前回の続き、見沼代用水東縁水路八丁堤から上流へ進む前に、今回は見沼通船堀へ寄り道します。
【再掲】東縁水路にかかる山口橋
橋を渡る赤山街道(県道103号)は見沼溜井を造る際に築かれた『八丁堤』の上を通っています。
橋の向こうからは江戸時代初期に造られた見沼溜井の範囲に入ります。
見沼代用水と見沼溜井の位置関係が分かる図がありましたので貼り付けました。「見沼」と記された水色の範囲、溜井の広さもよくわかります。
見沼地図
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上図で現在位置は右下『八丁堤』と東縁水路が交差するあたりです。
八丁堤の数十メートル先、東縁と見沼通船堀の分岐点
東縁左側護岸に水門ゲートを上下するハンドルが見えてます(カーブミラー手前)。そこから左へ分岐して延びるのが見沼通船堀、現在の分岐点は狭く船は通過できません。
見沼溜井が江戸時代中期になって干拓され、八丁堤の北側に沿ってその後造られたのが見沼通船堀です。
見沼通船堀
指定種別・名称 史跡・見沼通船堀
指定年月日 昭和57年7月3日
所在地 埼玉県浦和市大字大間木・下山口新田見沼通船堀は、享保16年(1731)に幕府勘定吟味役井沢弥惣兵衛為永(いざわやそうべえためなが)によってつくられた我が国最古とされる閘門式運河です。通船堀は代用水路縁辺の村々から江戸へ、主に年貢米を輸送することを目的として、東西の代用水路と芝川を結ぶかたちで八丁堤の北側につくられたものです。東縁側が約390m、西縁側が約654mありますが、代用水路と芝川との間に水位差が約3mもあったため、それぞれ関を設け、水位を調節して船を上下させました。関と関との間が閘室となり、これが閘門式運河と呼ばれる理由です。この閘門をもつことが見沼通船堀の大きな特徴となっており、技術的にも高く評価されています。
通船堀を通って江戸に運ばれたものは、年貢米の他野菜、薪炭、酒、柿渋など代用水縁辺の村々の生産物で、江戸からは肥料、塩、魚類、醤油、荒物などが運ばれました。
通船を行うのは、田に水を使わない時期で、初め秋の彼岸から春の彼岸まででしたが、後に冬場の2ヶ月程と短くなりました。通船は明治時代にも盛んに行われましたが、陸上交通の発達などによってすたれ、大正時代の終わり頃には行われなくなり、昭和6年の通船許可の期限切れとともに幕をおろしました。
見沼通船堀は、江戸時代中期の土木技術や流通経済を知る上で貴重な史跡として国の史跡に指定されています。また通船差配(船割役)の鈴木家住宅もあわせて指定され、保存されています。
見沼代用水東縁を背にして分岐点から前方、見沼通船堀東縁
空堀ですね。分岐点付近は普段水の流れもなく、草木が生い茂っています。
堀沿いの広場にあった見沼通船堀模型で東縁との分岐点周辺(写りがすごくアレですが)
右側縦に見沼代用水東縁水路、手前にかかる橋から左へ八丁堤、その上を赤山街道が通り人家が並んでます。
その奥で代用水東縁から分岐するのが通船堀東縁です。
通船堀北側に並行する道路から
柵の先が通船堀東縁、前方2つの関を経て芝川へつながっています。長さは390m。
東西の見沼代用水路と中央の芝川の間にそれぞれ約3mの高低差があったためそのままでは通船できず、堀の途中に合計4か所の閘門(関)を設け水位の調整を行いながら船を通過させました。現在東縁の2つの関が復元されています。(西縁の関は再整備工事中で取り除かれていました。)
通船堀東縁二の関近くからふりかえり(代用水東縁方向を向いて)
反対側正面は二の関
前方からふり返って
そこからわずかな距離で一の関
その先には芝川の合流点近くに架かる橋も見えます。
閘門(関)の構造
関の設置された場所の底面は、松の丸太が地中に深く打ち込まれ、その上に角材が根太として渡され、板が全面に貼り付けられていた。側面も板と杭で全面が囲まれていた。
閘門の中心には、鳥居柱と呼ばれたケヤキの角材が門柱として設置されていた。この門柱の上流側(見沼代用水側)に角落板(かくおとし)とよばれる平板を積み上げて水を溜めたり、板を抜いて排水したりして水位調節を行った。
角落板は各関で10枚から12枚程度使用された。角落板は約18センチメートルの幅であるため、水位を1.8メートルから2.1メートル程度まであげることができた。関の中の水位を下げる時は、この角落板を両側から鈎(かぎ)のついた長い棒で1枚ずつ引き上げて関から抜き取っていた。この作業は、枠抜きと呼ばれ、熟練を要した。
角落板は、前述の鳥居柱の門柱に水圧で押し付けて固定された。
船の通過方法
江戸からの船が見沼通船堀を抜ける場合、芝川の通船堀近くの八丁堤に会所が設けられ、そこに船をつけた。江戸から芝川をのぼる時刻は、労力の軽減を図るため江戸湾の潮位が満ちてくる時間に合せられたので一定しなかった。八丁会所についた船は、岸から太い綱で引かれ、一の関へ引き入れられた。船を上流に向かわせるのは自力では困難であったため、見沼通船堀に引き入れるには人力が使われた。1隻につき20人程度の労力が必要であった。
船が一の関に入ると、一の関の角落板がはめ込まれて、関内に水をため水位を二の関が通過できるようになるまで上昇させた。同時に二の関の角落板が外されて、船を二の関の中に引き入れた。船が二の関に入ると、二の関の角落板が入れられ、水位が上がり、見沼代用水へと船を引き入れた。代用水側から江戸へ向かう船は、逆に二の関、一の関の順に角落板を一枚ずつ外して水位を下げて芝川へ向った。
一の関と二の関の中間には舟溜りと呼ばれる場所があり、ここで上りと下りの船の行き違いや、関の開閉や水位の調整のための待機が行われた。
1つの関で水をためるのに40分から50分程度かかり、1艘の船が通船堀を通過するのには、1時間半から2時間程度を要したといわれている。
年に1回角落板を使用した水位調整と船を通過させる実演が行われているそうです。(ここ数年はコロナ渦禍で中止らしい。)
一の関近くから
2つの関の高さの違いがわかります
芝川合流点の橋上から
ここは水が流れてますが、2つの関の中間あたりで通船堀に流し込まれている農業用水の末流です。
芝川合流点付近の模型〈みにくくてすいません〉
縦に芝川(昔は東西見沼代用水の排水を真ん中で受け持っていたので『中悪水』と呼ばれました)、左右から通船堀西縁、東縁。芝川の橋から通船堀の間が八丁堤で少し高くなってます。
芝川・八丁橋上から上流方向
川の左右に橋が見えるところ、通船堀西縁、東縁の合流点です。上の模型の橋と同じ位置からになります。
八丁堤の上に架かる橋ですがそれほど高くはありません、堤の高さはせいぜい数メートルですね。
八丁橋を道路方向から
ここから見て左側が通船堀のある方向です。
橋の背後こちらは八丁堤のうえにある通船差配(船割役)の鈴木家住宅
建物前に立つ解説から
鈴木家住宅
国指定史跡見沼通船堀のうち
昭和57年7月3日指定
享保12年(1727)、鈴木家は高田家とともに井沢弥惣兵衛為永に従って、見沼干拓事業に参加しました。享保16年の見沼通船堀の完成と同時に鈴木・高田両家は幕府から差配役に任じられ、江戸の通船屋敷で通船業務をつかさどり、八丁堤などには通船会所を持っていました。
鈴木家は、各船に対する積荷や船頭の割り振りなどの船割りを行い、文政年間〈1818~1831〉以降は八丁会所において船割りにあたり、住まいも八丁に移しました。
現在残る鈴木家住宅は、この頃の建立となり、見沼通船の船割り業務を担っていた役宅として貴重な建物です。
平成9年3月
さいたま市教育委員会生涯学習部文化財保護課
<後略>
昨年春、芝川を歩いたときにも通船堀に多少触れています。
続いて通船堀西縁へ。
こちらは芝川の合流点から代用水西縁に向かって進みます。長さは654mです。
芝川合流点近くの橋上から
何だかもしゃもしゃしてます。左側はすぐに八丁堤です。
左右の住宅位置の段差が八丁堤の高さ分ということです。
この奥は通船堀再整備工事中でした。まあ滅多にみられない風景ではありますが、あわただしく駆け足になってしまいまして...
堀に覆いかぶさっていた木々が伐採されていたりでなかなかです。下側は途中の橋上からですが右側道路は工事通行止め、迂回するためにわたってます。
本格工事前といったところも残りつつ
水量は船を通すには少なすぎます。工事前でもほとんど水量なかったような気がします。
見沼代用水西縁からの分岐点付近
こちらは代用水西縁近くの『見沼通船堀公園』の竹林から
右側下方に通船堀があります。公園部分は昔から存在した自然の微高地で、通船堀西縁もその縁をまわって流れています。
最後は見沼代用水西縁に沿う歩道
左側草むらに隠れて代用水西縁水路があるはずです。
代用水西縁は別途末端から歩いてますのでそのうちまとめます。
次回(その3)は見沼代用水東縁に戻って上流へ進みます。
前回分
続き東縁その3
見沼代用水東縁・西縁流路