散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

六郷用水を歩く その4 北堀

六郷用水を歩くその3では本流を下り、南北引分と呼ばれた地点から南堀へ進んだ。
今回は北堀を歩く。

北堀と南堀が分かれる南北引分地点へ戻ってきた(大田区千鳥3丁目)

f:id:miwa3k:20180830185955j:plain

右手前から本流が流れてきて、正面向こうへ南堀、左方向へ北堀と分かれる、とはその3にも書いた。

解説板の文字起こしもその3の中でやったけど、しつこいかな?

南北引き分け跡
多摩郡泉村(狛江市元和泉)で取水され、約十一キロメートルを流れた六郷用水本流は、この地で池上・新井宿方面への北堀と、蒲田・六郷方面への南堀とに分流されました。南北引き分け地点は、水量を公平に配分してきた重要な場所です。そのため、南北両堀の幅を一定に保ち、底を平らにするなどの管理には最新の注意が払われてきました。大正時代以降は、コンクリートの底敷となり、これを堰箱(せきばこ)と呼んだといいます。

六郷用水流路地図・北堀は下丸子付近から東へのびる緑のライン

今回北堀はこっち方向へすすむ

f:id:miwa3k:20180830185956j:plain

足元にも案内標識が埋め込まれている。こいつは大田区内あちこちにあるのだけど、年月が経ってしまって少々見にくくなっているようだ。

ごく普通の道路を先へ行くと、東急池上線線路と交差。
踏切を渡ってから振り返って、左は千鳥町駅ホームの端

f:id:miwa3k:20180830185957j:plain

 

駅前商店街を通るとすぐに用水北堀跡の歩道が現れる。
前方北堀跡の歩道

f:id:miwa3k:20180830185958j:plain

歩道から上流側を振り返る形で

f:id:miwa3k:20180830185959j:plain

広めの歩道を持つ一般道になるところもある

f:id:miwa3k:20180830190000j:plain

 

池上警察署前で第二京浜国道1号)を渡る。
渡った先で、左側池上警察署の建物

f:id:miwa3k:20180830190001j:plain

車道の右、少し低いところに用水路跡の歩道が続く。

暗渠道のようなところも

f:id:miwa3k:20180830190002j:plain

池上本門寺参道」石標が立つ場所へ(大田区池上4丁目)

f:id:miwa3k:20180830190003j:plain

右側歩道部分が水路跡。

その先、「堤方の八寸」と呼ばれる場所

f:id:miwa3k:20180830190004j:plain

「堤方」はこの付近のかつての字名らしい。
以下、解説の文字

堤方の八寸
六郷用水北堀は、ここで、直進して大森・蒲田方面への流れと、北に上って呑川をわたり新井宿方面へ向かう流れ、南へ下って女塚方面へ向かう流れとの三つに分かれていました。ここに設けられた堰はふつうの堰板ではなく、水流方向に直角に八寸角の角材がいけこまれた「八寸の水はかり」と呼ばれた独特のもので、この場所の名の由来ともなっています。

解説板の手前で流れがまず2つ、北と直進(東)に分かれ、この先でまた南へ下る流れが分岐していたようだ。
北への流れは近くを流れる呑川(のみかわ)へ一度落とされ、そのすぐ前方で呑川が2方へ分岐する形で北堀が続いていた。

一旦直進する流れを前方へ行く。
南へ下って女塚(おなづか)方面へ向かう流れの分岐点跡

f:id:miwa3k:20180830190005j:plain

車止めの先へ女塚方面への流れが分かれていた。女塚は現在の大田区西蒲田あたりで、分岐点からはさほど遠くない。

分岐点を直進するとこちらも呑川にぶつかる。
前方柵の向こうが呑川

f:id:miwa3k:20180830190006j:plain

直進してきた水も呑川へ落とされ、呑川中央に築かれていた中土手という分水堤で分水されて一方は大森方面へ、もう一方は蒲田方面(呑川本流)へ流れていた。

堤方の八寸で北へ分岐した流れへ戻る。

呑川を渡った北堀跡の歩道

f:id:miwa3k:20180830190007j:plain

呑川を渡ってきた水が向こうからこちらへ流れていた。左側の道路奥、少し高くなったところに呑川、浄国橋(じょうこくばし)が架かっている。

この先はしばらく一般道路、現在の池上通りの1本北側の道をまっすぐ行く。
大森赤十字病院前

f:id:miwa3k:20180830190008j:plain

このあたり特に水路があった痕跡はない。

この少し先、北堀に架かっていた美皿橋の親柱が残っているということだが、見逃した。

美皿橋があった場所の先で

f:id:miwa3k:20180830190009j:plain

その先、環七通りと池上通りが交差する春日橋交差点の直下を横切る。この交差点の名も北堀に架かっていた橋の名か。

環七、池上通りを越えた先で

f:id:miwa3k:20180830190010j:plain

車道より幅広そうな歩道。正面で北堀は右折して東方向へ。

右折してから東海道線の線路と交差する

f:id:miwa3k:20180830190011j:plain

ここの線路を横切る水路跡が環七陸橋上から確認できた。

環七陸橋から見た線路上

f:id:miwa3k:20180830190012j:plain

向こうの踏切と反対向きの信号機の間、画像中央部に線路を横切る「溝」が通っている、これが北堀跡。(盛大に拡大したのでフォーカス悪い)
道路部分は埋められているが、線路上は側溝のように流れ跡が残っていた。

先ほどの反対側へまわって線路下をのぞきこむ

f:id:miwa3k:20180830190013j:plain

フェンスやケーブル類の収納箱が通っていてわかりにくいが、その下にコンクリート製の溝が残っていた。

水は流れておらず、乾いていた。溝もさほど深くないので、現役の頃でもこのあたりまでくるとあちこちに水が分配された残りで、北堀の水量はそれほど多くはなかったのだろう。

その場で振り返って

f:id:miwa3k:20180830190014j:plain

反対側は北堀跡、幅広の歩道が続いている。

北堀はこの先途中で折れ曲がり、流れる方向を南に変え、再び環七を渡る。
環七との交差地点

f:id:miwa3k:20180830190015j:plain

歩道の出口に澤田橋の親柱が残されている。もちろん北堀にかかっていた橋の名残り。

方向を変えて

f:id:miwa3k:20180830190016j:plain

”澤田橋”と書かれている。

環七を渡った反対側にもあった親柱

f:id:miwa3k:20180830190017j:plain

昭和十二年七月竣功の文字。多分道路の拡幅で現在の道路両脇へ移されているとは思うが、4本とも親柱が残っていた。

その先はまた幅の広い歩道

f:id:miwa3k:20180830190018j:plain

途中、内川を渡る

f:id:miwa3k:20180830190019j:plain

前方、橋があるところが内川。ここは河川改修が行われて流路が変わっている。北堀の流れは最終的に内川へ落とされて終わるが、かつてはここに流れはなかったので、もう少し先まで北堀跡が続く。

内川の先

f:id:miwa3k:20180830190020j:plain

歩道の幅もせまくなって、水路跡なのかあとからつけた歩道なのか区別しづらい。

北堀の最終地点とされる場所(大田区大森西3丁目)

f:id:miwa3k:20180830190021j:plain

前方から流れがこちらへ来て、ここを左から右へ流れていた旧内川の流れと合流していたという。
現在は北堀も旧内川もまったく痕跡はない。最後の最後はおばけの足のように、すーっと何もなくなってしまっていた。

北堀はここまで。起点の南北引分地点からはおおよそ5㎞くらいの距離になる。

 

〇続きはこちらからどうぞ

miwa3k.hatenablog.jp