前回の続きです。話はよりマニアック…
新4号国道越谷春日部バイパス庄内古川橋、上流側から(春日部市水角)
橋のむこうは春日部市クリーンセンター(ごみと下水処理施設)、下水処理水は中川へ放流されます。
庄内古川橋から800mほど上流には農業用水の排水路である、新堀悪水路(または庄内領悪水路)と中庄内悪水路が中川(庄内古川)へ合流。そこに古い樋門(2つ)と排水機場の残骸があります。
いちばん上流側にあるのが1892(明治25)年竣工の古い樋門、五ヶ門樋(ごかもんひ)。
五ヶ門樋付近
道路右側フェンス下を新堀悪水路が流れ、左の中川へ放流。道路下に古い樋管が通ります。
フェンス手前に解説板
樋門、排水機場を設けた謂れなどが説明されています。
埼玉県指定有形文化財(建造物)
五ヶ門樋(ごかもんひ)付(つけたり)中庄内樋管(なかしょうないひかん)一基、排水機場跡(はいすいきじょうあと)一基平成二十七年三月十三日指定
五ヶ門樋は、現存する煉瓦造りの樋門としては、県内で四番目に古いものです。煉瓦を四重に並べアーチを形造り、その上には「五ヶ門樋」のプレートが設置され、最上部には煉瓦で凹凸を表現した装飾が施されていることが特徴となっています。現在では庄内古川からの逆流防止のため扉は外され、自然排水の樋門として使用されています。
古くから庄内古川の流域では、大雨の際の増水で農作物に影響が生じていました。五ヶ門樋は明治二十五年(一八九二)に庄内古川左岸の新堀悪水路(排水路)に設置されたもので、通常時は自然排水、洪水時には扉を閉めて逆流防止の機能を果たしました。しかし、自然排水のみでは、年々上昇する庄内古川の水位に対応できず、明治四十年(一九〇七)に排水機場が建設されました。庄内古川の改修後は自然排水が可能となり、排水機場は撤去され、鉄筋コンクリート製の中庄内樋管が新たに設置されました。
解説板の台座には「土木學會選奨土木遺産 2001 五ヶ門樋」のプレートがあります。
五ヶ門樋の上、裏から
肝心の樋門がきちんと写ってません、右下奥にレンガの一部がほんの少し。〈詳細は解説板内の絵を参考に💦〉
〈以下に記す設備跡も含め、対岸からはもっとはっきり見えるはずですが、移動する橋が周辺になく断念〉
五ヶ門樋の次に建設された排水機場の残骸
3設備のなかでいちばん下流側に位置しています。1907(明治40)年竣工、1930(昭和5)年まで存在しました。
この部分は何に使用されていたものか不明。こちら農地側にはこれ以外痕跡は残っていません。
川表に残るレンガ造り〈放流口跡?〉の一部
右側へ長く煉瓦で造られた放流口の天井部分?がのびていました。
排水機場撤去後、新たに(1938(昭和13)年竣工)設けられたのが中庄内樋管、五ヶ門樋と排水機場の間にあります。
中庄内樋管〈放流口〉
こちらも後頭部からのみ…コンクリート製です。
五ヶ門樋、中庄内樋管は現役で使用中。それぞれ新堀悪水路(庄内領悪水路)、中庄内悪水路の排水が行われています。
五ヶ門樋から700m上流。
永沼橋付近から正面ははなみずき橋(春日部市永沼)
右岸側は住宅地になり、左岸側はより低地でいまだ水田がメイン。
はなみずき橋から600m上流には
東武野田線庄内古川橋梁
こちらも『庄内古川』を使用。
足元は農業排水路合流点(ゲート開閉用設備部分が見えています)。
庄内古川橋梁は鉄道開通時(1930(昭和5)年)に設置、すでに約90年使用されています。
両端に短いプレートガーダー、中央はトラスという構造。見た目は素朴〈良い〉です。
上流側から、対岸に渡りつつ
同じ橋(中川人道橋)上から上流方向
左側は倉松川合流点、倉松川水門。
水門は倉松川への逆流防止用です。
倉松川は元々大落古利根川へ合流していましたが、排水不良のため流れの途中から新水路を掘削、中川へ合流することになりました。(1940(昭和15)年開通)
大落古利根川への流路は旧倉松落として残るものの、河川としての機能は低くなっています。〈辿ったけれどまとめきれなさそう〉
倉松川水門、倉松川側から
現水門は2002(平成14)年竣工。〈水が濁ってます。雨の翌日だったかな?〉
ごつい橋脚が密に並んで、案外古い橋でしょうか?
新川橋の奥は国道16号(春日部野田バイパス)中川橋。
中川橋上流側左岸から
対岸は首都圏外郭放水路の第3立坑、その呑み口(中川と倉松川が同じ立坑を使用)。中川水位が上がるとあちら呑み口から水が立坑へ落ちます。
2006(平成18)年に完成した首都圏外郭放水路は地下50mに設けられた放水路。中川、倉松川、大落古利根川などに立坑を設けて河川洪水の水を落とし貯留、最終的に江戸川へ排水するシステム。江戸川近くの庄和排水機場の貯留施設(調圧水槽)は地下神殿と呼ばれています。
次の庄内橋上から上流方向
水色のパイプは水管橋。
庄内橋を渡る道路は埼葛広域農道。農道と言っても大型トラック、ダンプなどばんばん通ります。(道路所管が国交省でなく農水省)
川の左側は大きな堤防を造ろうとしている気配。こっちは国交省管轄事業か。
庄内橋から約600m、左岸に打田落(うったおとし)合流。〈資料がないと読み方もわかりません〉
合流点
打田落は農業排水路。すぐ下流でその分流も合流します。
対岸堤防際から分流の合流
よく見えてませんが。元は同じ流れ、合流点近くで分流させる目的は不明。
打田落の200m上流、右岸に安戸落合流
安戸落(やすどおとし)も農業排水路。中川合流点に逆流防止の堰跡があります。下りられたので観察。
安戸落逆止堰跡
ゲートなどは撤去され、堰として機能はしていません。
上部に銘版「安戸落逆止堰」、左側は竣功年月が刻まれています。〈文字が隠れてしまいました〉資料によれば昭和6年竣工、ちなみにその前は明治28年建設、煉瓦造りの堰がありました。
安戸落堰跡から100mほど上流側に煉瓦造りの古そうな水門があります。
四ヶ村落水閘(しかむらおとしすいこう)
四ヶ村落(農業排水路)の中川合流点になります。まわりが不安定でこれより先へ進めません。
水門用途は四ヶ村落への逆流防止。竣工は1896(明治29)年、下流の五ヶ門樋完成の4年後。古い水門ですが目立った劣化はなくしっかりしています。レンガで施したいろいろな装飾が残っているようです。
四ヶ村落水閘から200m上流にかかる松富橋、古くは四ヶ村落水閘近くに架かっていたようです。
松富橋と水管橋、下流側から
左側はしばらく四ヶ村落の流れが並行します。
松富橋の上流側にも四ヶ村落の水門〈古くはない〉があり、流れの一部はそちらから中川へ放流されます。
その水門の上流はしばらくのどかな風景が続きます。
杉戸町大塚、中川右岸側
菜の花の向こうに流れがあります
大榎橋に近づきます。
大きな庚申塔が3基&解説
解説は中央のものについて。
大榎橋の庚申塔
この庚申塔は、延享四年(一七四七)、大塚村の農民三十八人が協力して石屋彦七に作らせたものである。そして、上部に青面金剛像と下部に三びきの猿が彫ってある。これは、庚申の夜、青面金剛に疫病の予防治療と人間の身体にあって人を短命にするという三尸を除いてもらい、 長生きができるよう祈るものである。また、見ざる・聞かざる・言わざるは、三尸になぞらえ眼や耳や口をふさいで悪事を天の神に報告させないという願いをこめたもので庚申信仰を表している。
また、この石塔は、道しるべを兼ねたもので、「左ハセきやど道、右ハ江戸並新川道、中ハ庄内領宝珠花道」と記され、この場所が宝珠花河岸へ通じる渡船場なので多くの人々がこの道しるべを見たと思われる。
杉戸町教育委員会
大榎橋
庚申塔の解説にあるよう、この場所が古い街道筋で渡船場があり、のちに橋が架けられました。
ただし現在の橋はさほど古いものではなさそうに見えます。川筋が若干変わっているせいかもしれません。
とりあえずここまで。〈今回6㎞くらいしか進んでない。少しペースを上げないと…〉
この続き
中川を歩く 杉戸・大榎橋から権現堂公園お花畑 - 散歩の途中
地図:今回分は《中川(6)》
前回分