最近、中川からさかのぼった先につながる埼玉県内の支流をいくつか歩いてます。
一方東京都内、中川下流のほうはすべて歩いていたつもりでしたが、よく調べてみると所々ぬけてる区間がありました。大した距離ではないですが、すっきりしないので河口から歩いてうめてきました。
アプローチは葛西臨海公園からですが、1回でまとめたいので園内の観覧車とかオリンピック施設とか省略。
東京湾と臨海公園西なぎさの一部
言うまでもなく、正面は東京湾、『西なぎさ』は公園沖合の人工干潟。写真この右側に中川河口があります。
中川河口付近
歩道が海岸沿いから90度カーブして川沿いに方向を変えるところ、この前方が中川河口、大きく『なかがわ』と表示もあります。
方向を変えて上流へさかのぼります。
中川は下流で荒川と堤防(背割提)を挟んで並流しています。河口近くで背割提がなくなり、両河川はいっしょになりますが、それぞれの延長上に中川、荒川の河川区域はのびていると法令上解釈されるのだそうです。〈へぇ~〉
なので東側(左岸側)から見ると立て札どおり「中川」、西側に立てたら「荒川」と表示するのでしょう。
右側に見える橋梁(かたまって3つ架かってます)、2つの川を跨いでいることになりますが、橋の名前はJR京葉線荒川橋梁、荒川河口橋(東京湾岸道路)、荒川湾岸橋(首都高速湾岸線)とすべて『荒川』を使用しています。
3つの橋梁・京葉線荒川橋梁、荒川河口橋、荒川湾岸橋
道路橋の真下からも
〈下に写っている人が小さい〉
新左近川合流点水門付近から上流側
目立つのは左からスカイツリー、清砂大橋、橋の右手前から中川・荒川を分ける背割提が出現、その上へ首都高速中央環状線が渡っています。右手前は新左近水門。
堤防の終端、真横から
ここから右(上流)へ荒川と中川が分離されます。だいぶ先まで並流してますが。
正面延長上堤防の先端から対岸までは荒川0㎞地点。荒川放水路完成後、中川(放水路)も昭和40年頃まで河口はこの位置でした。
ちなみに現在これより下流側はマイナス○kmとカウントします。
背割提の末端から500mほどさかのぼると清砂大橋(きよすなおおはし)が2つの流れを横断します。
清砂大橋下流側から
すぐ隣りには東京メトロ東西線荒川中川橋梁。
清砂大橋、荒川に架かる部分は優美な斜張橋ですが、中川部分は普通の桁橋のように見えます。
歩いていて気づきましたが、川の並流区間に架かる橋、荒川側ばかり見映えするのが多いです。(笑)
清砂大橋から650mほど上流に葛西橋が架かります。
葛西橋中川部分、下流側から
葛西橋も荒川部分は吊り橋のように見えるのですが、中川部分はごく普通の桁橋。
清砂大橋は中央の背割り提に直接下りられませんが、葛西橋は可能なのでそちらへ移ります。
葛西橋上から中川上流方向
首都高中央環状線の土台にもなって荒川、中川を分けている堤防の上をしばらく歩きます。
背割提から
左荒川、右中川、上首都高。
葛西橋から1500mほどさかのぼって、対岸は江戸川区船堀あたり。
新川合流点、新川水門広場など
新川合流点、右の茶色の建物は新川排水機場、新川の水をポンプで中川へ排出しています。新川は江戸時代初期に開削、拡張された運河、江戸への舟運のメインルートのひとつでした。
中央付近は新川水門広場、黒っぽい建物は広場内に設けられた江戸時代の火の見やぐら、その左微妙な形ですが、ここに排水機場ができる前に設けられていた水門(新川西水門)の一部。
左端は船堀タワー、高さは115m。〈大変良い眺望です〉
上、首都高の出入口が橋にぶつかる形であるため、圧迫感が強いです。
中川の上、どうやって通ったのか、船が一隻下ってます。
というのは、船堀橋の上流側、江戸川ボートレース場、しかも開催日レース中だったので。
ちょうどレーススタートの直後。観客席の向かいが堤防です。
ボートレースはじめて生で見ました。〈タダ見〉
ところで、中川水面にあるのに江戸川とは…場所が江戸川区ですね。河川水面を利用しているのはここだけだそうです。
先へ進むと首都高速小松川線の荒川大橋、続いて京葉道路小松川橋と続きます。後者、中川部分は『小松川小橋』とペイントされてました。
再び先ほどと同じタイプの船が下っていきます
ボートレース場はレースの合間をぬって通過するのでしょうか。警戒船もいたので何かのルールがあるのでしょう。
〈ところでこの型の船、以前八潮あたりの中川でガスタンク直結の桟橋にいた船のような気がします。〉
対岸正面は西小松川ポンプ場。下水処理水を中川に放出してます。
しばらく行くとJR総武線橋梁にさしかかります。
鉄道側橋梁トラスより首都高桁が低いんです
うまいこと凌いでます。
その上流側に平井大橋が架かります。ここを渡って中川左岸側へ出ないと、当分橋がなく、中川は綾瀬川合流地点から東側へ離れていってしまいます。
水門2つに橋2つ
橋は『かつしかハープ橋(きょう)』、同じ名称です、ってか2つでひとつの橋梁。大ハープのほうは中川、綾瀬川合流点で綾瀬川を跨ぎ、道路面はS字の曲線桁になっています。
小ハープ左、背割提にかかる水門は中川水門、荒川の水が中川へ逆流しないよう設けられたそうです。たしか普段は開いていて船の通り道としても利用できます。〈大きな船は無理ですね〉
右の大きな水門は上平井水門です。こちらは高潮、津波などが中川、綾瀬川へ遡上しないよう設けられました。4つのゲートが開閉しますが、現在いちばん右側は改修工事中です。
近づいてみる
いま津波がきたらどうなるのかと思いましたが、工事中部分は仮のゲートで閉め切って作業しています。
また、ここの水門は堰になってなく、流れに段差はないので船の通り抜けが可能です。
上平井水門の上流側で中川と綾瀬川が合流しています。〈現場は見逃しました〉
そのすぐ上流、上平井橋とかつしかハープ橋
この上流側、中川は荒川との並流から離れ、七曲りと呼ばれる〈こと最近まで知りませんでした〉、大蛇行区間に入ります。
先へ進んでふりかえり
平和橋の上流側へ出て(下流方向を向き)(葛飾区東立石1丁目)
近くから上流方向を
東立石緑地公園付近
なぜここでかもめが一団となっているのかと思ったら
とりあえずここにいれば焼き鳥にされずに済むようです。
新奥戸橋上(上流方向を向き)
昨年末にこのあたりから中川を歩き始めましたが、右岸側が工事中で様子がまったくうかがえませんでした。左岸に渡って歩きなおします。
奥戸総合スポーツセンター付近中川親水テラスから
〈たしかに右岸はずっと工事中ですね〉
中川親水テラスから右側奥戸橋
七曲りの一部、スポーツセンター周辺に過去あった中川蛇行について何か解説があるようです。
奥戸と中川
東葛西領用水絵図は、江戸時代の用水体系が描かれた絵図になります。図で黒く示されたものは堤を表しており、上流に描かれている小合溜井(こあいためい)は現在の水元公園になります。この小合溜井は、享保14年(1729)に8代将軍徳川吉宗の命を受けた【井澤弥惣兵衛(いざわやそべえ)】によって整備されました。(絵図①)
井澤弥惣兵衛は、紀州藩出身の治水技術者で幕府の新田開発や治水事業に係わっています。埼玉県の見沼代用水や千葉県の手賀沼なども井澤弥惣兵衛によって整備されました。
奥戸地域を含めた中川についても、井澤によって河川改修が行われています。この河川改修では、享保17年(1732)に奥戸~諏訪野間に新しい河道を開削しており、河道を切り替えることにより、河道の直線化が図られました(絵図②)
現在地であるこのビュースポットも、旧河道だったことがわかると思います。この旧河道は、現在、南北ともに葛飾区奥戸総合スポーツセンターが位置しています。
ここにあった蛇行は改修したけど、まだいくらでも曲がってますということはわかりました。
おまけ
奥戸橋をこえ、対岸は青戸
正面は京成線青砥駅、字が異なります。
青砥橋手前から川の両岸工事中となりました
でもすぐ先、高砂橋が見えてきます
中川の七曲りはこのへんが先頭、ここで高砂橋のほうへカーブして上流その先は〈河川改修はされていますが〉しばらく蛇行はあまりなくなります。
またここでは現在新中川が分派しています。
新中川側へ
前回、高砂橋から先の中川は順調に歩けたので、今回の落穂ひろい、穴埋め歩きはここまでにします。
最後に新中川対岸に移って現地点を振り返り
先ほどは木の植わってるところにいました。その奥には青砥橋です。
歩いた中川とその支流地図 今回分:中川(1)部分