金沢八景から野島公園 横浜南部の公園遊歩道を歩く〈その1〉

金沢区など横浜市南部に存在する公園や遊歩道をたどって歩いてきました。

写真をたくさん撮りすぎたので歩みは小出しに刻んでなるべく多くの写真を活かしたいと思います。〈そんな大した画ではありませんが〉

 

スタートは金沢八景駅、京急線と金沢シーサイドラインの接続駅です。
駅前にあった観光案内看板

地図におすすめのウォーキングルートが示されてました。
スタートが隣りの駅など細かい相違はありますが、自分のたてたコースプランと似ていて意図せず同じようなルートをたどることとなりました。

まず『金沢八景』について上の案内(左下部分)から抜粋

金沢八景駅周辺は、江戸時代の浮世絵師、歌川広重が筆をとったように、昔から景勝地として知られていました。駅名の由来となっている「金沢八景」とは、明の心越禅師が中国の瀟湘八景にちなんで名づけたもので、洲崎晴嵐、瀬戸秋月、小泉夜雨、乙艫帰帆、称名晩鐘、平潟落雁、野島夕照、内川暮雪、の景色を指します。しかし、今でも八景の名残を見られるのは野島公園と称名寺の鐘のみです。

 

ということで、近くの川沿いに広重の描いた浮世絵を並べた遊歩道があるのでそちらへ向かいます。

国道16号から泥牛庵(でいぎゅうあん)本堂

臨済宗円覚寺派吼月山泥牛庵。〈道路の金魚すくいトラックが目立ってしまいました〉
国道をはさんで金竜院(金龍禅寺)という寺院もあります。このあたり神社寺院多いです。

寺町から住宅地を通って歩くと侍従川のほとりへ

この歩道を歩いていくと広重の浮世絵、金沢八景を見ることができます。
ちなみに対岸は関東学院大学金沢八景キャンパス、浮世絵レリーフの先に映る建物があったらほぼ関東学院関連です。

2つずつならべて一気に出します
《追記》写真はクリックで拡大しますけど解説も文字起こししました。カッコ内は浮世絵のなかに書かれたうたです。

《さらに追記》地名がローカルなので地図にだいたいの場所を示しました。番号札をあわせておきました。

簡単に済ますつもりでしたがだいぶ長くなっちゃいました....

 

金沢八景位置図

①洲崎晴嵐 ②瀬戸秋月

洲崎晴嵐(すざきのせいらん)
瀬戸橋を東に渡り、金沢から野島に続く砂州がやや北西へ突き出たあたりを洲崎といいます。洲崎明神や龍華寺など、古くからの社寺が点在するところです。広重は手前の筏師から遠くの山並までを詳細に描いています。画面中央にならぶ小屋は塩焼き小屋です。鎌倉時代から、このあたりでは海水を煮て塩を作る製塩業が盛んで、明治時代まで行われていました。現在でもその名残として「塩場」の地名が残っています。
(ふきはるる すさきの里の 朝けふり はるるあらしに たてる市人)

 

瀬戸秋月(せとのしゅうげつ)
瀬戸橋の上に浮かぶ月を眺めた夜景です。手前右上に描かれる「東屋」という料亭の裏から、照手の松小島と瀬戸橋を見越して野島を望む構図となっており、平潟湾や野島は、はるか遠く、墨絵のように描かれています。もとは、八景見物の名所であった能見堂の山頂から、瀬戸方面に向かって見る名月をさして言ったものですが、風光の変化から瀬戸橋付近で見上げた月を指すようになりました。
(よるなみの 瀬戸の秋風 小夜更けて 千里のおきに すめる月かけ)

 

③小泉夜雨 ④乙艫帰帆

小泉夜雨(こずみのやう)
雨の絵の名作といわれる「小泉夜雨」の舞台となった小泉は、通説では釜利谷(かまりや)の入口、手子神社の付近とされていますが、八景のなかでもとりわけ変貌の激しいところです。広重がこの絵を描いた頃は、泥亀新田(江戸時代の医師・永島泥亀(でいき)によって始められた埋立事業)の開発も進み、瀬戸橋で入り海は仕切られていました。あたりの風景はすっかり変わりましたが、手子神社はいまもなお残り、昔のたたずまいをみせています。
(かちまくら とまもる雨も 袖かけて なみたふる江の 昔をそおもふ)

 

乙艫帰帆(おつとものきはん)
野島の裏側、乙艫海岸(現在の海の公園あたり)から小柴の岬を望み、帆懸舟が帰ってくる光景を描いたものです。「おつとも」とは、金沢一帯の海岸線が船の鞆(とも)の形をしていたのにちなんで名付けられました。平潟湾は時代が下るにつれて土砂の堆積が進み、湾の奥まで大型船が入ることができなくなりましたが、野島や乙艫の付近は、なお風を待つ待避所として利用されていました。当時の東京湾は、金沢の良港を過ぎると、神奈川の港まで、小柴・本牧と断崖が海に落ち込む荒海だったのです。
(沖つ船 ほのかにみしも とる舵のん おとものうらに かへる夕波)

 

⑤称名晩鐘 ⑥平潟落雁

称名晩鐘(しょうみょうのばんしょう)
瀬戸の入海から称名寺の方角を描いたものです。洲崎から称名寺にかけては、野島につながる砂州の延長部分にあたり、平地であったために人家も多く、龍華寺(りゅうげじ)・安立寺(あんりゅうじ)などの古刹も建ってました。古くは寺前八幡の近くまで入り海がとどき、八幡宮の周囲も鬱蒼とした森林であったといいます。称名寺は、金沢文庫の創設者である鎌倉時代の武将・北条実時が建立したお寺で、「称名晩鐘」とうたわれたその鐘は、正安三年に北条顕時が改鋳したものです。現在では重要文化財に指定されています。
(はるけしな 山の名におふ かね沢の 霧よりもるる 入あひのかね)

 

平潟落雁(ひらがたのらくがん)
野島の内側にあたる平潟湾は一面の浅瀬で、泥亀新田の開発と同じころに塩田として開発されたところです。画面には、落雁の群れとともに、潮干狩をする人々が描かれています。平潟周辺の漁民が余業として行っていたのでしょう。この平潟湾は、内陸の安全な浅瀬として、昭和30年代まで潮干狩や海水浴の名所だったのです。
(跡とむる 真砂にもしの 数をへて しほの干潟に 落るかりかね)

 

⑦野島夕照 ⑧内川暮雪

野島夕照(のじまのせきしょう)
野島はもとは陸続きの島で、百軒の漁師があったと伝えられています。この漁村の夕暮れは美しく、野島の山頂からは遠く房総の地も望まれました。画面は、左から野島・夏島・烏帽子島を描いています。野島と夏島は、今も埋め立て地の中の小山としてかろうじて姿をとどめていますが、烏帽子島はすでにとり崩されてしまいました。
(夕日さす 野島の浦に ほすあみの めならふ里の あまの家々)

 

内川暮雪(うちかわのぼせつ)
雪にたたずむ民家と塩焼小屋、そして蓑がさを身につけ雪の中を歩く人々を描く「内川暮雪」は、金沢八景の中でも最もその描かれた場所の特定に異説があるものです。釜利谷の入口、手子神社のあたりを指したり、また金龍院の付近をあてはめることも行われたようですが、この絵は、おそらく洲崎や野島あたりの塩田から対岸の瀬ヶ崎を望んだ風景で、遠景の中央は鷹取山から神武寺に続く連山だと思われます。

 

歩道の途中から


歩道の終点平潟橋近くにもうひとつ

侍従川と照手姫の伝説(じじゅうがわとてるてひめのでんせつ)
六浦(むつうら)方面から平潟湾に流れ込む侍従川。この川には照手姫(照天姫ともいう)にまつわる不思議な伝説が残されています。昔、常陸国での戦いに敗れた小栗判官には、照手姫という侍女がいました。照手姫は藤沢から朝比奈峠を超え、六浦港に出ようとする所で追手に捕らえられ、侍従川に投げ込まれるなど、何度か危機を迎えますが、その度に日頃信仰している観音の功徳によって奇蹟的に助かり、その後無事に小栗判官と再会できたという話です。また、川の名前も、「侍従」という名の照手姫の乳母にちなんで付けられたといわれています。

 

先へ進みます。

平潟橋上から野島


橋を渡った先にある歩道橋上から平潟湾

奥を横切るのは金沢シーサイドライン

歩道橋下りると野島公園〈本土側〉

もうひとつ橋を渡った野島のなかに野島公園がありますが、こちら本土側も名称は同じ。

 

本土側の野島公園をぬけたところに夕照橋、野島にわたります

広重の野島夕照に描かれたのは対岸右側のほうでしょうか、見切れてるかもしれませんね。
現在は野島の半分ほどが野島公園、あと半分は住宅地です。

夕照橋から平潟湾の方向

先ほどの歩道橋からはいくらも離れてません。

 

野島の住宅地を奥へ進み野島公園へ

バーベキュー場、キャンプ場あたりから中へ入りました。園内は歩道が巡ってます。

こちらは野島稲荷神社

うしろの山(野島山)の登り口がこの左側にあります。標高は55m展望台あり〼

 

公園の東側は運河のような狭い水路をはさんで目の前が日産自動車追浜工場
北側の海岸へまわります。

波打ち際から野島北側の海岸

左のほうではごみ拾いをされています〈ありがとうございます〉
向こうは八景島など、シーパラダイスのジェットコースターなどが目立ちます。この先八景島を一周するつもりです。

さらに左(西)側を見ると

あちらは海の公園エリア

背後の野島山下には
「野島の掩体壕(えんたいごう)」があります

解説文拡大

解説文の右は掩体壕の断面図平面図、山の向こう側までトンネルが突き抜けてたんですね。

 

野島公園北の端っこには牡丹園と旧伊藤博文金沢別邸があります。
牡丹園から海岸方向

真冬ですし...

奥が旧伊藤博文邸

後ろ側の居間棟部分

こちらの別邸で明治憲法の草案が創られたといわれています。

玄関側

邸内は開放されてます。お茶とお菓子も頂けるのですが現在は休止中とか

また波打ち際から

左は八景島、右には日産自動車や住友重機械工業などの工場。遠くには房総半島、製鉄所や発電所設備がうっすらと

 

野島公園北側から外へ出て本土側へ野島橋を渡ります。
野島橋上から金沢シーサイドライン野島公園駅

野島は元々陸続きの陸繋島でしたが、この橋の下を通る水路を設けたため『本土』と切り離され、ちゃんと『島』となりました。

さらにシーサイドラインに沿って海の公園へ向かいます

もう少しで海の公園ですが、ここでいったん刻みます。

 

今回ちょっと解説文などの引用が多くなりました。

 

 

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