散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

見沼代用水を歩く その1 瓦葺東西水路分岐点(上尾)からさかのぼり柴山伏越(白岡)まで

見沼代用水、今年夏が盛りになる前まで、途中から2本に分かれた東縁、西縁の水路をそれぞれ歩きました。
ようやく涼しくなってきましたので、分岐点より上流をたどって利根川まで徘徊することにしました。

以前、見沼代用水を歩きはじめたときにまとめた概要を再度掲載します。【自分用復習】

「見沼」は現在のさいたま市緑区、見沼区、北区などの範囲に江戸時代初期開かれた見沼溜井(農業灌漑用貯水池、ダム、ため池)のことです。それ以前にも湿地、沼沢地としての見沼は存在しました。
見沼溜井からは東西2つの農業用水路が開かれます。(これがのちの東縁、西縁)
江戸中期、天保の改革の一環として見沼溜井の干拓と新田開発が行われることになり、見沼溜井に代わる水源が必要となったことで利根川から新たに用水路が開削されて見沼の新田(見沼田んぼ)や見沼溜井からの用水を利用していた農地へ水を供給、これが「見沼代用水」です。途中までは1本の水路ですが分岐して東縁、西縁となりそれまでの水路に接続される形になっています。

今回歩くのは利根川から見沼まで江戸時代に開かれた水路のうち東縁、西縁に分岐する前の部分です。分岐点の上流側にあたります。
分岐点である上尾市の瓦葺(かわらぶき:地名)から利根川まで32㎞ほど、さかのぼって実際には2回で歩きましたが撮った写真がやたら多いので何回かに分け、小出しにしていきます。〈お付き合い頂ければ幸いです〉

 

最初は利根川からの見沼代用水本流が東縁、西縁に分岐する瓦葺分水工付近

背後から1本の水路で流れてきた水が2つに分かれます。この先左水路東縁(ひがしべり)、右水路西縁(にしべり)、別々の水路に分かれて流れる直前で、水路中央に仕切りが立っているところです。

 

ここより下流すでに歩いた東縁・西縁の記録

見沼代用水東縁を歩く その1 古千谷橋・見沼代親水公園終点から遡り旧見沼溜井・八丁堤まで - 散歩の途中

見沼代用水東縁を歩く その2 見沼通船堀 - 散歩の途中

見沼代用水東縁を歩く その3 見沼通船堀から瓦葺東西水路分岐点 - 散歩の途中

見沼代用水西縁を歩く その1 西縁末端の先にのびる新曾用水からさかのぼって見沼氷川公園まで - 散歩の途中

見沼代用水西縁を歩く その2 見沼氷川公園から瓦葺東西水路分岐点 - 散歩の途中

 

 

仕切りが現れる前の水路

ここは地名では蓮田市蓮田、先ほどより少しだけ上流です。

こちらを約32㎞さかのぼって歩いていきます。

 

水路はこのあたり東北本線(宇都宮線)線路近くを通ってます

 

見沼代用水、水路に沿って「緑のヘルシーロード」という自転車兼歩道が整備されています。〈ただしこのあたりは綺麗すぎ〉
利根大堰まで32㎞ポスト

 

一般道と交差するところでふり返り下流方向

 

蓮田の町に入って住宅地内を通過
31㎞ポスト

 

ここまで初夏の頃撮影した絵でしたが季節が少し移動。

これも蓮田の住宅地内

の写真、右から見沼代用水路、緑のヘルシーロード(自転車道兼歩道)、用水路管理用道路。

この水路、護岸や管理道、遊歩道がどこもきちんと整備されています。
歩く立場でいうと普通の河川に比べてとても歩きやすいです。ただ、水路を覗いてもコンクリートで覆われ、フェンスもあり、どこも画一的で変化は乏しいです。おもしろ味は少ないかもしれません。

 

少し先には利根大堰まで30㎞ポスト

対岸は少し高くなってます。東縁、西縁に分岐した後もそうでしたが、このあたりも台地崖ぎわの微高地に沿って水路が通されています。〈水路を通す際、低地に元々あった田畑にあまり影響を与えないため境目、端っこを通したということです〉

 

蓮田浄水場の水管橋を前に

右に浄水場があります。見沼代用水のすぐ左には並行して綾瀬川が流れ、それも一気に跨いでいる水管橋ですが、目視ではほんの少し低い位置を流れる綾瀬川は存在すらわかりません。〈以前綾瀬川を歩いたときもこのへん川べりから見沼代用水の存在はほとんどわからなかったです〉

 

見沼代用水から綾瀬川への余水吐設備

2つの流れがもっとも近づくところにありました。

手前、見沼代用水護岸に穴(鉄格子部分)があります。余水は道路下を横切り水色のバルブ開閉器の先から綾瀬川に排水されます。開閉器の向こうに見える小さな橋の下が綾瀬川です。距離的には3~40mしか離れていません。
ちなみに川幅は見沼代用水、綾瀬川ともこのあたりでは同じくらいです。

 

その先広い水田地帯に出ます。先の高架は東北新幹線

 

29kmポスト

ポスト付近道路にはこんなプレートが埋め込まれています。

↑上尾市 瓦葺分水工へ3.8km

ここは 蓮田市閏戸

↓行田市 利根大堰へ29.0km

プレートが埋め込まれてから時間が経ち、市町村合併で地名がいまと異なるものやなくなってしまったのもありました。

 

東北新幹線高架をくぐる手前

左は桜並木、通過中の新幹線は北海道まで行く車両でしょうか。

 

高架下をくぐって、右、地図では『ひょうたん池公園』とあります

水が少なくなったのか蒲など湿地植物の草はらと化しています。

前に車がとまってますが草刈り作業中で先が通行止め。28㎞ポストは作業区間の中にみえました。

 

こちら迂回中の管理道路

こちらはたまに地元の人の車が通ります。自転車もヘルシーロードよりこちらが走りやすいようです。

 

ヘルシーロードに復帰して27㎞ポスト付近

周囲の風景あまり変わりません。この先もずっと

 

時々管理道路、ヘルシーロード、水路の位置関係が変わります。〈理由は不明〉
行方橋上から水路上流方向を見て(蓮田市駒崎)

ここでは右から管理道、水路、ヘルシーロードの順番。

 

26㎞ポストも桜並木の間(蓮田市駒崎)

 

25kmポストも(蓮田市上平野)

実際はずーっと桜並木になっているわけではなく断続的に続いています。

 

この池田橋は水路幅に比べて長い

県道が通る古めの橋、欄干が不自然にだいぶ先まで続いていることに気づきました。現在の用水路は1980年頃に大規模な改修がなされ水路幅が(狭く)変わっている事が原因のようです。
水路幅を狭くしてできた余地に自転車歩行者道、緑のヘルシーロードが整備されたのだそうです。

 

24㎞ポストは草むらの中

左、水路フェンスの向こうはここも桜並木。

その左右、草の間から覗く景色

まだらになってますがメインは水田が広がっています。稲刈りシーズン

 

24㎞ポストから4~500mさかのぼると水路途中にゲートが現れて
『柴山伏越(しばやまふせこし)』の設備です。

柴山伏越、出口側の水門ゲート

この先すぐ見沼代用水を横切って元荒川が流れています。見沼代用水はここで元荒川の下を潜る伏越(水路の立体交差)になっており柴山伏越と呼ばれています。(柴山は地名)

これは伏越出口側に設けられた水門です。

先へまわり込み

大きな水色のゲートが上がってます。〈はて?こちら側ゲートが閉まる想定ってどんな時でしょう?〉
その手前で伏越を通ってきた水が上がってきて、向こう側下流へ流れていきます。

 

背後はすぐ元荒川が横切ってます

右の橋(常福寺橋)を渡ってからふり返って見たもの。左前方に出口側ゲート上部がみえてます。〈元荒川を歩いたときの写真に差し替えました〉

見沼代用水の水はこの背後、伏越入口で下へ落とされ、パイプを通って元荒川を地下で横断、出口でまた上へあがってきます。
サイフォンの原理でポンプ等動力を必要としないので江戸時代の用水開通当初から利用されていました。

 

伏越入口側の水門など(柴山調節堰)

入口側はゲート2つです。通常時は開かれ、水はゲート後方にある〈穴〉から下へ落ちて先へ流れていきます。
左に分岐した水路がありますが水量が過剰のときゲートを閉じ、そちらから元荒川へ放流するための『余水吐』です。〈なので普段余水吐側は閉じているはずです〉

 

伏越出口側から元荒川対岸右側に余水吐の放流口

伏越を通る水はちょうどこの直下、地下のパイプで川を横断しています。

 

伏越入口側、穴の直前に「柴山伏越」の銘版

 

水資源機構が掲げた解説板

■見沼代用水路の概要
江戸時代の八代将軍「吉宗」は、お米がたくさん取れるように新しい田んぼを作ることを考え、1716年から1736年の20年間(享保期)に全国で多くの田んぼを作らせました。
当時、見沼地区(今の大宮市・浦和市の東部)は「見沼」という溜池(農業用水をたくわえる池)でしたが、この場所を田んぼにする事によって、農業用の溜池が無くなってしまうので利根川の水を使うこととなり、1727年9月から翌年春にかけて、幕府のお役人、井澤弥惣兵衛為永(いざわやそうべいためなが)(和歌山県の人で土木技術にすぐれていた)という人が中心となって、行田市下中条から浦和市まで用水路を作りました。
この用水路の名前を「見沼代用水路」といい、水路延長は約80キロメートルもあります。
工事をするにあたり、短い期間に工事を終わらせなければならず、古くからある川を利用して、新しく掘る水路の距離を短くしたり、上流と下流の両方から掘り始めて日数を短くしたり、用水路が元荒川と交差するところでは、川の下をサイホンでくぐらせたり、綾瀬川と交差するところは川に樋をかけ、上を越させたりと工夫をしました。そして約15,400ヘクタールの田んぼで水を使うことが出来ました。

中央地図は省略

柴山伏越と常福寺
柴山伏越とは、見沼代用水路と元荒川が交差する場所で、上流の白岡町柴山から元荒川の川底を見沼代用水路が木製の樋管を使ってサイホン方式でくぐり、下流の蓮田市上平野に抜け出るしくみのことです。
現在は、河川の改修が行われ当初より川幅も三分の一と狭くなりましたが、これまでに20数回の改修工事が行われ現在の形になりました。
1767年(明和4年)に、見沼代用水によって恩恵を受けた人々が、井澤弥惣兵衛為永さんの供養塔を常福寺の境内に建て、感謝の気持ちを表しました。

大きなお世話ですが
解説、地図中の市町村名は平成の大合併で現在は変化してます。
伏越、用水路のサイフォン部、現在はコンクリート製の導管です。

 

伏越入口近くにて

見沼代用水は2019年かんがい施設遺産に登録されたそうです。
前方は常福寺境内、墓石などが写ってますが井澤弥惣兵衛為永の墓。左はその解説です。

今回はここ柴山伏越までとします。

 

続き

miwa3k.hatenablog.jp

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見沼代用水 瓦葺分水工~利根大堰

流路地図