治16)年の建築、現在は国登録有形文化財ということで見てみたかったちょっと残念。

隣りの建物、蔵も〈修繕されてはいますが〉風情があります

右側木立ち先はすぐ崖が切り立ってます。

そこに細い坂道『熊坂』

車は通れない道幅、それゆえ古くから存在している道なのでしょう。坂の上下での行き来は古くから結構あったのだと思います。

ここまで書いてから気づいた事ですが、なぜこの周辺は台地上に昔から集落、村が存在できたのでしょう。
昔は台地上に集落をつくることは一般的ではありません。水道のない時代、井戸もとても深く掘る必要があります。安定した水の供給ができず、生活することも農地を開くことも難しかったはずです。
〈この件は軽く調べても情報がでてこないので保留にしておきます〉

 

先へ進みます。

古民家山十邸からは300mくらい

中津川の流れる低地へ下る次の坂道から北西の方向を見ています。
景色ひらけてもなぜか中津川の姿は見えませんね。

その次の坂道は400mほど離れて
へいしの坂

車は通れない細い坂道です。漢字では「幣使の坂」と書くようです。

以前、中津川に沿って歩いた時、川沿いを進む道がなくなり、段丘上までこの坂を上がってきたことがありました。坂の途中はきれいな竹林があってよかったのですが高低差が大きく(45mくらいある)息切れしました。

さらに400mほど行くと横須賀水道みちと再び交差します。
水道みちは交差地点からすぐ急坂です。

正面へ下っていくのがその坂名も『水道坂』、ほぼ一直線でちょっと大げさに言うとスキージャンプ台のようです。〈ここも横須賀水道みちをたどった時、こちらに向かって息を切らして上がりました〉
坂のなかほどまで行くと前方が大きくひらけて印象的な風景となりますが、今回はパス〈のぼり返すのが面倒〉。

横須賀水道みちを歩いたときのアイキャッチ写真が水道坂でしたので改めて貼っておきます

miwa3k.hatenablog.jp

 

右の道へはいって少し先から

2枚とも水道坂を下ったところにひろがる水田地帯(箕輪耕地)が少しみえてます。

崖上の道をそのまま行くと県道にいったん吸収され、愛川町役場、愛川バスセンターの前を通過

愛川町役場の建物など(愛川町角田)


役場前の県道を先へ進むと愛川バスセンター前

そのまま行くと中津原段丘の付け根、あるいは相模川、中津川の扇状地となり、そこからは山地へと入っていきます。
道路前方に小高い山がみえてますね。

この先も扇状地的地形となるところまで入って歩きまわってきましたが、そちらは次回にまわします。