江戸城桜田門からの中原街道歩き、日を改めて2日目は川崎の中原から。ちと天気が悪い…
中原街道歩き2日目足あと地図
JR南武線武蔵中原駅に下り、上小田中交差点から中原街道にのります。
西へ向かって歩き出すとすぐ、道路右側に大戸神社
たしか境内は鬱蒼としていた記憶があるけど、枝葉をはらってずいぶんすっきりさせちゃいました。横の塀も取り払われて何やら工事の気配。
洗足坂上の交差点から合流していた鎌倉街道下道はここ神社前で南へ分かれていきます。
川崎市内の中原街道は片側1車線ずつ、歩道は両側に整備されてます。
川崎市中原・高津区境界付近
江川せせらぎ遊歩道・巖川橋(いわかわばし)跡
区境界すぐの場所。二ヶ領用水根方堀の末流でもある小河川、江川の流れが街道と交差し、巌川橋が架かっていた跡です。橋名標は平成13年まで設置されていたものとありました。
千年(ちとせ)交差点で右側に細い坂道、旧道名残りがあります。しだいに勾配のある土地に入って坂道が増えてゆきます。旧道のみ急坂で残り、脇に新しい道路ができていることも。
千年交差点から坂を上がり、切通の尾根付近から振り返って
ふり返った先には1日目に通った小杉あたりのタワーマンション群が。
車が密集している新道は昭和に入って切通しとなり、勾配が緩和されています。
この近辺丘陵上には影向寺(ようごうじ)、能満寺などの古刹が存在し、武蔵国橘樹郡の郡衙があった場所とされ、なにげに歴史のあるところです。
再び坂を下りると野川という地域へ。野川交差点で川崎市を背骨のように貫く尻手黒川道路を渡り、久末(ひさすえ)を過ぎると横浜市都筑区に入ります。
この背後、第三京浜の高架ガードをくぐって坂を下りてきました。この坂が道中坂、元は道場坂と言ったとも。
右に入る道は旧道で、先でいったん新道(左側の直線道路)に戻ってきますが、さらに先に旧道が残っています。
旧道沿いに残る古そうな家
港北ニュータウン地区にも近く、赤い屋根の向こうにはそちらのマンションが見えてます。
旧道、そのわずかに先にはのちめ不動尊があり、さらに300mほど行くと山田神社とあります。
”のちめ”とは付近の昔の地名、”二〆”と書いてそう読ませたのだとか。
最近新しくなった山田神社参道階段と中原街道
山田神社手前で最近拡張されて新しくなった道すじへ戻ってます。
新しい道路の脇にポツンと馬頭観音
お墓かと思いましたが違いました。側面には”嘉永四年”と刻まれており、古くからあるものです。たぶん道路拡張で移動させられたもののきちんと保存されたようです。
もう少し行くと鶴見川の支流、早渕川を勝田橋で渡ります。
そこからまた旧道が分かれていますが、ここも急坂を避けて新しい道が開かれたので、旧道へ入って行くとしばらく先で上り坂です。
坂道(名前はないようですが)を上がりつつ、来た方を振り返り
かなりの急坂です。まだ遠くの方には武蔵小杉のマンション群が見えてます。
坂道を上がり切って旧道をそのまま先へ行くと、都筑区茅ヶ崎東1丁目1番という場所で港北ニュータウンのマンションにぶち当たって道が途切れ、先はしばらく旧道消滅しています。
いったん新道に出ますが、旧道が通っていた付近の公園に入り込みます。
茅ヶ崎公園遊歩道から
現在の中原街道、県道45号線は湘南の茅ヶ崎市に至る道ですが、横浜都筑区のこの周辺も茅ヶ崎という地名です。関係の有無は、私はわかりません。
独逸学園(DEUTSCHE SCHULE TOKYO YOKOHAMA)前を通過
ドイツ政府認可のインターナショナルスクールです。1991年にこちらへ移る前は大田区山王にあり、当時の学校近くの通りが今でも通称ジャーマン通りです。
ニュータウンのメインストリートと交差
大塚原交差点。手前の歩道橋から撮ってます。
左へ入っていくのが中原街道(県道45号丸子中山茅ヶ崎線)、中原街道は1つ手前の交差点からこの広い道路に出て、ここで左へ折れてます。
こちらも左へ入り先へ進みます。
道はこの先アップダウンの繰り返しになります。
東方原交差点先から
開戸交差点先から
ここの長い下り坂の先は佐江戸(さえど)、昔は継立場があり、茶屋など休憩施設、荷物や馬の引継などを行ったそうです。
佐江戸交差点やや手前から
広かった道が片側1車線歩道なしになりました。この周辺は古くからの住宅地で道路の拡張がままならないようです。
中原街道は佐江戸の少し先、地蔵尊前交差点で緑産業道路に合流し、再び道幅が広がります。
緑区中山町・宮の下交差点手前
相変わらず交通量が多い、幹線道路です。古い道を歩いているという実感はまったくありません。
鶴見川の流れる低地を歩いていましたが、宮の下交差点を過ぎるとその先再び道はアップダウンの繰り返しです。下末吉台地から多摩丘陵の凸凹地形を満喫できます。
再びの登り、長坂、途中から
名前のとおり長い坂、勾配はそれほどきつくないですが歩くと長さでへばります。
珍しくあまり車が写り込んでないですね。
やっと坂をあがるとそこは緑区ではなく、旭区です。
旭区上白根、次の大きな坂へ続く
もう一丁
ここは下ってすぐ上りになっていないようです。
下りたところは旭区都岡(つおか)町、横浜方面と八王子を結ぶ街道と交差します。(国道16号、現在はさらに南側に16号保土ヶ谷バイパスがある)
都岡町交差点を過ぎたところで帷子川(かたびらがわ)を渡ります。
御殿橋・帷子川
由来が書かれていました。黙読します。
御殿橋 橋名の由来
『旭区内散見』より
旧中原街道の一部である『御殿橋』は、東海道の裏街道にかかる橋として、歴史的な価値を持ったものである。道は虎ノ門に通じ、古くは、徳川家康が江戸入城のとき(天正十八年=一五九〇年)に、この橋を通行したといわれています。
家康は、その後この橋を改修し、鷹狩りや民情視察などでよく利用したとのこと。
また、江戸時代初期(慶長十八年=一六一三年)に家康が相州高座郡の中原御殿(平塚市)へ行く途中、この付近でお茶をたてたので、このあたりを「御殿丸」という字名がついたという。橋の名称も徳川家康にちなんでつけられたものである。
昭和六十三年三月吉日旭区水辺さわやか推進委員会 ヨコハマさわやか運動旭区本部
もう少し行くと国道16号保土ヶ谷バイパスの高架下をくぐります。
下川井インター、U.S.NAVYの消防車でしょうか、を見かけました
YOKOSUKAって書いてありますけど、どこで何してたんでしょう?
高架下をくぐるとすぐ脇に階段がありました。
あらかじめ作っておいたMy道順案内ではここを上れ、としていましたが意味がよくわかってませんでした。
上には使われなくなった舗装道路が階段近くまで来て、途切れていました。
あー、わかった。保土ヶ谷バイパスをつくるときに十字に溝を掘って一方をバイパス通路、もう一方を中原街道の切通し、アンダーパスにしたのですね。バイパスがないころは階段の上面の高さで地面が続き、バイパスの向こうへ道路がつながっていたのです。
途切れた道路をたどると、普通の道路、つまり中原街道旧道に出ました。尾根道になっていてそこを先へ行くと、階段下の案内に書いてあった一里塚跡がありました。
一里塚跡の標柱・右
塚自体は道路の右左どちらにも残っていません。横の文字は「(塚の大きさは、直径3m、高さ1mあったという。中山の宮下より一里、大和市の桜株より一里だそうだ。)」
一里塚近くに史跡岩船地蔵尊という祠がありましたが、いわれなどよくわかりません。
一里塚のある尾根から東の方を望む
旧道の通っている尾根からの遠望。正面道路の先に白っぽく横浜ランドマークタワーが頭を出していました。
丘にあがった旧道をしばらく歩きます。左側は住宅地、右側は追分市民の森、矢指市民の森、閑静な場所です。
ふり返って(いるので住宅と森の配置は逆)
坂道もミニサイズで付いてきます。
聖マリアンナ横浜西部病院近くで新道に復帰、そこから横浜市瀬谷区です。
そのまままっすぐ行き、相鉄線線路を地下道でくぐります。ゆるい坂を下ったところが二ツ橋、そこの交差点名は二ツ上橋ですが、その脇には瀬谷区役所による「二ツ橋地名由来の碑」と古い石橋供養塔など、それに「右八王子往来左神奈川往来」側面には「中原街道」と刻まれた道標があります。
二ツ上橋交差点
左端、見切れてますが石碑、石塔など、植え込みに隠れて道標があります。
正面へ向かって進みます。
すぐに南台交差点で厚木街道と交差、また道は(それほど激しくはないですが)アップダウンを繰り返します。この道路勾配には無頓着。カーブは少なくてほぼ一直線なんですけどね。
南台交番前交差点から先を望む
下って上がってしばらく行くと北新入口交差点の先、宗川寺が見えてきます。
宗川寺付近の街道(瀬谷区北新)
この周辺は瀬谷の継立場のあった場所といわれています。現在の都筑区佐江戸、佐江戸の次の継立場です。
書き忘れてましたが、その他、小杉(川崎市中原区)、用田(藤沢市)、あわせて4ヶ所継立場があったそうです。
橋の向こうは大和市、すぐにお約束の上り坂ですが、境川の河岸段丘をあがると相模野台地上で(とりあえず)平らになります。
大和市上和田
あ、こっちも上和田だった。先ほどより西側
もう少し行くと国道467号との桜ヶ丘交差点という場所です。
桜ヶ丘交差点
この付近、昔の地名は”桜株”といいます。現在の”桜ヶ丘”に引き継がれたのかは不明ですが。
保土ヶ谷バイパスの先、矢指町にあった一里塚跡標柱に記されていた、次の一里塚、大和市の桜株がここですが、その存在を示すものはありません。
中原街道歩き2日目はここまでとしました。
順番が逆になりますが、江戸桜田門から歩き出した1日目のリンク
次、その4