散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

綾瀬川を歩く その4 岩槻見沼境界・大橋から桶川市内の河川起点まで

綾瀬川遡上、川の起点まで残っていた区間を歩いたので記録を残します。

前回記録ではさいたま市岩槻区と見沼区境界、旧日光御成道(現在は県道2号さいたま春日部線)が通る大橋まで来ていました。
再掲・大橋と大橋井堰

橋に併設される形で大橋井堰(おおはしいぜき)があります。周辺の農業用水取水堰です。

 

大橋の上流側を東武野田線が通ります。
電車通過中の橋梁上流側から

 

反対方向を向くと対岸は高層住宅群

川を挟んでこちら側はいたって長閑な風景でした。

 

東武線橋梁の1つ上流側、風間橋から下流方向

と、このあたりまで実は前回歩いた範囲でした。

日を改めて川沿いに出てくると水位がだいぶ上がってました。
前の写真の前方左岸側から今度は風間橋を先に見る形で

〈よく分からないな...同じ位置から撮影したもので比較すべきだよね〉

想像するに農業用水の取水のために大橋井堰の水門を閉じぎみにし水位をあげたのではないかと。

川の流れも緩くなって池のようになってました。


風間橋から500mほど上流(さいたま市岩槻区箕輪)

対岸を東北自動車道などが横切ってますが目立たないです。

このあたりも水位がだいぶ上がり、流れはほとんどありません。
かなり先まで川の水位が上がった状態が続いていましたが、この一帯はほとんど高低差がなく平らなので影響は遠くまで及びます。

 

風間橋から800mで次の馬喰橋、1200mで高野橋と小さな橋が架かります。
2つの橋の間あたり

右側に綾瀬川、左はおもに畑です。

 

高野橋から400m先、水神橋のあたり

対岸、比高(高さの差)は小さいですが台地の縁、段丘崖になってます。ここの台地は大宮台地岩槻支台と呼ばれるようです。

 

水神橋から500m上流(岩槻区馬込、対岸見沼区丸ヶ崎)

先ほどわずかに段丘が見えましたがまた両岸平らな場所に出てきました。

川はこのあたりでさいたま市をぬけ、上尾市蓮田市境界を流れるようになります。

 

農家の庭先にこれから植えられる稲苗(蓮田市馬込)

 

その近く、八幡(やわた)橋から上流方向

八幡橋は両端に「通行規制 総重量2t超通行禁止」の看板がでかでかと出ている行き違いもできない狭い橋。なのに通行量が結構多い...
前方にはJR宇都宮線、川はそれを越えると見沼代用水(みぬまだいようすい)との交差、瓦葺伏越(かわらぶきふせこし)に差し掛かります。

見沼代用水は伏越(サイフォン)で綾瀬川の下を通り抜けるとすぐに水路が2本に分岐するという地点でもあります。

見沼代用水瓦葺伏越通過直後の水路

すでに2つに分かれています。左が東縁(ひがしべり)水路、右が西縁(にしべり)水路となって下っていきます。

 

伏越付近の綾瀬川

伏越の直上に立ってます。前方水門ゲートなどが見えてます。見沼代用水は向こうから流れてきて水門を通過し、真下に落とし込まれます。綾瀬川の下に通された樋管(パイプ)でこちら側に達し、水流の勢いで今度は上向きに元の高さまで水位が上がり、また何もなかったかのように下流側へ流れていきます。

現在は見沼代用水が綾瀬川の下を通過する構造ですが、昔は掛樋(かけどい)と呼ばれる一種の水路橋で綾瀬川の上を通過していました。

当初は木造の掛樋が架かっていましたが明治時代に鉄製の樋とレンガの橋脚、橋台に改められました。その遺構が一部残っています。

 

伏越水門ゲートのやや下流側に残るレンガ造りの掛樋遺構を立会橋の上から。
橋台と翼壁の一部らしいです

かつてはここで綾瀬川の上を渡って対岸へ。

 

そちら現在は広場に残る部分

 

解説板

上尾市登録文化財 記念物(史跡) 瓦葺掛樋跡(かわらぶきかけどいあと)
「瓦葺掛樋」は、見沼代用水の重要構造物のひとつで、瓦葺の地で、見沼代用水と綾瀬川が立体的に交差できるように、綾瀬川の上に架けられていたものである。見沼代用水は享保一三(1728)年に、「見沼溜井(現・さいたま市)」と呼ばれる溜池が新田開発で干拓されたことに伴い、代替の農業用水を利根川から導水するため開削された。当初は水路の両側に盛り土をして堤を築き木製の樋を掛ける構造であったが、その後、すべて板囲いに改められて、以後この形で明治期まで続いた。洪水などによる被害がなくとも大量の通水があるため、度々漏水腐食が生じ、毎年のように修理が行われ、十年以内の年限で架替も必要であったとされる。
現在残されている煉瓦で構築された橋台・橋台翼壁・掛樋北翼壁は、明治四一(1908)年に樋が鉄製に改造された際の構造物の一部である。
見沼代用水の流路上に存在した掛樋の多くが江戸時代の間に川などの下をくぐる伏越へと変えられた中、瓦葺掛樋はその後も長く用いられ続けた。しかし、昭和三六(1961)年に長年の流水による水路の変形や下流での流量不足などのため廃止され、綾瀬川の下をくぐる伏越に変更され現在に至っている。昭和五六(1981)年立会橋の再建に伴い煉瓦積みの一部が取り壊されたが、見沼代用水の重要構造物に位置付けられているもののうちで唯一、明治時代の遺構が残る貴重な文化財である。
なお、現存する煉瓦は上敷免村(現・深谷市)の日本煉瓦製造株式会社で製造されたものであり、「上敷免」の極印が刻まれたものも存在する。

 

綾瀬川に戻ります。

瓦葺伏越から上流へ約300mで原市沼川の合流

左から原市沼川、合流地点直前に大きな調整池が設けられていました。中央に見える家の屋敷林も立派です。

合流点は上尾市(左)、伊奈町(中央)、蓮田市(右)の3境界点になってます。
左端に写る橋を渡って伊奈町へ入り、綾瀬川をさかのぼります。

 

約1000mで小厩橋
橋上から上流方向

見沼代用水と綾瀬川はしばらく並行して流れているので近くに見沼代用水の橋(御前橋)もあります。

ここから川沿いは住宅地。右側一帯の地名は蓮田市綾瀬、綾瀬川に由来しているとのことです。(明治時代には綾瀬村が存在)

 

さらに上流へ1200m、綾瀬橋から下流方向

綾瀬川に綾瀬橋って意外に少なかったです(2つ?)。

右側はずっと桜並木、住宅が多いのはこのあたりまで。

 

たくさんの家並みが尽きると『伊奈町ジョギングロード』が綾瀬川に沿って続きます。
伊奈町ジョギングロード起点

綾瀬川がこの先起点近くまで伊奈町蓮田市境界です。なので伊奈町ジョギングロードはずっと川の片側のみ整備、延長は6350mとのことです。

 

ジョギングロードへ入ってすぐ

対岸は蓮田浄水場、水管橋が綾瀬川浄水場手前を流れる見沼代用水を一気に渡ってます。すぐ隣りに見沼代用水の水路があるように見えません。

 

そして広大な田園地帯に繰り出します。

東北新幹線高架が横切り、手前は古い橋

 

東北新幹線の下をくぐったあたり

この先は基本的にこの風景。川の表情も特に変化はありません。

 

さらに600mで上谷橋

上流側、小さく見えるのは次の五庵橋。

 

五庵橋の先は小貝戸堰橋、小貝戸橋とだいたい400m間隔で小さな橋があります。

ただし小貝戸橋はかなり古い

橋脚はコンクリートですが、桁の見えている部分は木製です。

たもとには町が「小貝戸橋通行止めのお知らせ」を掲示、老朽化が進み危険な状態のため現在は通行止めにしているとのことです。
歩いて通るには支障ありませんが渡らずにおきました。

 

小貝戸橋近くで水路の合流、そこにも簡易な古い橋が

農業用水路(おそらく正面奥を流れる見沼代用水からの水)ですが、稲作オンシーズンに入って水量も増やされているように思いました。周辺の水田には水が入れられつつあるという頃でした。

 

小さな小貝戸橋から400mで大針橋、重量制限10tで大きな部類の橋。そこからさらに800mの榎戸橋は県道が通り、もう巨大橋に見えます。〈大袈裟〉

榎戸橋の上流側

この付近いつもは葦などが密生して水面が見えないほどのようですが、最近浚渫や草刈りが行われたようです。
左に見える建物は伊奈町クリーンセンター。

 

そこを通り過ぎてから振り返り(伊奈町小針内宿)

下流方向を見ています。流路は一直線ですがこれは昭和初期に行われた改修の結果です。改修前は氾濫原(左右の田んぼになっている範囲)をフリー蛇行していたようです。

 

伊奈町クリーンセンターから800m上流

左遠くに工場建物がいくつか見えてきてその向こうあたりが綾瀬川起点というところです。

 

そちらに近づいて
2つの境橋、その下流側から

先に架かるのが県道5号境橋、手前の小さいほうはその旧道にあたる境橋です。

 

県道5号境橋の上流側

左側は工場団地、元荒川水循環センターとなってその脇を綾瀬川が流れています。伊奈町ジョギングロードも終点です。

 

元荒川水循環センターと県道77号(行田蓮田線)の間の綾瀬川下流方向を見て)

この付近からは桶川市です。

流れは背後250mほどに築かれている『備前堤』にぶつかって方向を変え、そこから150mで起点です。(備前堤については後ほど改めて)

 

現在は道路になっている備前堤の上

左側に方向を変えた綾瀬川、右側にはやはり堤によって方向を変えた赤堀川という別の河川が流れています。

 

備前堤にぶつかる直前の赤堀川

右方向へ流れを変えていき、元荒川へ合流しています。

 

綾瀬川へ戻って、堤(右の道路)で方向が変わるところ

流れが見えませんが奥に起点、手前へ流れて左へ方向を変えてます。

 

奥へ150mほどで起点です。そこには2つの標石(といえばいいのか?)があります。

桶川市小針領家、備前堤の道路わき

一級河川綾瀬川起点」

 

ちっとも正面が見えてませんが「一級河川綾瀬川起点」こちらは縦書きで記されています

標石の前、樋管出口から水が出ていました。

綾瀬川起点には備前堤に沿ってと堤下の樋管を通して2つの用水路の流れが合流しています。人工の水路でいずれも河川の扱いではありませんが、上流にまだ流れが存在しているので水源、源(流)でなく『起点』になっています。

ちなみに起点位置の標高は10mしかなく、川の勾配はほぼ無ですね。(延長は47㎞)

 

川起点から備前堤上の道路を200mほど行くと上越新幹線が通っていますが、その近くに備前堤についての解説などが立ってます。

土地改良完成記念碑と手前「備前堤」解説

奥へ伸びているのが備前堤上を行く道路。

解説文

史跡 備前
備前堤」という名は、江戸時代に関東郡代として、幕府の領地の開発にあたった伊奈備前守忠次に由来する。忠次は、鴻巣領(鴻巣市付近)、小室領(伊奈町)一万三千石を給され、小室に陣屋を構えた。
この備前堤は、常光(鴻巣市内)、中丸(北本市内)方面から流れる赤堀川を幅四メートル、高さ約三メートル、長さ約六〇〇メートルの堤を築いて締め切り、その流れを元荒川に直角に落したものである。
この堤の完成によって、下流の伊奈、蓮田方面の村は洪水の害をまぬがれるようになったが、現在の桶川市域を含む上流の村は大雨が降るたびに田が冠水し、その被害は大きく近年にまで及んだという。
出水のたびに、上流と下流の村々の間で備前堤をめぐる争いがしばしばあったと伝えられ、現在も残る「御定杭(おさだめくい)」はこの争いを調停するために、土俵を積む高さを制限する目安とされたものである。
昭和六十二年三月    桶川市教育委員会

昔は綾瀬川の流路に荒川(現・元荒川)、赤堀川などの水も流れ込み、いったん大水が出ると手の付けようがなかったので備前堤を築造して締め切り、流れを分離しました。
綾瀬川の流路は荒川の本流だった時もあったといわれ、お互いの川の流れは混とんとしていたようです。
なお、荒川(現・元荒川)はこのあたり綾瀬川の300mほど北側を流れ、備前堤で流れを変えた赤堀川が合流しています。

備前堤解説後ろの石碑は伊奈さん事業とは別物でわりと新しいものにつき説明省略。

 

備前堤土手の高さはこれくらい

 

帰り道にて

駅まで遠かったです。

 

綾瀬川流路地図 その4部分は青

 

前回その3

miwa3k.hatenablog.jp