散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

鎌倉街道を歩く 中道その3 二子の渡しから渋谷経由池袋まで

鎌倉街道中道も現在の東京都内に入る。中道その2にも書いたが、参考にしている資料では街道経路が二子の渡しから先は二手に分かれている。網の目のような鎌倉街道の道筋だが、主要道として2つが甲乙つけがたいということ。まずは資料で”Aルート”とされる道筋をたどることにした。

Aルートの今回歩いた主な経由地

二子の渡し(二子玉川)→上野毛→八雲→上目黒→渋谷→神宮前→千駄ヶ谷→新宿→戸山→高田→雑司が谷→池袋

その3行程・足あとは青色の区間

スタートは東急線二子玉川駅

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この駅は散歩の時の乗り降りでよく使うけれど、いつも同じ場所からの写真なのでホームから撮ってみた。(どうでもよいっちゃどうでもよい☆)

Aルートのコースは、駅を出ると多摩川に並行している多摩堤通りを川の下流方向へ少し行く。
二子玉川付近には現在の多摩川堤防の外側にもうひとつ堤防が残っている。

玉川東陸閘(たまがわひがしりっこう)から

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左右の土手が大正時代に築かれた堤防、後ろ側が多摩川で川べりには現在もう一重の堤防が存在する。陸閘と呼ばれる、堤防が切られたこの部分は普段は通行が可能で、増水時にはここにゲートをたてて水を塞ぐような仕組みとなっている。レンガ壁の両側縦に切れ込みがはいっているところにゲートをたてる。
多摩川べりには堤防建設以前から観光用の料亭などがあり、川との間に堤防がつくられると景観が悪くなると反対されたため、やむなく堤防を陸側に迂回させたのでこのようになったらしい。現代ではあり得ない対応だけど、当時は認められたのだ。もう少し上流側には同じようなつくりの玉川西陸閘がある。
ちなみに前方は二子玉川駅バスターミナル。

鎌倉街道中道Aは二子の渡しを渡って下流方向に少し行ったところから坂を上がっていく。上野毛(かみのげ)方面からきて現在の二子玉川公園にぶつかる道路があるが、その道を行く。

上野毛方面から下りてくる坂道

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坂道の原因は大昔の多摩川が削ってつくった崖、国分寺あたりから続く国分寺崖線が左右にずっと続いている。がけ下を丸子川(六郷用水)が流れている。

丸子川を稲荷橋で渡るとすぐ上に上野毛稲荷神社があり、その奥に稲荷丸古墳がある。坂を登ると環八通り上野毛駅前交差点に出る。
東急大井町線上野毛駅

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(穴あき)天井があるけどホームと線路は道路の下。

そのまま道路を先へすすむと、その下流等々力渓谷となる矢沢川を渡り、中町天祖神社前を通過する。
中町天祖神社鳥居前

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道は等々力六丁目交差点で目黒通りと合流する。合流した目黒通りの歩道をずっと歩く。

目黒通りで(世田谷区深沢1丁目、等々力6丁目境界)

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世田谷区から目黒区に入って八雲、東急東横線のガードにさしかかる手前の少し特殊な分岐を左折して柿の木坂の細い道へ入る。
呑川柿の木坂支流緑道の1本隣りの道路を北へ歩く。この道は正確には旧道ではなく、突き当たって右折すると環七通り柿の木坂一丁目交差点、そこを環七背後の細い道に左折するとこちらは旧道であるらしい。

世田谷、目黒区境界となっている道を行くと駒沢通りと交差し、さらにその先へ。
区境界を通る鎌倉街道中道旧道(世田谷区下馬5丁目、目黒区五本木3丁目境界)

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この道をさらに先へ行くと、道路の真ん中に木が生えていてロータリーのようになっている。
葦毛塚(あしげづか)

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近くに寄ると「芦毛塚之碑」石碑と解説

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解説によれば

葦毛塚(あしげづか)
源頼朝が、葦毛の馬にのって、この地を通ったとき、その馬が何かに驚いて沢に落ちこんで死んだという。また、一説に鎌倉将軍の世、この地の領主北条左近太郎が仏経をもって出かけたが、その葦毛の乗馬が突然たおれたのでここに、埋めたともいう。いずれにせよ、遠い昔から葦毛塚とよばれていたらしい。このあたりは古くから馬の放牧場であり、馬に関した地名や伝説が多い。
昭和五十三年三月 世田谷区教育委員会

いずれにしてもあしげづか、なぜ道路のほうがよけてるのかもわからないな。

葦毛塚のところで旧道はいったん途切れるが、蛇崩川(緑道)を渡り、蛇崩交差点から通称「オリンピック通り」に合流、「半兵衛坂」の標柱があり、そこにはこの通りが1940(昭和15)年の幻の東京オリンピックの際に整備されたことが書かれている。

少し先、宿山(しゅくやま)と呼ばれたところで分岐、細い道へ入っていくところから旧道が復活、角のところに
庚申塔など

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解説には

宿山の庚申塔(しゅくやまのこうしんとう)
上目黒5-5
江戸時代の農村では、庚申信仰が盛んで各集落に庚申講があったといいます。60日毎にめぐってくる庚申の日に、講の人が集まって青面金剛(しょうめんこんごう)、帝釈天(たいしゃくてん)、猿田彦(さるたひこ)などをまつり、飲食を共にしながら夜を明かす庚申待(こうしんまち)が行われました。そして庚申待を18回終えると、供養や記念のために庚申塔を建立しました。この周辺はかつて、字名(あざな)で宿山といいました。
向かって右から2番目の庚申塔は、元禄5年(1692)の造立で本尊を青面金剛とし、日月、二鶏と、三猿が正面左右の三面にそれぞれ一猿ずつ浮き彫りされています。その左の庚申塔は、地蔵菩薩を本尊とするもので、延宝3年(1675)に造立されました。一番左の庚申塔は宝永5年(1708)の造立で、青面金剛、日月、二鶏、三猿が刻まれています。
平成22年12月 目黒区教育委員会

道なりにすすむと小川坂というゆるい下り坂にかかり、道は右へ曲がっていって山手通りに出る。その向こうは目黒川でそこへ架かっている橋は宿山橋。

宿山橋と目黒川

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中目黒の駅にも近く、人通りの多いところ。

橋を渡ると上り坂にかかり、坂の上、こんもりとした木立の間に「元富士塚(目黒元富士跡)」。江戸時代の富士山信仰によりつくられた高さ12mの「ミニ富士山」があったところだったとの解説があった。

富士塚へ上がる道、目切り坂と呼ばれるらしい

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富士塚からすぐに旧山手通り代官山交番前交差点に出る。このあたりから渋谷区、一回旧山手通りに沿ってちょっと行くと猿楽塚という古代の墳墓、6~7世紀の円墳が2基ある。街道はその間を通っていたということで、そこから出てきたあたりまで行って右に折れ、旧道といわれるところに入る。
反対側の歩道を歩いていたり、ちょうど映画?のロケをしていて人がごった返していたりで、猿楽塚への入口が確認できずそちらへは寄れなかった。

また細い道を勝手にあちこち折れ曲がりながらジグザグに行くと山手線を越える陸橋の上に出る。昔は陸橋などなく道は下を通っていたはずだが。

山手線を越える陸橋・猿楽橋手前から

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ここからはずっと山手線の内側を歩く。正直に言えばこんなところに鎌倉街道が通っていたなんて想像したこともなかった。

陸橋をわたると坂を下り気味に渋谷川を渡る。
木橋から渋谷駅方向

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川にかかる並木橋よりもよっぽどでかい明治通りとの並木橋交差点を直進すると坂をあがる途中に
金王八幡神社一の鳥居から

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境内の解説抜粋

金王八幡宮は、寛治六年(皇紀1752年、西暦1092年)渋谷氏の祖河崎高家により鎮祭され、高家の子重家が鎌倉街道沿いの要所であるこの地に館を構えて居城として以来、渋谷氏の氏神として尊崇されました。
渋谷重家には嫡子がなく当神社に祈願をしたところ、大神の御神徳により渋谷金王丸常光のちの土佐坊昌俊を授かりました。金王丸の活躍は平治物語吾妻鏡などにみられる通りであります。当神社は当初「渋谷八幡宮」と申しておりましたのを、金王丸の名声に因み「金王八幡宮」と称するようになりました。
時代は変わりましたが、現在も青山・渋谷の氏神様として数多の崇敬を集めております。

渋谷二丁目交差点で六本木通りを越え、青山学院脇を通って青山通りに出る。猿楽塚付近からここまでは旧道の道筋に合っているようだが、この先の道は国連大学のなかを通って行くらしく一時消滅。

青山通り国連大学

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ここを右折して青山通り、その先南青山五丁目交差点手前の細道へ左折する。

途中で右折して表参道方向へ

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この通りは国連大学をぬけてきた旧道になるらしい。

北青山から神宮前へ。
表参道を横切って原二本通りと書かれた通りへ

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さらにぬけてキラー通り外苑西通り)も横切ると青山熊野神社の横を通る。その先の街路灯に「旧鎌倉街道」の文字、次の街路灯には「勢揃坂」とあった。

渋谷区神宮前2丁目、勢揃坂にて

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上道を歩いていた時にも所沢市内で勢揃橋というのがあった。資料によると勢揃いとは現代で言う「閲兵式」のことだそうで、多数の軍勢を集めた場所だったのだろう。
なお、前方のクレーン群は新国立競技場建設中也。

勢揃坂途中に龍巌寺

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寛永7(1630)年創建というお寺。すぐ近所には慈光寺もある。熊野神社も含め、このせまい範囲にお寺、神社がいくつもある。

坂を下ると途中で霞ヶ丘アパートの跡地(2020年東京オリンピックのための工事ですでに団地建物は解体されてしまっていた。)にぶつかって道は途切れているのか、単に昔からそこで左折しているのか。
左折して再びキラー通りを渡り、反対側へ出るとそこにも瑞円寺、鳩森八幡神社などがある。

鳩森八幡神社手前から

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社殿

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神社HPによれば

貞観2年(860年)、慈覚大師(円仁)が関東巡錫の途中、鳩森のご神体を求める村民の強い願いにより、山城国石清水(男山ともいう)八幡宮宇佐八幡宮遷座し給うた故事にのっとり、神功皇后応神天皇の御尊像を作り添えて、正八幡宮とし尊敬し奉ったと伝えられている。

ということでかなり古い神社。現在の境内には富士山信仰の富士塚、将棋堂などといったものもある。

また神社前の道は鎌倉街道で、この先大窪(大久保)へ通じていたといわれている。ところがその道筋は現在の新宿御苑のなかを通り抜けていると推定され、そこには街道の痕跡はないとされている。新宿御苑のある場所は江戸時代にはすでに屋敷があったので、その時には街道は潰されて存在しなかったことになる。御苑は何かの機会にゆっくり訪れることにし、東京体育館前から外苑西通りを通って四谷四丁目交差点へ出てから街道の復活する新宿一丁目へ迂回した。

迂回中・四谷四丁目交差点から

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街道へ戻って、靖国通りと交差する新宿一丁目北交差点

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新宿1丁目から抜弁天通りの先までは旧道の道筋だそうだ。
向こう奥へは靖国通り九段、市ヶ谷方面、鎌倉街道(このへんでは現在そのように呼ばれていないと思うが)は右から左へ交差している方。現代の道幅はかなり拡張されているが、この先新宿6丁目、7丁目などへ行くにしたがって細くなっていく。
交差点歩道にある石柱には新宿2丁目15番の表示、上面には内藤新宿散歩の案内地図など。

新宿6丁目、昔は東大久保と呼ばれた地区に入ると神社寺院の密集した地域を通る。新宿中学校(ここも以前の名称は大久保中学校だった)先の坂を下りると上に西向天神がある。

西向天神

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千駄ヶ谷の鳩森八幡と同じようにここにも富士山信仰(富士講)の富士塚がある。

先へすすむと、街道旧道は抜弁天通り(ぬきべんてんどおり:靖国通りの支道になる道路)の下をくぐるようになっていて、ぬけたところで突き当たって旧道はまた消滅している。推定ではそのまま北へ向かって、戸山ハイツアパート、学習院女子の構内などを通っていたようだ。こちらも今ある細道を北へ歩いて行くと大久保通りにさしかかる。

細道から大久保通りへ上がっていく

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壁の上が大久保通り、道路をつくるときに盛り土したのだろう。

向こう側は戸山ハイツという都営団地で、なかほどは広い公園と緑道になっているのでそこを歩いて行く。
プロムナードの入口あたり

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団地と公園をぬけて坂を下りていくと諏訪通りに出て左折、学習院女子大の建物が並ぶあたりで右折して細い道にはいるとそこがまた旧道とのこと。ここの右折はちょっと道が見極めにくい。この先は鬼子母神近くまで道筋が残っているらしい。

途中、早稲田通りを突っ切り西早稲田、その先に2つの山門を持つ亮朝院がある。
亮朝院鐘楼門

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本堂前のこの門は袴腰鐘楼門という。たしかに袴をはいたような形にみえる。

隣りにある七面堂前には赤い山門

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奥にあるのが七面堂、その前に一対の仁王像の一方だけ見えている(はず)。

すぐ先で都電の通る新目白通り面影橋に出る。都電面影橋停留所の先は神田川で、そこにかかる橋が面影橋だ。
面影橋

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近くにあった解説を抜粋すると、「目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋ともいわれていました。」また、俤橋とも書かれたそうだ。

そのすぐ近くには
山吹の里の碑

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碑の解説には、このあたり一帯は山吹の里と言われていたこと、太田道灌が鷹狩りで雨にあい農家の娘に蓑を借りようとして山吹を一枝差し出された故事の件、この碑が貞享3(1686)年に建立された供養塔を転用したものであることなどが書かれていた。

神田川を渡り、高田(豊島区)、この先雑司が谷に向かって宿坂という坂を登っていく。途中街道脇にはまた神社、寺院がいくつかある。

坂下には高田氷川神社があって、反対側に南蔵院
南蔵院門前

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坂を上がりはじめて途中に
金乗院

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太平洋戦争の戦災でかつての目白不動堂が焼失した後は目白不動明王像を移し、目白不動尊ともなっている。南蔵院金乗院とも境内には多くの石造物、著名人の墓などがある。

門前付近の街道には中世の頃、宿坂の関という関所が設けられていたとの伝承もある。
現代の宿坂

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坂を上り切ると目白通り高田一丁目交差点に出て、その向こうは鬼子母神表参道となる。

再び都電に交差、鬼子母神前電停をこえて
参道の途中から

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鬼子母神前

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鬼子母神は有名なお寺なのでそちらへのリンクを

www.kishimojin.jp

鬼子母神前の道は正確には街道の道筋ではないので少し戻る、とはいえまたこのあたりからは旧道は消滅しているらしい。

旧道近くの道路を行くと南池袋、住宅街を行くと豊島区役所の横へ出た。
モザイク模様?の区役所

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少し先は東池袋の交差点

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正面にサンシャイン60を望むところで今回は離脱。左方の池袋駅へ向かった。

鎌倉街道中道、鎌倉から二子の渡しまでの記録はこちら。