散歩の途中

散歩しながら観察して記録してちょっと調べて書くノート

浦賀道を歩く その1 浦賀から汐入まで(金沢まわり東浦賀道)

東海道三浦半島浦賀を結ぶ街道、浦賀道(うらがみち)を歩いた。

◆東西浦賀

横須賀市ホームページから抜粋

享保5年(1720年)、江戸湾防備のために伊豆下田から浦賀奉行所が移されると、江戸と浦賀間の人や馬の往来が盛んになったことから、三浦半島浦賀にいたる東西2本の道が作られた。これが浦賀道である。
東の浦賀道は、東海道保土ヶ谷宿」から六浦(ここまで武蔵国)を過ぎて相模国に入り、浦郷、十三峠を越えて、逸見、汐入、公郷、大津等を通って、矢の津坂から浦賀に入った。江戸からは17里半(約69km)である。金沢から横須賀に至る道は難所の連続であった。
西の浦賀道は、東海道の「戸塚宿」から鎌倉道に入り、鎌倉を経て葉山、木古庭、平作、衣笠、大津に至り東の浦賀道と合流するものである。江戸から浦賀まで20里(約79km)である。この道は古代の東海道と推定される。
浦賀道の山越え難所を避けるため、品川から江戸湾沿いの港、神奈川、金沢、榎戸、大津などに寄港し、浦賀に至る海路も利用された。

まずその1では東浦賀道を、浦賀奉行所跡をスタート地点として江戸方向へ向かって歩く。

旧道ルートは明治時期の地図にも描かれていて、現代になってGoogleマイマップなどへ落としてくれている人が少なからずいるので、それに沿って辿るのは難しくない。ただし旧道そのものがなくなってしまっているところはあるので、まったく忠実に辿るということはできないが。

浦賀道の足あと(その1、その2分)

 

◆東浦賀道 スタートの浦賀奉行所跡へ

アプローチは京急線浦賀駅

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浦賀湾西側の県道を南へ歩き、浦賀奉行所跡へ向かう。

その前に船番所跡へ(2枚)

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現在は陸軍桟橋、浦賀港引揚記念碑などとまとめて小さな広場になっている。船番所としての痕跡は特になく、解説板があるだけ。

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「船番所跡」
18世紀に入るころから国内では生活物資の生産量が拡大し、それまでの関西方面からでなく、東北や南関東からも江戸へ大量の物資が入ってくるようになりました。この流通の変化は、幕府に経済政策の見直しを迫る者でした。幕府の対応の一つが、享保5年(1720年)12月、それまで伊豆下田にあった奉行所浦賀に移転させ、江戸へ出入りする船の積み荷を厳しく管理し、江戸の物価の安定をはかることでした。この船の検査「船改め」を行ったのが、船番所です。
ここは船の関所ですから、積み荷の他に「入り鉄砲に出女」の検査もし、乗組員もチェックされました。
積み荷の中でも生活必需品の、米、塩、味噌、から木綿や薪までの11品目について3か月ごとに集計したものを、幕府の勘定奉行に提出していました。
1日に50隻にも及ぶ船が出入りしていましたので、「船改め」の業務は、奉行所の役人だけでは人手が足りず、この検査は廻船問屋と呼ぶ人たちに委託されました。廻船問屋は、下田時代からやっていて、奉行所の移転に伴い、浦賀に来た通称下田問屋が63軒、西浦賀に22軒、東浦賀に20軒、の合計105軒で行っており、この業務に就いた時だけは、奉行所足軽役になったので、苗字を名乗ることが許されました。
この頃になると、外国船が日本近海に出現するようになり、1837年浦賀沖にも現れました。そうした外国船への対応も、しなければならなくなりました。
この「船改め」は、慶応4年(1868年)閏4月奉行所がなくなっても継続され、業務が終了したのは明治5年(1872年)3月のことでした。
その船番所があったのがこの場所です。
浦賀観光協会

海岸沿いの船番所跡から内陸側に折れ、200~300mほど行ったところに浦賀奉行所跡がある。

浦賀奉行所跡

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奉行所を取り囲む下の堀と石垣だけが残っている。ここは少し前まで住友重機の社宅が建っていたが、更地になっていた。
横の解説看板は船番所のものと重複していないところのみ抜粋

奉行所
江戸幕府が終わる慶応4年(1868)までの約150年間に、奉行は2人制の時期もありましたが、初代の堀隠岐の守から最後の土方出雲守まで53人が勤めました。また奉行所には、与力10騎同心50人の役人たちも勤めていました。現在では、奉行所をとり囲む堀の石垣と、表門の前にかかっていた石橋の伊豆石が4~5枚あるだけで、当時の様子を偲ぶことはむずかしくなっています。
浦賀観光協会

ここの土地が横須賀市に寄付されたそうで、奉行所建物を再建しようという運動もあるらしい。

 

◆東浦賀道 スタート

奉行所跡からUターンしてスタート、今度は浦賀駅方向に向かって引き返す。

為朝神社

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「創建は文政期(1820年代)。元は地元の漁民が漂流していた木像を拾い地蔵堂に安置していた、その像が鎮西八郎為朝の像であったと伝わる。航海の守護神として信仰されている。」(横須賀市HPより)

叶神社(2017.10)

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叶神社の由緒については過去にも書いていたので再度引用。

当社は養和元年(1181)神護寺文覚上人が京都、石清水八幡宮より勧請し創建しました。その由縁は、文覚上人が源頼朝の為に源氏再興を発願し、治承年間(1177~1180)上総国(千葉)鹿野山に参篭しました。源氏氏神と称え奉る石清水八幡の神に祈念をし、源氏再興の本願が叶えられれば勝地を探し求め八幡の一社を建立、末永く祭祀をせんと誓いをたてました。養和元年大願成就の前兆を感得し、社殿建立の勝地を求め、各地遍歴の末に鹿野山に相対する浦賀西岸の現在地に石清水八幡宮の神を祭祀する社宇を建立し、文治2年(1186)神の霊験により源氏再興の大願が叶うたところから、叶大明神と称するようになりました。

http://miwa3k.hatenablog.jp/entry/uraga2kurosakihana

 廻船問屋跡の建物(2017.10)

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叶神社隣の蔵造りの建物

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西浦賀1丁目近辺、このあたり旧道が残っており、それに沿って古い建物が多く残る。そしてあちこちに観光協会が立てた解説板がある。

旧道は浦賀駅に近づくと新しい県道に吸収されてしまう。

再び駅前を通過してしばらく県道を歩いて行くと、かつて「矢の津坂」と呼ばれた坂道にさしかかる。浦賀2丁目から横浜横須賀道路浦賀インター付近が丘を越える峠のようになっていて、かつては急坂だったとされるが現在は拡張された県道がなだらかな傾斜で上り下りしている。

ひと丘越えると馬堀(まぼり)へ。
現代の矢の津坂

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浦賀方から一回坂を上がって、すでにだいぶ下りてきたところ。前方が馬堀方向。

京急線のガードをくぐったすぐ先で県道から分かれて旧道へ入る。
馬堀町付近の浦賀道旧道

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東西浦賀道の合流地点(大津)

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浦賀道は東海道保土ヶ谷宿から金沢、横須賀を経る東ルートと、戸塚宿から鎌倉、葉山を経る西ルートがあったが、浦賀に向かってここ大津で合流していた。
正面建物の左から来るのが西ルート(西浦賀道)、右向こうから来るのが東ルート(東浦賀道)。合流してこの後ろが浦賀方向。

この場所は左の道を50mほど行くと京急大津駅。ここは右向こうへすすむ。

旧大津村にはかつて港があり、金沢などからの海路が通じていた。それについての解説板が路傍にあったので抜粋してみる。

東海道保土ヶ谷宿から金沢町屋を経た陸路は十三峠などの難所が多く、金沢野島浦から横須賀・大津村へは海路が多く利用されました。
大津湊は遠浅のため船着場は特定されていませんが、陸路の旅人が減り、沿道の商売が成り立たないので、文政九年(一八二六)横須賀村名主から「大津村よりの旅人乗船禁止願」が出されました。
幕末期の横須賀馬継所の旅人往来の記録には、金沢から横須賀への海路の利用は陸路の3.5倍、横須賀から金沢へは33倍とあり、船便の利用が非常に多かったことがわかります。

さらに進む。

春日神

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旧大津村に隣接していた旧公郷村総鎮守社。元々横須賀沖に浮かぶ猿島に本殿があったが、明治はじめに砲台を建設するため、ここに社殿を造営したとのこと。狛犬が猿だった。

この付近を歩いていると、海側に向かってほんの少し段差があり、その段上を旧道が通っていることがわかる。

旧道に直交する道路が、海側へ向かってほんの少し下がっている

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左側公園の青い壁からその向こうの3階建て建物あたりへわずかに下る。旧汀線、昔はここが海岸線で、街道はそれにずっと沿っていたのだろう。
余談だが、旧東海道品川宿内でもこんな地形が見られる。

京急線県立大学駅前を通る旧道

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正面の坂道へ上がり、さらに向こうの高台へのぼるのだが、京急線の線路で分断されている区間がある(ように思える)。

聖徳寺という寺院をまわり込み、坂を上がっていくと横須賀市上町(うわまち)。横須賀中心街近くの西側に位置し、三崎街道(神奈川県道26号)に沿って古い商店街が続いている。旧浦賀道は三崎街道の1本隣りをほぼ並行している。

左が浦賀道旧道(横須賀市上町2丁目付近)

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右は深田台への坂道。旧道の1本左側は県道に沿った商店街。

旧道には古そうな建物も残っていた

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三崎街道と交差し、その先へ進む。道路も細く、曲線を描くようになる。
上町1丁目の旧道

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少し行くと、うぐいす坂にさしかかる

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右側解説の文字

うらが道
江戸時代、東海道保土ヶ谷宿から金沢八景を出て追浜、田浦の十三峠、逸見、汐入をぬけて浦賀に至る道を「うらが道」といいました。この道は、うらが道の一部で、海岸の平地が少ない山越えのきびしい道でした。

うぐいす坂
うらが道のうち、この周辺はうっそうとした樹木に覆われ、うぐいすの鳴く音(ね)が絶えないので、特にこの坂は「うぐいす坂」と呼ばれていました。
この坂上に咸臨丸渡米時の副艦長格であった浜口英幹(ひでもと)が幕末から明治にかけて住んでおり、花に包まれたたたずまいで花屋敷と呼ばれていました。

 うぐいす坂をのぼった丘の上から

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かつては鬱蒼としていても、現在はこちら側もあちら側も急傾斜地でも一面住宅。
(正面向こうは大楠山)

丘へあがると、尾根筋をそのまま進むということはなく、すぐに急な下りとなる。
正面の階段を下りてきた

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左側に「うらが道」の道標。

坂を下ると、緑ヶ丘女子高校と汐入小学校の横を抜け、京急線汐入(しおいり)駅前へ出てくる。

汐入駅

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ここでノートその1はいったん区切ることにする。
浦賀道その2は同じ日に歩いた後半、汐入から六浦までの予定。