散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

大森山王の池尻川跡をたどる

春頃、大森と山王近辺を歩いた記録ノートです。大森貝塚付近に流れ込んでいた川跡はすぐにノート化しましたが、同じ日に訪ねた山王のほうは放ったらかしにしてました。
実はあちこちの川や川跡で、訪ねたのに何も書けてないところがたくさんです。

今回はとりあえず大田区山王の「池尻川」、正式名称か分かりませんが、大田区ホームページには記述があるので、倣ってこの名前を使います。

 

大森駅西口側、池上通り沿いの商店街に出ると、その西側すぐ、崖のような地形が続いています。周辺の建物の高さがあるので目立ちませんが、駅前交差点を渡った先にある天祖神社への階段を上がると結構な急斜面だと分かります。
上がり切ると台地上面は基本平らですが、地形的には浸食がやや進んでいて、台地は虫食い状に削られ、あちこちに崖や傾斜が存在します。これが山王や隣接する南馬込、東馬込付近の土地の特長です。

今回歩いた跡はGoogleEarthに乗っけました。
黒っぽいラインが足あと、池尻川流路跡とだいたい一致します。

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GoogleEarthとTokyoTerrainを使用しテキストと図形の加工を行っています

 

天祖神社への階段を上がってその近く、山王2丁目、台地の上からはじめます。

日本帝国小銃射的協會跡碑など

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大田区山王2丁目14番地とあります。向こう側は現在、大森テニスクラブのテニスコートが並んでいますが、1889(明治22)年から1937(昭和12)年頃まで射的場(銃を使った射撃練習場)がありました。

現在碑が建っている場所は丘の一番高い場所にあたります。
前方テニスコート(旧射的場)は土地が一段低く、さらに切土を行って平らな面を人工的に造っています。

 

テニスコートの横の道から

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道路は向こうへ下っていますが、左のテニスコートは土を切り取って平らに整地されています。

射的場が出来る以前の地形では狭い谷がここに食い込んでいて、小さいながら水による浸食がこのあたりからはじまっていたと推測できます。谷頭、今回最初にたどる川の源はこのへんにあったと言えそうです。

道路前方に傾斜の角度が大きく変わっているところが見えますが、狭い谷はあのあたりで右に方向を変えています。流れもそこから右方向へ曲がっていたはずです。

 

その近くの道路を曲がって先へ出ると

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さらに先が低く、谷間が横切っていることがわかります。

 

駐車場の精算機(水色)がある付近へ近づくと
さらに下へおりる階段、その先へ細い道が見えます。

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階段を下りて振り返る(山王2-20)

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これより上流側は土地の改良などで地形以外の痕跡は残っていませんが、川跡がここからはっきりします。

 

もう文句なし、川の跡です

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この川跡はほぼ北へ伸び、通称ジャーマン通りの手前まで来ると別方向からの流路と合流します。

合流地点

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右奥まで見えるのがたどってきた川跡、マンホールの左側から別流路。

 

角度を変えて別流路の上流側

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そちら側は前方駐車している車のちょっと先までしか痕跡が確認できませんでした。なので先の記録は省略。

右と前からの流れが合流して背後(西方向)へ進みます。

 

歩道に車止め、植込み、暗渠的小道具が揃ってきます

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川は埋め立てられているということなので暗渠ではなさそうですが、下水管くらい埋まっているかもしれません。

前方の白い建物の前までいくと、左(南方向)へ進路が変わります。

 

南向きに流れの方向を変えた池尻川跡(山王4-11)

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向こうが南、下流方向です。
川の流れは射的場のあった台地から下ると、その縁をまわるように進んでいました。左側にある傾斜地がその台地の末端にあたります。

左に2つあるのは馬込文士村の案内銘板、この付近に住居を構えた藤浦洸氏、榊山潤氏のもの。(内容は省略します)

 

川跡のこの道はこの先、東側の台地の縁を伝って、左右に細かく曲線を描きながら進んでいきます。1本隣りには谷間の中央を環七通りがまっすぐ貫いています。(最初の地図で白いライン)

細かくカーブする川跡の道路

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所々幅広い歩道が並走していて、以前はここに流れが見えていたと思われます。

 

東側は急傾斜の台地、行き来は階段(山王4-9)

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もう少し下ると、東側の崖がやや遠のき、そちらからの傾斜のゆるやかな道とぶつかります。その道を5~60m入っていくと池が現れます。

山王厳島神社と周囲は弁天池

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この池からの水もかつては池尻川に流れ込んでいたでしょう。

 

また池の上流側、隣接する花清水公園内に湧水があり”弁天池源泉”となっています。

清水公園

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公園と池の周囲はいわゆるスリバチの底ですね。その崖下に湧水があるという格好になります。

 

湧水が公園内を引き回されています

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湧水量は多くなく、公園内を廻る間に地中へ浸み込んでました。なので弁天池の水は現在井戸水をくみ上げるなど補水されているのではないでしょうか。

 

弁天池に戻り

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左から落ちる水は井戸水?
正面奥にある門は花清水公園入口、右が厳島神社

 

池尻川の川跡道路へ戻ります。

弁天池の水を加えた先も風景はほとんど変化ありません。
曲線続く道路、左(東)側は階段

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ここも植え込み部分がかつての流路跡でしょうか。

 

このくねくねの道はもう少し先で環七通りに出ると、これを越えて反対側へ出ます。

およそこのへんで川跡は左から右へ環七を渡ります

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環七、春日橋陸橋の立体交差になる手前です。春日橋交差点では池上通り大森駅西口前を通過している道路)と交差しています。

 

川跡が環七を越えた先、旧池上通り(平間街道)との交差部

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横切っているのが旧池上通り(平間街道)で古い道といわれます。大田区の建てた「いにしへの東海道」の石碑が角にあります。
玉垣の向こう側は春日神社、そのいちばん奥(本殿?)が見えています。
そしてここに川があった証拠、明神橋の親柱が2つ、電柱の根元近くに置かれています。

 

さらに100mほど先へ行くと道路は池上通りにぶつかりますが、その直前で六郷用水北堀の流れ(現在は跡)に合流していました。

池尻川、六郷用水北堀合流地点(中央1-18)

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手前から向こうへ池尻川、黄色の幟の右側から六郷用水が流れていてここで川の水はすべて用水路へ落ちていたそうです。したがって川はここが末端、この先は無く、六郷用水北堀の流れになります。
北堀は左方向へ流れ下っていました。

なお、向こう側を横切る道路は現池上通り、左へ行けば春日橋交差点です。

 

角度を変えて、六郷用水跡が左、右から池尻川跡

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六郷用水は江戸時代前期にひらかれ、その時ここに流れの合流がはじまりましたが、それ以前、これより下流部の池尻川流路は痕跡が残っておらず、不明です。

 

池尻川と呼ばれた川の流れは以上ですが、現在の環七の西側を流れていた川(堀?)があったとされ、池尻川が環七にせまるあたりで合流していたとする説があるようです。

環七西側も地形は東側と瓜二つ、間の環七をはさんで対称形、川跡があったとすれば台地の縁に沿って流れていたと想像できます。
そこで台地縁に沿った道を歩いて痕跡を探してみました。

 

南から北、上流方向へ向かって歩きましたが、最初の方は痕跡らしきものは見つけられません。道路もまっすぐに伸びていて、東側のくねくね道とは異なります。

馬込東中学横にて(南馬込2-27)

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左が西側、(整地されてますが)石垣の向こうへしだいに傾斜が上がってます。

この付近は特に何も見つけられません。

 

南馬込2-7付近

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左が傾斜になって上がっていますが、通っている道路も一段高い場所に上がり、ここは流路らしさがありません。

 

もう少し進むと
環七とジャーマン通り(山王通り)が交差する馬込銀座交差点へ出ました

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交差点向こうの建物群の裏あたりは、先にたどってきた池尻川(環七東側)の上流部がある場所になります。
こちら側が交差点西側になりますが、ここまで川の痕跡らしきものは見つけることができませんでした。

 

それでもさらにこの背後、水で浸食されて削られたと思われる谷戸様の地形があります。そのひとつに入って行ってみました。

結果からいうとあまり目ぼしいものは見つかりませんでしたが、希望的に、

道路左側の不自然な位置に立つ謎電柱列、道路の奥が突然上り坂(南馬込2-12付近から)

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この道路沿い、片側の電柱の立つ位置がずっと不自然なのです。

思い込みの可能性は高いですが、坂の下付近に水が湧き、手前方向へ流れ、その堀、側溝が道の端にあったので電柱の位置が不自然になった、って説はどうでしょ… でももっと裏付けが必要ですね。

この付近もっと丹念に調べてみれば絶対なんかあるはず、だけど環七西側は流れ跡確認できずとして一旦終わります。

 

同じ日に歩いた大森の小さな川跡

miwa3k.hatenablog.jp