散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

坂道探訪 山手線の内側縦断 その2 港区赤坂から北区田端(北端)

前回の続き、午後の部です。

赤坂みすじ通りから外堀通りへ出てきました。
エクセルホテル東急の対面

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向こうは赤坂見附交差点、でっかい建物はガーデンテラス紀尾井町

 

赤坂見附交差点から富士見坂の途中にある歩道橋を渡ります。

歩道橋の上から赤坂見附交差点、富士見坂の下の方

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谷底の交差点からこちら側へ上っているのが富士見坂、この背後もう少し上がって平河町交差点手前まで続きます。

 

歩道橋から反対側を向くと

富士見坂の続きと赤坂見附

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歩道向こうの石垣が赤坂見附(御門)跡、江戸城外郭門のひとつです。

門の前から伸びる道(現在の青山通り、国道246号)は神奈川県の大山に続く大山道の出発点でした。
2019年1月にここから大山道を歩きました。

 

富士見坂をもう少し上がったところで左に折れる道に入ります。(上の写真、正面のビルの前の通り)赤坂プリンスホテルはなくなりましたがプリンス通りの名前が残っています。

入ったところが坂道で諏訪坂の名前があります。

諏訪坂標識など、坂下を振り返って(千代田区紀尾井町1丁目)

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江戸時代、坂下の角地(現在の都道府県会館)に六千石取りの旗本・諏訪家の屋敷があったことから名付けられました。また、坂を挟んだ反対側には紀伊徳川家の上屋敷が建っていましたが、その表門の柱に達磨(だるま)に似た木目があったことから、達磨坂とも呼ばれていました。
明治時代になると、紀伊徳川家上屋敷の跡地に北白川宮邸が建設されました。

 

坂を少し上がると北白川宮邸の跡に、でいいのかな?
旧李王家東京邸(現・赤坂プリンスクラシックハウス

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1930年に建設されたチューダー様式の洋館、2011年東京都指定有形文化財に指定とのことです。

 

そのまま真っ直ぐ進むと新宿通り(国道20号)麹町4丁目交差点に出ます。

新宿通りを渡る手前から

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東京メトロ麹町駅前付近から新宿通り方向を振り返って

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ここも坂道、善国寺坂(ぜんこくじざか)です。(標識確認を失念しました)

坂は新宿通り側から見ると、いったん下ってから再び少し上ってます。谷地形なんですね。
起伏図で確認すると麹町4丁目(この周辺)から北東方向へ谷が続いています。千鳥ヶ淵へと続いていて、かつては河流が存在していたようです。

 

ここを下って上がる道路の名称は日本テレビ通り。本社は移転しちゃってますが名前は残ってます。

かつての社屋は解体中?

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新しいスタジオができるらしいです。

 

通りを北方向へ進むとちょっと右に折れて、新坂の上部に出ます。

新坂(しんざか)、坂上から

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坂名標から

江戸時代、この場所は武家屋敷で、道はありませんでした。人々は、東側にある帯坂か、西側にある三年坂を通っていました。明治時代に、東京の都市計画が決められていく過程で、道路整備がすすめられ、一九一二年(大正元年)の地図上でこの坂道を確認することができます。

 

坂の途中から

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坂を下ると市ヶ谷、市ヶ谷見附跡です。JR線の駅前に達し、その先外濠に市ヶ谷橋が架かっています。

 

橋は渡らず、外濠公園沿いに土手の上を歩きます。

外濠公園の西端あたりから市ヶ谷橋、市ヶ谷駅方向

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市ヶ谷橋でなく、手前に架かる”市ヶ谷見附跨線水道橋”が写ってます。1929(昭和4)年に完成した、送水管を載せた橋です。

 

外濠とJR中央総武線に沿って飯田橋へ、公園内の歩道を通っていきます。

公園の歩道から

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南側は九段、入れば坂道はありますが、そちら方面はまたの機会。

 

外濠の向こうは牛込の台地

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牛込見附の石垣

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市ヶ谷の隣りの江戸城外郭門でいいのかな。この石垣、下を通るJR線路の高さからそびえていて、そちら方向から見るとかなりの高さです。

外濠方向には牛込橋が架かり、江戸城があったころからの交通路(現在は早稲田通り)です。

 

牛込見附から飯田橋駅に向かってはゆるい下り坂ですが、坂名はないようです。

JR駅の下をくぐって飯田橋交差点。

飯田橋

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神田川と外濠が合わさる地点、外濠側に架かるのが飯田橋。初代の橋は1881(明治14)年に架けられました。現在は交差点を跨ぐ歩道橋のほうが巨大です。

本日の通過点、この交差点部分だけ新宿区でした。

歩道橋に上がり、神田川の先で下りるとそこは文京区後楽。
北の春日、小石川方面へ向かいます。

 

少し行くと牛天神(うしてんじん)があり、その北側に牛坂(うしざか)の細い急坂があります。
牛坂の写真を失敗しました。

代わりにすぐ隣り、牛天神・北野神社への階段をどうぞ

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牛坂に解説板がたってます

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牛(うし)坂
北野神社(牛天神)の北側の坂で、古くは潮見(しおみ)坂・蛎殻(かきがら)坂・鮫干(さめほし)坂など海に関連する坂名でも呼ばれていた。中世は、今の大曲(おおまがり)あたりまで入江であったと考えられる。
牛坂とは、牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があり、それが坂名の由来といわれる。(牛石はもと牛坂下にあった)
『江戸志』には、源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ、老松につないでなぎを待つ。その間、夢に菅神(菅原道真)が、牛に乗り衣冠を正して現われ、ふしぎなお告げをした。夢さめると牛に似た石があった。牛石がこれである。と記されている。
文京区教育委員会 平成16年3月

上の文中、「大曲」が謎→調べると、現在の文京区後楽付近、神田川が大きく屈曲しているから大曲といった。(「神田川を歩く その2」の中に自分で書いてあったわ…)

この付近は小石川方面から南に延びる舌状台地の先の方、坂が多いです。

牛坂をあがると本郷方面から上がってくる春日通りの富坂(とみざか)上交差点へ出ます。
ここはT字路ですが、すぐ北側の細い道に入ると、舌状台地の反対側へ下る坂に出合います。
通った坂道は途中で直角に折れ曲がっている六角坂(記録無し)、坂の下で隣の道路、善光寺坂と合流します。

善光寺坂の坂下から見上げて

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坂道の延長上が善光寺の門です。あのあたりに案内標識があるようです。

 

小石川の台地から下り、そのまま東へ向かうと本郷台地を上がることになりますが、しばらく間の谷間を通る白山(はくさん)通り沿いに北上します。

白山通り、の1本東側の細道(文京区白山1丁目)

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台地合間の谷底なので坂道ありません。

 

まっすぐ進むと白山下交差点で分岐した道路に合流。先は白山上交差点なので間は坂道です。

白山下から白山上、薬師坂(やくしざか)坂下から

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下からじわじわっと上がっていく坂道。途中に地下鉄白山駅があります。

文京区の坂標識って1ヶ所にしかないみたい(?)で、反対側の歩道歩いていると気づきません。
拾いものの案内文ですが

薬師坂(薬師寺坂、浄雲寺坂、白山坂)  白山一丁目と五丁目の間
「妙清寺に薬師堂有之候に付、里俗に薬師坂と相唱申候」(『御府内備考』)坂上の妙清寺に薬師堂があったので、薬師坂と名づけられた。また、坂下に浄雲院心光寺があったので、浄雲寺坂とも呼ばれた。また近くに白山神社があり、旧町名が白山前町で、白山坂ともいわれるなど、別名の多い坂の一つである。
『新撰東京名所図会』には、「薬師堂は、土蔵造一間半四面。「め」の字の奉額、眼病全快者連名の横額あり」、と明治末年の姿を記している。
このお薬師は特に眼病に霊験あらたかであったようである。土蔵造は、江戸の防火建築で、湯島本郷辺の町屋が土蔵塗屋づくりを命じられたのは、享保15年(1730)の大火後である。現存するものに無縁坂の講安寺本堂がある。
文京区教育委員会  平成14年3月

 

白山上交差点まで来ると本郷台地の上、さらに本駒込方面へ進むと周囲はほぼ平坦。

本郷通りを渡り、吉祥寺前へ

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門額は「旃檀林(せんだんりん)」。

この周辺は寺町ですが、その中で特に大きな寺院です。

 

本郷通りからまた細道へ入りますが、今度は台地を下る坂へ。

稲荷坂(文京区本駒込5丁目)

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傾斜はゆるく、高低差もさほどありません。ここでも坂標識を見逃しました。〈文京区の坂標識要注意だな〉
稲荷坂の名称は坂上にあった駒込名主高木家の”宗十郎稲荷”からきているとのことです。

 

坂を下ると不忍通り駒込稲荷坂下交差点に出ます。

駒込稲荷坂下交差点から不忍通り西方向

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ずっと先で道路が窪んでから上がってます。そちら神明坂(しんめいざか)、付近の昔の町名が駒込神明町です。

本郷台地の東側は谷田川の谷間ということになっています。谷田川とは昔の石神井川下流部にあたり、その流れが刻んでつくられた河谷地形です。現在の石神井川飛鳥山(北区王子付近)で台地の壁を突き破って低地に落ち、隅田川へと流れていますが、大昔には飛鳥山から南へ、谷を浸食しながら上野不忍池方面へ流れていたといわれます。

 

不忍通りの先から北区に入り、谷田川通り、赤紙仁王通りと横切ると谷間からまた台地へ上がる坂道へ。

ポプラ坂、坂下から(北区田端3丁目)

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坂上から、坂標識

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坂上には田端保育園。

標識解説文には「田端文士村」とも記されてました。

ポプラ坂
田端保育園はポプラ倶楽部の跡で、ポプラ坂の名はこれにちなむものです。ポプラ倶楽部は、明治41年ごろ、洋画家の小杉放庵(未醒)が作ったテニスコートで、田端に住む洋画家の社交場となったものです。陶芸家の板谷波山、洋画家の山本鼎、彫刻家の吉田三郎、詩人の室生犀星、小説家の菊池寛などが、このすぐ近くに住んでいました。大正2年、田端に越してきた芥川龍之介は、その1か月目に、ポプラ倶楽部のことを手紙に書いています。
昭和62年10月  東京都北区教育委員会

保育園並びの家屋もなかなか渋いですが、田端文士ゆかりの家でしょうか?

 

坂の上は上野台地の平坦面。その名も田端高台通りに出ると山手線最北端もすぐそこです。

田端高台通りから山手線最北端に架かる道路橋方向

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道が右に曲がっている先が山手線を跨ぐ陸橋(富士見橋)です。

 

陸橋上から山手線最北端地点(北区田端6丁目)

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先頭車両が通過中の位置が最北端地点です。

その先で台地が切れてますが、上野台地東端の崖線、東京低地へ落ちていく場所です。
山手線はカーブを曲がった先で新幹線や京浜東北線線路が近づき、田端駅に入ります。

明治時代ここに線路が敷かれたとき、ここはトンネルの入口だったそうで、その跡が少しだけ残っているそうですが、気づきませんでした。

 

このあと田端駅へ引き返して歩きましたが、駅手前にも大きな坂、江戸坂があった事、油断して無意識に通過しました。

田端駅前

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田端が山手線の駅としては最北端です。

南端の品川区大崎から北端、北区田端まで歩いてきました。

 

最後に足あと地図 今回分は中央付近黄色〇から北の赤〇へ

 

その1 

miwa3k.hatenablog.jp