散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

横須賀田浦、追浜、横浜金沢あたりを徘徊 その1

横須賀の長浦から田浦、船越、浦郷、夏島、追浜ときて、横浜の野島、乙舳、金沢称名寺海の公園をまわって金沢八景へという徘徊をしてきました。

その1最初はトンネル、そのあとは廃線、古倉庫と自衛隊とか。

国道16号新長浦隧道

f:id:miwa3k:20210426111550j:plain

横浜方面へ向かう車線のトンネル。並行してもう1本、横須賀方面車線の長浦隧道があります。
背後もすぐ吉浦隧道、国道16号横須賀市内へ入ってから市街地まで6,7本のトンネルをくぐります。

国道の海側を通るJR横須賀線もこの前後トンネルが続きます。起伏のはげしい土地。

 

歩いている道路にもトンネル。
比与宇(ひよう)トンネル

f:id:miwa3k:20210426111559j:plain

 

その手前には入口を塞がれたレンガ造りの、廃トンネル

f:id:miwa3k:20210426111609j:plain

このトンネルは尋常のものではなく、「横須賀海軍軍需本部地区地下壕」の開口部。
この奥には太平洋戦争時に造られた地下壕が存在し、通路や部屋などが網の目、アリの巣のように張り巡らされていました。その通路は(ひとつ前の写真)比与宇トンネル内に開けられた4ヶ所の開口部ともつながっています。
また、比与宇トンネル内まで引込線線路が敷かれ、地下壕内への荷物搬入が行われた跡と想定されています。
少し前までトンネル内の開口部(塞がれてはいましたが)、引込線線路跡を見ることができたそうですが、トンネルが改修され、今回は確認できませんでした。

レンガ造りのトンネル入口手前にはかつて海軍軍需部本部庁舎がありました。なのでこんな立派なレンガ造りの入口にしつらえたのでしょう。地下壕内部は素掘りで急ごしらえのようですが。
庁舎跡地に現在は海上自衛隊横須賀警備隊の建物があります。

 

比与宇トンネルを田浦側へ出たところには引込線線路が残っています。(すでに途切れ途切れですが)

現在の廃線路終端

f:id:miwa3k:20210426111620j:plain

横須賀市サイトにある比与宇トンネルの解説から

比与宇トンネルは、戦前まで田浦駅(JR)構内からの軍事用引込み線のトンネルだった。周囲一帯は弾薬庫とその施設で、弾薬の積み降ろしは、このトンネル内で行われた。列車の軌道はトンネル内でスイッチバックするもので、しばらくは軌道と車道が同居するめずらしいトンネルだったが、今は軌道は廃線となっている。トンネルの入口手前のアスファルトでうめられたレールが当時の面影を残している。

 

田浦駅から延びた別の引込線が比与宇トンネルからバックしてくる線路と直角にクロスしていた跡が残っていました。2ヶ所あります。

トンネル側から

f:id:miwa3k:20210426111634j:plain

対向側から

f:id:miwa3k:20210426111643j:plain

引込線線路はこの付近、数字の『4』の形に敷かれていて、その交差部がここですね。

〈工事看板「大型火薬庫の新設工事を行っています」〉

 

クロスレールの上から田浦駅方向

f:id:miwa3k:20210426111652j:plain

かつての引込線跡、踏切跡らしきものも遺ってます。左端の会社の門前にもレールが残っているようにみえます。

 

奥へ進んでみると、川にかかっているのは
引込線の橋梁跡

f:id:miwa3k:20210426111702j:plain

橋桁のうえには草のつるなどが覆いかぶさってます。
引込線橋梁の少し奥には横須賀線線路があり、右方向に田浦駅があります。

 

川沿いに海側へ戻ったところにも橋台跡

f:id:miwa3k:20210426111711j:plain

比与宇トンネルからバックしてきた線路が通っていた場所、橋が架かっていたはずです。
左手前、2まいの錆びた鉄板のあるのが引込線の橋梁、橋台の躯体部分でしょう。

 

その先、横須賀税関支署の前あたりにも線路が残っていました

f:id:miwa3k:20210426111722j:plain

 

さらにこの奥へつながっていたようです。

f:id:miwa3k:20210426111733j:plain

黒い軽自動車の左側にレールが残ってます。

この付近、手前は倉庫街、奥は自衛隊施設です。この先は遠慮しました。

 

その近くに横須賀線田浦駅があります。
田浦駅北口

f:id:miwa3k:20210426111742j:plain

 

この一帯の倉庫街、古い倉庫がそのまま残っていたりします。かつては「海軍軍需部長浦倉庫」といい、おもに兵器庫として使用されていました。現在は民間倉庫会社、港湾施設が使用(いくつかはすでに使われてなさそうですが)、一部は海上自衛隊が使用しています。

古そう庫いくつか。

相模運輸倉庫5番倉庫

f:id:miwa3k:20210426111752j:plain

 

右は兵器倉庫だったK倉庫

f:id:miwa3k:20210426111802j:plain

 

その隣り、
「低温恒温倉庫」と読めます

f:id:miwa3k:20210426111811j:plain

かつては兵器修理場だったE倉庫。こちらもフェンス前にレールが残っていました。

 

相模運輸倉庫F号倉庫(大正6年築の旧海軍倉庫)

f:id:miwa3k:20210426111820j:plain

 

倉庫街から西へ移動、自衛隊病院の隣りは海上自衛隊第2術科学校。敷地は海軍水雷学校跡地、その中をのぞくと

右「海軍水雷学校跡」碑と左端は水雷

f:id:miwa3k:20210426111830j:plain

 

田浦から北へ、船越に出ます。

自衛艦隊司令部前の海(長浦湾)

f:id:miwa3k:20210426111841j:plain

護衛艦でしょうか?、数隻停泊中。

 

正門前

f:id:miwa3k:20210426111850j:plain

門柱左側は「自衛艦隊司令部」、右は「船越基地業務分遣隊」の文字。

左の丘中腹には最近完成したばかりの司令部建物が燦然と。

 

移動して浦郷へ。

途中またトンネル(梅田隧道)をぬけました。

f:id:miwa3k:20210426111900j:plain

特に気にしてなかったのですが、民間で掘られた最初のトンネルということでした。

ぬけた先に梅田隧道碑が立ち、〈なぜか旧仮名遣いな〉解説板も。

f:id:miwa3k:20210426111909j:plain

梅田隧道碑について
かつて日向、榎戸地区では大勢の人が漁業で暮らしを立ててゐましたが、明治十五年、船越に海軍水雷艇基地や修理工場ができて、周辺の港は軍用になったので、多くの人は生活の手段を奪はれ、軍関係の工場で働くやうになりました。しかし通勤は険しい山坂を越えて行かなければならないので、難渋をきはめました。そこで田川幸蔵、渡辺富太郎らの地元有志は、村の発展と通勤者の便宜を図るため、私財を投じてトンネルを掘る決心をしました。工事は明治十九年五月から始まり、二人の犠牲者を出すといふ難工事の末、二年を経て完成して、梅田隧道と命名されました。
横須賀市内では民間人が掘った初のトンネルで、国に頼ることなく、すべて自力でやり遂げ、今でいふボランティア活動の先駆けといってよいでせう。大正四年、先人たちの努力と功績を後世に伝へるため、この記念碑を建てました。
題字は海軍大臣などをつとめた樺山資紀、顕彰碑文は逗子開成中学(現在の逗子開成学園)の創立者で、漢学者の田辺新之助が書いたものです。

 

深浦湾に出ます。自衛艦隊司令部前の長浦湾に隣接した湾です。

湾奥から

f:id:miwa3k:20210426111922j:plain

 

こちらはそれほどものものしいものはありません。

シップヤード

f:id:miwa3k:20210426111931j:plain

 

先へ進むと前方に吾妻島

f:id:miwa3k:20210426111941j:plain

日本海軍吾妻島燃料・弾薬貯蔵所でしたが戦後米軍が接収、現在は米海軍が燃料などの貯油施設として使用しています。島も含め周辺は横須賀海軍施設水域で立ち入ることはできません。

元は半島でしたが、1889(明治22)年に水路(新井掘割水路)が開削されて島となりました。
島の手前を右に入ると長浦湾、島の向こうへ水路をぬけると米海軍第7艦隊基地横須賀本港があります。

深浦湾も海岸沿いにはこのへんまでしか歩けないので、方向を変えて夏島、追浜方面へ。

 

夏島の埋立地、もう少しで岸壁と言う場所(夏島都市緑地)に「東京湾第三海堡遺構」というのがあります。

〈下の解説とダブりますが〉海堡(かいほ、かいほう)とは、海上の要塞、人工島を造成して砲台などを設置したもので、明治から大正にかけ、東京湾に3つ造られてます。そのうちここにあるのは第三海堡遺構。

碑と説明版の前で

f:id:miwa3k:20210426111951j:plain

拡大

f:id:miwa3k:20210426112002j:plain

神奈川県指定重要有形文化財 (歴史資料)
東京湾第三海堡構造物 (観測所・探照灯・砲側庫)

鉄筋コンクリート
観測所: 幅 12.8m、 奥行 11.75m、高さ 5.2m
探照灯: 幅 20.3m、 奥行 5.55m、高さ 5.75m
砲側庫: 幅 9.05m、 奥行 9.8m、 高さ 5.05m

〈右上段図〉
第三海堡復元CG

建設された海堡には、砲座のほかに敵艦の位置を計測する観測所、海上を照らす探照灯、 砲弾を保管する砲側庫(弾薬庫)が設置されていました。

〈左上〉
第三海堡の建設と被災
「海堡」とは海中の人工島に築かれた砲台のことで、日本では東京湾にのみ建設されました。 江戸時代より、外国船の侵入に備えるための海防は重要な任務でした。明治政府は首都東京の守りとして東京湾沿岸の砲台建設を陸軍に命じます。明治13年(1880)、日本最初の西洋式砲台である観音崎砲台の建設以降、砲台の除籍や増築を行い、昭和20年(1945)の終戦までに32の砲台を東京湾沿岸に築きました。 各砲台により防禦される一帯を「東京湾要塞」と呼称しました。
東京湾要塞を構成する砲台の中でも、湾の最も狭い海峡となる千葉県富津岬と神奈川県観音崎との間に築かれた3つの海堡は、大砲の性能が劣る明治時代初期において海防計画上で重要な意義がありました。第三海堡の建設は明治25年(1892)に始まり、水深39mという深さ、波浪、激しい潮流という厳しい海象条件のため、莫大な費用をかけて、着工から29年後の大正10年(1921)にようやく完成しました。この間、建設には多くの人が関わり、設計は陸軍臨時砲台建築部 (のちに陸軍省築城部) の技師である西田明則、伴宣、田島真吉、施工は公郷村の永島家や大倉土木組(現大成建設)が請負い、工事には対岸の富津からも参加がありました。
しかし、竣工から2年後の大正12年(1923)9月に起きた関東大震災により甚大な被害を受けた第三海堡は、大砲の性能の向上もあり、復旧することなく陸軍の砲台から除籍され、その役目を終えることとなりました。

〈右中段〉
近代土木技術の進歩
第三海堡の建設は、当時の世界に前例のない深い海でのきわめて困難な工事となりました。波のうねりや高波、台風などに何度も土台が崩れ、当時の最先端技術である巨大なコンクリートブロックやコンクリートケーソンなどを導入して工事を進めました。 高度な技術を生み出した背景には、江戸時代に培われた石垣や橋脚、干拓や堤防などの伝統的土木技術がありました。 日本で進化した海堡建設技術は、当時のアメリカ陸軍から情報提供の依頼があったほどです。その資料は今でも米国公文書館に保管されています。

〈右下段〉
撤去と保存
除籍後、東京湾で暗礁と化した第三海堡は船の航行に影響し、航路の安全確保のため、平成12年(2000)~19年(2007)にかけて水深マイナス23mまで撤去工事が行われました。引き揚げた構造物のなかで状態が良いものはこの夏島都市緑地とうみかぜ公園(平成町)に保存されました。合計4基の構造物が日本の近代土木技術を示す貴重な資料として、平成28年(2016)4月25日に日本遺産の構成文化財に認定され、平成30年(2018)3月には神奈川県指定重要文化財に指定されています。

平成31年(2019) 3月 横須賀市教育委員会

 

公開は月1回とかで今回はフェンス内に入れず、外側から一部を垣間見るだけになりました。〈ぶつぶつ〉

探照灯施設

f:id:miwa3k:20210426112011j:plain

 

観測所

f:id:miwa3k:20210426112021j:plain

 

手前は観測所、奥が砲側庫

f:id:miwa3k:20210426112031j:plain

 

反対側から、手前観測所、奥砲側庫

f:id:miwa3k:20210426112042j:plain

 

その近く、小高い丘の『貝山緑地』があります。

緑地内丘の上から

f:id:miwa3k:20210426112052j:plain

左下建物目立ってました。Googleマップで「横須賀市環境部リサイクルプラザ・アイクル」と出ます。いわゆる燃えないごみの集積場のようです。

右向こうは吾妻島、その先は横須賀米海軍基地です。〈海の向こうにアメリカが見える〉

またここには予科練*1誕生之地記念碑、甲飛鎮魂之碑などがあり、緑地地下には戦時中に大規模な地下壕が作られ、付近にあった海軍施設の兵器、機器の格納、工場にもなっていたようです。

 

緑地から少し足をのばせば夏島貝塚遺跡がありますが、そちらへは寄らず。(立入りもできないようなので)
追浜から野島へと少し雰囲気を変えて散歩を続けます。

深浦湾にて

f:id:miwa3k:20210426112101j:plain

 

《つづく》

 

*1:横須賀海軍航空隊・海軍飛行予科練習生