江戸と平塚中原を結ぶという中原街道、すでに歩き通してまとめましたが、どうも最初に歩いたルートが腑に落ちません。特に寒川付近から平塚あたりが気になったので、再び徘徊して道筋を推定してみました。
ルートの再検証といえば格好いいですが、単なる個人的なこだわり。結果もきちんと確証が得られたわけではありませんので、そのへん割り引いて見てやってください。
最初から結論出してしまいますが、寒川から平塚にかけての勝手推定ルートを以下の地図上にプロットしてみました。
具体的な道すじは明治期迅速測図、明治後期の地理院地図を参考にしています。
中原街道推定ルート地図(寒川、平塚周辺)
オレンジ色系が中原街道推定ルート(田村通り大山道も一部区間重複するので中原街道に含めています)。
青系の細い線は実際に歩いた道です。(オレンジ色ラインに隠れているところもあります。)
丸囲み数字は何らかのスポット。
いずれもクリックで簡単な説明がでてくるはずです。
この周辺、最初に歩いたときのノートへのリンク
現在の地図で道すじを追っても確認できますが、中原街道は「平塚付近から江戸に向けてほぼ直線の道が造られた」といわれています。
途中、相模川は渡し船で越えるのですが、今回最初に歩いたルートでは田村の渡しを利用する寒川、平塚付近がだいぶ大回りに感じられました。直線的に道をつくった事に照らし合わせると不自然です。
もやもやするので古地図や資料やネットや調べ、もう一回出掛けてと、気の済むまでやってたらノートの更新が遅くなりました。
もとい、
(寒川町)小谷にある分岐を「旧道」といわれる方へ入っていくと、相模川・田村の渡し場のあった場所へほぼ直線的に出ていけることが分かりました。
まずこの「旧道」を実際に歩いてみました。
◆寒川小谷の分岐から田村の渡しへ通ずる直線的な道
旧道、初期の中原街道などと呼ばれる道が現在の寒川町小谷付近から分岐しています。
現在の分岐点
地図①地点。左は最初に歩いた道、現在の中原街道(県道45号丸子中山茅ヶ崎線)です。
右へ分かれる細い道へ入ります。
入ってすぐ振り返ると、右に分かれるというより街道をそのまま直進してこの道へ入る感じです。
この”旧道”はほぼ直線的に相模川、田村の渡し場へ向かっていたようですが、現在の道は途中が切れぎれです。
入ってすぐに工場の敷地で道は分断され、団地、線路、河川、大きな道路などがあってかつての道を素直に歩くことはできません。
分断された道をたどる途中、道端に寒川町がたてた中原街道の解説板がありました。やはり街道であったことは間違いなさそうです。
中原街道の証左となる解説板(寒川町宮山)
中原街道
江戸虎ノ門(東京都港区)を起点に中原(平塚市)に至る脇街道で、寒川町内では大蔵・小谷・岡田・一之宮を通り、田村の渡しで相模川を越えました。
古代・中世にもこのルートを通る道があったとされますが、江戸時代初期に徳川家康が鷹狩りの拠点である中原御殿や、駿府(静岡市)への往復に頻繁に通行するようになり、中原街道として整備されました。江戸時代中期以降は物資輸送にも広く利用され、中でも中原近在で生産した「成瀬酢」を江戸へ運ぶのに使われたため「お酢街道」の別称もありました。
町内では、ここ宮山の根岸地区や、小谷などに江戸時代の街道の名残をみることができます。
平成三十年三月 寒川町教育委員会
明治期迅速測図では”旧道”の道すじは相模川近くへくるとますますはっきりしません。地図作成直前に川の大氾濫でもあって道が消えてしまったのでしょうか。
上の地図ではJR相模線を越えたあたりからのラインは地理院地図(明治期)を参考に引いています。
現在、そのラインは相模川手前で目久尻川(めくじりがわ)を横断しています。
中原街道推定ルートは、この付近から向こう、道路高架(圏央道)付近へ延び、その直下で田村通り大山道(地図②)と合流してすぐ相模川の河原に出ていて、そこが田村渡し場(地図③)です。
明治期には目久尻川は田村の渡し場より上流で相模川に合流しており、ここに流れはありませんでした。
その後両河川の合流点はだんだん下流に移動してきて、昭和に入って現在の位置に落ち着いています。
しかし昔は相模川など大河川周辺では氾濫、水害がたびたびあったはずで、江戸時代の様子はまた異なっていたかもしれません。
田村の渡しが川を斜め(地図③ー④)に横断しているのも、氾濫などで渡し場位置が頻繁に変わっていた事によるのかもしれません。
平塚側田村渡し場付近
現在の神川橋、右側の河原付近に渡し場があったようです。(地図④)
写真背後へ200mほど行くと現在は「旧田村十字路」交差点、昔はT字路で、右折すれば大山道と八王子道、左折すると中原街道(平塚道)となります。
中原街道は平塚道から四之宮で分岐します。そちらはまた後で。
◆四之宮渡し経由の道
中原街道を行き来するときに相模川を渡るには、田村の渡しのほか、四之宮(しのみや)の渡しが利用されていたようです。田村よりも下流側に四之宮があります。
最初に歩いた、小谷から寒川の街中を通って行く道は四之宮へ向かう道の一部だった可能性があります。
小谷分岐点(地図①)から最初に歩いた現在の県道45号の方を先へ行きます。(地図⑤)
現県道45号の方は新しく造られた道路にも思えますが、少なくとも明治期には存在する道でした。その後拡張されて現在の県道の形になっています。
県道45号寒川町岡田5丁目付近
現在は寒川の街中を通過し、寒川町一之宮1丁目、景観寺前で田村通り大山道(県道44号)に合流します。そこまでの道すじは昔からほとんど変わっていません。
景観寺前から(地図⑥)
左奥の道からきて交差点に出てきました。
県道45号は現在茅ヶ崎へ向かっていてここを左折、写真位置では右向こうへと行きます。
手前門前を横切るのが田村通り大山道、県道44号です。
田村通り大山道を写真左側へずっと進むと、先ほどの旧道といわれる道と合流し、田村の渡しへ出ます。
最初に中原街道を歩いたときは、景観寺前まで南下してきて、大山道で再び田村の渡しまで北上したので遠回りをしたように思ったのでしょう。
ところがいったん大山道に合流し、600~700mほど行くと南の方角へ分かれる道(地図⑦)が、明治期迅速測図にあります。
分かれた道は折れ曲がりながら相模川の川岸まで進み、そこに渡し舟の記号が見えます。
明治期地理院地図でも同じ道が見え、渡し場の位置は迅速図とはやや異なっていますが、これはどちらも四之宮の渡しと思われます。
渡し場への分岐は現在の一之宮小入口交差点付近です。
現在一之宮小学校の分岐から渡し場までの道は完全に消滅しています。
一之宮小入口交差点近くの大山道沿いにある梶原景時館址の公園
鳥居の足にかかってますが、向こうに小学校校舎の一部が見えていて、そのあたりを分岐して四之宮の渡しへ向かう道が通っていたと思われます。
その道すじはまったくトレースできないので、相模川の様子がわかる堤防へ出ました。
迅速測図が示す、四之宮の渡し場近く(地図⑧)
地理院地図が示す四之宮の渡しはさらに相模川を300mほど下った位置に記されてます。
殺風景な河原の風景ですね。手前の水は目久尻川の流れです。確認できませんが奥に相模川が流れています。
明治期には目久尻川は(田村の渡しよりも)もっと上流で相模川に合流していたので、この付近に流れは1本だけでした。
河川敷にあたるところを歩いて水辺の渡し場まで行き、対岸へ渡っていました。
この日は湘南銀河大橋を渡って対岸へ出ました。
寒川側からの湘南銀河大橋
橋の上から富士山がきれいに見えました
橋を渡ると平塚市四之宮、
相模国四之宮といわれる前鳥(さきとり)神社があります
神社裏手から相模川の堤防へ出るところに「四之宮の渡し」の解説があります。
四之宮の渡し
江戸時代、幕府は相模川の架橋を禁止し、相模川の渡河は、幕府が定める馬入や田村の渡しによって行われていました。
相模川の対岸に飛び地を持つ村々は、飛び地に開けた農地を耕作するため独自に渡し場を設けていました。四之宮の渡しもこうした渡し場の一つでした。
江戸時代のはじめ、徳川家康が江戸と中原御殿を往来したとき、四之宮の渡しも利用していたようで、そのときの話が「四之宮の逆さ舟」「箸立の森」などの言い伝えとして残っています。
実際の渡し場の位置は、川の流れの変動に応じて、目久尻川合流点付近から前鳥神社付近の間でたびたび移動していました。
四之宮の渡しは、昭和三十年(一九五五年)頃まで使用されていましたが、その後廃止されました。
平成十九年(二〇〇七年)三月 平塚市
解説板の立っていた近く、堤防にあがって寒川方向を望む(地図⑩)
相模川の水はだいぶ遠くに見えます。
現在の相模川河川敷はだいぶ拡張されています。それに昔は立派な堤防もなかったでしょう。
四之宮の渡しを渡った人はまずこのあたりへ出てきたようです。
大体、真西に向かって数キロ行くと中原御殿のあった中原宿です。
田村、四之宮どちらの渡しを利用しても西に向かって中原を目指して進んでいくことになりますが、その道すじ、特に平塚道(八王子道)(現在の国道129号に相当する)から西側は不明瞭です。
理由のひとつは太平洋戦争後の土地整備、宅地開発に伴う区画整理ですが、明治期の地図でも中原へ向かう道は村道、農道レベルのものしかなく、どの道がメインだったか判別できません。
あれこれの資料をあたっても、所々に旧道の名残りと言われる場所があるにすぎません。この周辺、上の地図にひいたラインもだいたいの推測。
旧道名残りといわれるカーブ(平塚市西真土1丁目)(地図⑪)
そして中原上宿といわれる場所へ到達します。(この位置ははっきりしています。)
中原上宿付近(地図⑫)
中原上宿下宿の間を折れて大手道と呼ばれる道に入った突き当りが中原御殿でした。
◆東海道から中原宿へ
元々の中原街道にあたる道は、東海道から分岐していたと言われています。分岐後、中原御殿付近を通ってから折れて相模川方面へ向かっていったのは間違いなさそうです。
東海道からの分岐点ですが、平塚宿からという中に、大磯宿からというものも見つかりました。
大磯宿で分岐の説ですが、迅速測図、地理院地図とも大磯から中原御殿方面を直接結ぶ道は見つかりません。間には花水川が流れていますし、当時、東海道からもほど近いところに別の橋を架けることはあり得ないだろうと考えました。
さらに、大磯宿の北側には高麗山があり、この中に道を通すことも考えにくいです。
花水橋の位置は大磯町高麗。
花水川を渡る橋は東海道と共用とし、川の東側で分岐するのが妥当だと思いました。(江戸時代以前でも東海道沿いに鎌倉方面へ向かう道は存在していたはず、ここの橋を渡ったと考えます)
花水川東側はもう平塚宿になります。
分岐は平塚宿ですね。
大磯宿外れの花水川を渡るとすぐに平塚宿京方見附(京都側の宿場入口)です。大磯と平塚は宿間の距離が小さいです。
平塚宿京方見附跡(地図⑮)
京方見附の外側は現在平塚市と大磯町境界、交差点名が「古花水橋」。ひょっとすると昔はここに花水川が流れていて、橋があり町(村?)の境界だったのかも。
江戸時代初期の平塚宿は宿場の規模としてはとても小さく、隣接した大磯宿が規模も大きくにぎわっていたようです。それが中原御殿、中原街道の整備を機に発展してにぎわいを増し、独立した宿場になっていったとも言われています。(平塚市立博物館の資料参考)
東海道から中原宿、御殿への道すじは個人的な推測ですが、2つ見つかりました。いずれもまた迅速測図、地理院地図を参考にしたものではありますが。
ひとつは中原宿の道すじをそのまま平塚宿へ伸ばしたら平塚宿本陣前に出てきたもので、これが本命のような気はします。(地図⑯)
バス停と横断歩道標識の後ろへのびる道が旧道ぽい
こちらの案だと、本陣跡すぐ横から中原街道が分岐します。
もう1本は平塚宿京方見附付近から分岐する道です。(地図⑰)
上の地図上では歩いた跡としての細いラインでしか記していないのでわかりにくいです。また、本当に使われていたかはまったくわかりませんけど、古い道であることは確か、それっぽい雰囲気もあります。
そちらの道の途中から
追分の真ん中に道祖神。右を先に行くと京方見附へ出ます。
というわけで、なんとなくもやもやしてた中原街道の道すじが〈自分の中でだけはつながって〉固まり、何もきちんとした検証はしてないけど満足できました。
平塚宿を歩いておまけで
江戸見附跡
平塚宿の江戸方の入口になるところです。
もうひとつおまけ、真土大塚山公園へ寄り道しました。
中原街道近くの真土神社にこちらにあった古墳、出土した鏡についての解説を見たのがきっかけです。
公園内に真土大塚山古墳の半分サイズ?のレプリカがあります。↓
墳丘にあがってみます
1つ前の絵は右のアーチの下から撮影。そのアーチの下はこちらの古墳から見つかった三角縁神獣鏡(三角縁四神二獣鏡)がモチーフですね。
頂きに方位などが示された石
富士山などの方角が示されていました。本物富士山も見えましたが逆光に近くて掲載は断念。
本物の古墳は公園南側の砂丘となった微高地にあったそうです。現在そこは宅地となり分譲住宅が密集していますが、周辺を歩いてみるとたしかに一段高くなったステージ状の丘です。
古墳時代くらいにはこのあたりまで相模湾の海水がきていたのでしょうか。海の水を周濠として砂丘に浮かぶ古墳とか、威厳ありそうです。
古墳時代前期につくられたもので、墳形、墳丘の数など定かでないそうですが、大規模な古墳であったことは間違いなさそうです。
さらに詳細な情報はコフニスト・オヤコフン(id:massneko)さんのサイトがおすすめです。
真土大塚山古墳へのリンクを勝手に失礼いたします