横浜市のまわりをぐるぐると、外周、内周あわせて10回も歩いていた。ちょっと食傷気味かな? 何も一気にやらないで、ほかの場所も歩きながらこちらも歩く、というようにやればよかったかななどといまになって考えているけれど、とにかく今回が10回目でこれで最後、一区切りをつけよう。
今回歩くのは、保土ヶ谷区岡沢町と神奈川区三ッ沢上町の境界から、保土ヶ谷区、南区の東側の縁を南下、港南区に入って、内周の出発点であった上大岡東までとなる。
横浜市内周#4 行程
(本日のGPSの軌跡は所々乱れ気味、何かあった??)
今日のスタート地点は前回の離脱点、三ッ沢公園入口交差点
まずは三ッ沢公園を目指す。この交差点の近くから首都高速の方へ上っていく細い道があるので、そこへ入る。結構急な坂を登って首都高神奈川2号線を陸橋で越えると三ッ沢公園の端に出る。陸上競技場の脇を回ると区の境界線が公園の少し外側へはみ出すところがあるので、忠実にトレースするため、外側の斜面になっているところへ出る。
三ッ沢公園の外周から
ここはサッカーJリーグの試合などもよく行われる場所。グラウンドに通じる扉がほとんど閉められていて外側からは内部がほとんど見えなかった。
三ッ沢公園は丘の上にある。上がったら下りる。
三ッ沢の丘から斜面を階段で下りる
そして正面向かいの丘に今度は上る。
前回歩いたところは今回よりも内陸側で、丘の尾根道が長く続いていたのだが、このあたりは海にも近く、地形的に海や川の影響で侵食も進んでいる場所が多いので凸凹が多く、傾斜もきつい。高低差としては数十メートルではあるけれど上り下りを繰り返すと歩いていて結構きついものがある。
向かい側の丘に上がって、通ってきた方を振り返る
先ほどの球技場の照明塔や下りてきた階段が小さく見えている。
急な崖のある台地(丘)と低地がいくらでもあって、境界線はそこを上がったり下りたり
丘の先っぽまで来たのでこの先下る。保土ヶ谷区宮田町1丁目付近
急な坂を下りると低地に出て、旧東海道の道筋に出会う。ちょうど旧東海道と旧八王子街道の追分近くに出た。旧東海道に沿って保土ヶ谷宿方向へ少し進む。
八王子街道洪福寺交差点付近で
保土ヶ谷区との境界は西区。境界線に沿って道路の角をジグザグに進み、帷子川(かたびらがわ)に出る。
帷子川に架かる水道橋上から、今井川との合流点
この先すぐ相鉄線西横浜駅で、陸橋で相鉄線やJR東海道線などの線路を越え
また別の陸橋で国道1号を越える。
国道1号を西へ少し進む。
西区久保町付近、保土ヶ谷区との境界
ここから南側にある丘へ、また階段で上がっていく。
階段の途中から
こちらの丘は、横浜の人が俗に「久保山」と呼ぶ場所で、昔からある大きな市営の霊園、久保山墓地が有名。保土ヶ谷区と西区の境界はその墓地のまわりを廻るように通っている。ちなみに墓地は西区側。
墓地周辺の道路から
寺院、斎場、霊堂、石材店、お茶屋さんなど、そちら関係で必要なものは全部賄えるストリートである。
そしてこの道路を歩いている途中で、保土ヶ谷区から南区に入り、今度はゆっくりと坂を下っていく。久保山霊堂入口交差点で大きな市道(藤棚浦舟通り)に右折して入り、また坂を下る。
霞橋
「久保山」のバス停近くに架かるアーチ型の陸橋。霞ヶ丘と南区の三春台とを結ぶ区界に建つ。大正2年に建設されたが震災被害に遭い、現在の橋は、近くの公衆便所と共に、昭和3年に建てられた二代目。レンガ壁と門柱は大正当時のものが残されたその重厚な佇まいは市認定歴史的建造物の指定を受け、「かながわの橋100選」にも選ばれている。かつては橋の下を市電「浦舟行き」が通っていた。(横浜市西区HPから)
この通りを三春台から「浦舟」方向へ下っていくと、対向側の区は西区から中区に変わり、坂を下り切った先で京急線黄金町駅前に出る。
線路を横切ってさらに先へ行くと大岡川に架かる太田橋を渡る。
太田橋の南詰から
ここから川沿い上流側、写真だと左方向に少し進む。
太田橋の隣、栄橋
このへんは、子供の頃を横浜市で過ごした人は学校でたぶん必ず習っている「吉田新田」の内側。
吉田新田(Wikipediaから抜粋)
現在の神奈川県横浜市中区および南区に跨る地域で開墾された新田。江戸時代前期に吉田勘兵衛によって開墾された。近代横浜の枢要部である関内地区の外側の、南西側に伸びる低地の市街地の多くは、この吉田新田の開発により陸化された土地であり、その意味で、横浜発展の基礎を築いた新田であるといえる。
この地域は、北側に野毛山、南側に山手の標高40mから50m程度の洪積台地に挟まれた谷戸状の地形であり、縄文海進によって溺れ谷となった入江となっていた。この入江そのものは、大岡川によるその後の堆積によっても埋まらないままであったが、湾口に砂洲が伸びて、村落が形成されていた(横浜村)。この入江の沿岸では、横浜村や野毛村などの村民が、少ない田畑を耕作したり、入江に塩田を開いて生活していた。この入海が埋立てに適していることに目をつけた江戸の材木商である吉田勘兵衛(吉田勘兵衛良信)は、明暦2年(1656年)に江戸幕府から、埋立て・新田開発の許可を得た。村民は広い田地を求めて賛同し、技術面では黒田助兵衛(くろだすけべえ)が請け負い、開発が始まった。
富士見川という、新田の昔の水路(現在は暗渠もしくは埋立て)跡の公園を折れ、阪東橋公園、大通り公園と、これらも元は新田の水路だったのではないかと思われる長細い公園の区界に沿って歩く。
大通り公園、よこはまばし交差点付近
写っていないけど、この交差点に公園と直交して横浜橋商店街という、昭和の雰囲気の、とてもにぎやかな商店街がある。
伊勢佐木警察署、中消防署のある交差点で大通り公園から折れ、中村川と上を首都高の通る通りまで行く。
中村川は吉田新田の南端を流れる川で、新田開墾時につくられた。この川を写真前方に下っていくと横浜中華街、元町商店街を経て山下公園に至る。本日は途中で折れて、山手の丘へと上がっていく。
山手の丘へは、石川小学校脇の遊行坂で上がる。ここも立派な長い急坂。
丘の上へ上がると左折して打越橋へ。
打越橋を渡る
親柱のところから北側横浜中心部方面
同じく、橋のアーチを望む
橋を渡った先で下の通りへ下り、山元町へ
山元町交差点からみた打越橋
ここも霞橋同様、台地を開削した切通し道路上に架けられた陸橋。竣工は1928(昭和3)年、「かながわの橋100選」にも選ばれ、アーチ橋で、かつて市電が下を通っていたなど、共通点が多い。
寺院裏(東漸寺)の路地から
山元町から、平楽へ区界は細かく折れ曲がりながら通っているので、こちらも入り組んだ路地をあちこち入り込んでトレースしてゆく、時々道を間違えながら。
根岸共同墓地の北縁を通って、さらに高い場所へ出ると根岸米軍住宅にぶつかる。
米軍住宅との境界道路
防衛省仕様(?)のフェンス(国境)があって中へは入れない。中区と南区の境界は米軍住宅のなかを通過するので迂回。横浜市の周囲を回っていて米軍関係の迂回は3回目かな。ここの住宅地も日本への返還が合意されていて、すでに住人はいないはずなのだが、いまだ手付かず。
住宅入口ゲート近く
その付近から横浜中心部方面のながめ
山手の台地の端にあるので眺望はどの方向も「実に良好」。その代り交通はちょっと不便なのでは、街や最寄りの駅などは急坂の下にあって車必須でしょう。
そしてまた長い坂を下る
坂の途中から
次には向かいに見える丘(台地)に上がることになる。台地の間には掘割川という川が流れる。
掘割川中村橋付近
川沿いに下って次の天神橋を渡ると、米軍住宅のなかを通ってきた区界(南区と磯子区の境界に変わっている)に出会う。
南区磯子区境界
向こうの木のない丘のうえが米軍住宅地。
米軍住宅側の丘から見えていた対面の丘(台地)へ上がって振り返る
磯子臨海部側の眺め
海の向こうは房総半島。
この先、滝頭、岡村といった横浜市内ではわりと古くからある地名の、現在は住宅地内を、相変わらずアップダウンは激しく歩く。とりわけて特長のない住宅地を過ぎると久良岐公園に出る。公園内を区の境界が通る。
久良岐公園の池
公園内に保存されていた横浜市電
市電の通っていた道路が登場したので電車のほうも。(ちなみにこの公園は実際に市電は通っていなかったと思う)
公園内の広場
公園を出て上大岡方面へ進む。
台地の端から上大岡方面の街並み
いよいよこの丘から下りたところがゴール地点になる。
急坂を下りる
途中階段などもあって、一気に低地にまで下りていく。
下り切るとすぐに「上大岡小学校西交差点」
左側の高架は京急線。
ここが横浜市・内周のスタート地点なので、一周してもとへ戻ってきたことになる。ゴール、お疲れ、長いことお付き合いありがとうございました。やっと終わりの横浜市ぐるぐる。
このあとは上大岡駅まで勢いで歩いて、本日の歩行距離は22.3km。あまりあてにならないけれど、内周4回のうち一番上り下りした高低差が大きかったのが今回(#4)だった。
おまけ