散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

中津原段丘の上段を廻ってから相模川へ歩く

前回の続きになります。
現在位置は愛川町角田。町役場もあるので町の中心かもしれないけど賑やかでもないところから。

山の方にむかって歩きますが

向かうのは正面の山ではありません。この道路を先に行くと中津川の流れる谷間に下りてしまうのでここはすぐ右に入る別の道へ入ります。

これまで単純なテーブル状台地の上面を歩いてきましたが、この辺りからは台地の面がいくつかに分かれて階段状になってます。〈階段のステップ数が増えるイメージ〉
ここも道が緩い下り坂になってますが、段丘いちばん上の面からひとつ下の面へゆるやかに下っているところです。〈実際の階段みたいに急激(直角)には落ちこまない〉

右折して細い道へ入りました。

単に菖蒲とビオラの紫が映えるかなと花を撮ったのですが、ここは地形が右から左へ低くなる段丘崖の途中(上面と中位面の境界の崖)でもありました。

方向を変えて見ると

一段低い段丘中位面が家や畑のある平らな面〈それほど段差はないですね〉、その向こうにまた段丘崖があって低くなり、谷間を中津川が流れ、正面左に見える小山へまた上がっています。

先へ進むと狭い段差部分に茶畑

ちょうど茶摘みの時期ですね。

少し複雑になった段丘、山も近くなってそちらから幾筋か沢が流れて谷をつくります。地形はさらに複雑に。

ここは沢筋まで下ってきたところです。すぐ橋を渡ります。
『栗沢』にかかる古い橋

『おきの坂』というヘアピンカーブもある狭い急坂を下ってきました。ここは意外に深い谷になってます。

谷の崖面には礫が露出してました

〈地質の巡検みたいになってます〉ここはおそらく中津川の河床だったのでしょう、ン万年前のことですが。礫層の上は関東ローム層が積もってるようです。

沢を渡るために下った分をのぼり返して再び段丘上の平らな面へ


正面方向へ歩いていくと小さいけどもう一段、段差がありました。

その段差途中で来たほうをふり返って


その上の平らな面には規模の大きな養鶏場がありました。
そこの真ん中を貫く道路から

両側に広く建物がありますがそちら枝道へは立入禁止、鳥インフルエンザ対策で大変です。道が白いのは消毒の石灰です。
あと、🐭対応なのか、🐱が飼われてるんですね。

養鶏場をぬけるとまわりはまた畑です。
そんな中にあるのが
「史跡 三増合戦場」碑(愛川町三増(みませ))

右に解説板がありますがよりシンプルな愛川町の解説を置きます。

三増合戦場跡(愛川町指定史跡)
永禄12年(1569年)10月、甲斐の武田信玄は総勢2万の兵を率いて北条氏康の小田原城を包囲攻撃しますが、攻略することはできず、帰路を三増峠にとりました。これを察知した氏康は幕下の将兵2万を三増に進出させます。
10月6日、三増山地一帯の武田陣に対し北条軍は随所に出撃し激戦となりました。緒戦は北条軍有利に展開しますが、武田方遊軍が背後から挟撃すると、北条軍は総くずれとなり敗走しました。
『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』には、戦死者は北条方3,269人、武田方900人と記されています。
関係史跡として今日に伝わるものに、信玄の旗立て松・浅利信種墓所・首塚・胴塚などがあります。

石碑の西、志田沢を越えたところにある首塚を偶然通りかかりました。

堂は不動明王です。
三増合戦戦死者の首を葬ったところで、近くには胴を葬った胴塚もあるそうです。

首塚から志田沢沿いに少し上流へ、ここまでくるともはや段丘ではなく山地です。
志田峠へ向かう道と合流したところで段丘平地側に方向転換します。
〈志田峠越えは以前しました〉

相模川高田橋から三増合戦場、志田峠を経て津久井湖へ歩く - 散歩の途中


方向転換した辻

「関東ふれあいの道」の案内道標も立ってます。
左へ行くと志田峠(標高は300mとちょっと)、右は三増、田代とあって戻る方向、奥へ行く道があってゴルフ場、その中に三増合戦のとき武田信玄が大将旗をたてたという「旗立て松」があります。
左は水道の配水場で丸いのは水タンクでしょうか。

再び三増合戦場碑のあった平らな台地のほうにもどってきました。
少し奥側から手前にあった合戦場碑や養鶏場などの南方向を見て


方向変わって北東方向

次はあちらの山裾に沿って進みます。

そこまで行く途中、先ほど「おきの坂」を下って古い橋を渡った栗沢の流れをもう一度渡ります。
先ほどより上流で橋を渡る

このあたりでは沢の削った谷はそれほど深くありません。
栗沢は三増峠付近、これより2kmほど上流に源があります。ちょうどこのあたりで山地から丘陵地へ流れ出てくるところです。

三増峠までは行ったことないのですが、あまり余裕がなくこの日はパスです。

 

歩いていると突然、野良にわとりに遭遇しました

悠々と道を歩いてましたがちょっと目を離した隙にいなくなりました。

 

鶏に気をとられて道を間違えたりしながら再び愛川町役場にも近いところに出てきて、今度は段丘、先ほどとは反対側のへり、相模川の崖側へ出ます。

ところがその崖上、まったくといっていいほど視界がひらけません。崖斜面の森が案外深い上に切れ間がありません。
段丘上はひらけて住宅地や畑が広がっているのですが。

唯一記録できたのがこれ

足元は一気に落ち込んでます。見えているのは相模川に近い低地の住宅と川を越えて相模野台地の段丘面です。

その近くで急坂を一気におりて下を通る県道に出ます。

坂をだいぶ下って県道合流付近から相模川方向


〈暗いけど〉下りてきた坂道と県道のこの先

県道の先、相模川に架かる高田橋が見えます。
中央電柱の左に立て札があります。室町時代初期の『小沢(こざわ)城址』が坂の上方にある事を記してありました。〈坂をもう1往復する勇気はないっ〉

高田橋付近の相模川

中津原段丘に上がったのも相模川側からでしたが、またそちら側へ下りてきました。〈10㎞弱上流になります〉

高田橋のたもとに渡し舟のレリーフ

「かながわの橋100選」も。

愛川町から橋を渡ると相模原市、河原に色とりどりの花、魚に見えます〈鯉のぼり?〉


橋を渡り終わると道はすぐ坂に。こちら相模野台地がすぐにそびえてます。
歩道は崖ぎわの階段です


上がって中津原段丘を向こうに

真ん中から右側、いちばん遠くに続くのが段丘崖線の森。

方向を変えて

すぐ下、平地部分は水郷田名の住宅地、左端に高田橋。緑の小山が中津原の台地ですが正面から右に見える部分は上が平らではなく、すでに山へ入った領域(川が運んだ土砂が堆積してできたのではなくもっと古い時代からあった山地)になります。

中津原段丘から下りてきましたのでここまで。

 

前回分

miwa3k.hatenablog.jp