散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

横須賀・佐島から鎌倉・材木座へ 三浦半島のウエストコーストを歩く

三浦半島西岸、相模湾側の横須賀佐島から海岸線沿いに北上し、芦名、秋谷、久留和、長者ヶ崎、葉山、一色、芝崎、森戸、鐙摺、逗子、そこから山を上がって披露山、下って小坪、鎌倉材木座海岸までを歩いた。

この日の行程

◆佐島から長者ヶ崎

佐島から歩き始めるのは、ここより先には大学の原子力研究所や自衛隊の施設があって海岸に出られる場所がない。その先は長井だが、そちらへはすでに行ったことがあるので。

miwa3k.hatenablog.jp

 スタートの佐島へは逗子から長井、横須賀市民病院方面行きのバスで30分弱。
佐島入口バス停

f:id:miwa3k:20161108173558j:plain

佐島マリーナ行きのバスならばすぐに佐島の海岸沿いに出られるのだが、あいにく便数が少ない。佐島入口バス停から佐島漁港方面へ向かって歩く。途中短いトンネルを通る。
佐島隧道

f:id:miwa3k:20161108173559j:plain

トンネルからそのまま道なりに行ってもいいが、ぬけてすぐの脇道に逸れて海岸に出る。
佐島漁港近くから小田和湾

f:id:miwa3k:20161108173600j:plain

左の方にみえるのが湾をはさんだ反対側にある長井岡崎公園方面、右の方にはうっすらと伊豆大島が見えている。
佐島漁港

f:id:miwa3k:20161108173601j:plain

佐島漁港側から見た天神島方面

f:id:miwa3k:20161108173602j:plain

佐島マリーナの建物

f:id:miwa3k:20161108173603j:plain

マリーナは天神島という、小さな川程度の水路を隔てた島側にあってそちらへは天神橋という橋を渡って行き来するのだが、あいにく工事中で橋全体を見ることができなかった。
佐島西側の海辺からこれから向かう秋谷、長者ヶ崎方面を右側にみる

f:id:miwa3k:20161108173604j:plain

左前方には江ノ島、うっすらと丹沢の山々も見える。箱根や伊豆の山も見えていたのだが、富士山は望めず。
芦名近くのマリーナ

f:id:miwa3k:20161108173605j:plain

この付近は芦名という地名。ここから秋谷へ向かう。芦名から秋谷へ歩いて行くにはいちど丘の上にあがって向こう側へ下りていくのが手っ取り早そう。芦名海水浴場のところに十二所神社を刻んだ石柱(社号標という)があるのでそちらに坂道を上がっていく。
十二所神社(三浦十二天)の鳥居

f:id:miwa3k:20161108173606j:plain

神社の解説板

f:id:miwa3k:20161108173607j:plain

相当古い神社であるらしい。鎌倉も近いし、その頃から人々の生活があった土地なのだろう。最後の方に会津藩主なんてのが出てくるのはどうもこのあたりの地名、芦名と会津蘆名(あしな)氏とがつながっているようだ。

蘆名氏
蘆名氏(あしなし)は、桓武平氏系統の三浦氏から興った氏族。相模国蘆名(現在横須賀市芦名、芦名城)の地名に由来する。「芦名氏」「葦名氏」「三浦芦名家」と表記される事もある。
相模蘆名氏と会津蘆名氏の二つの系統が存在する。通し字は前者は「為」、後者は「盛」。

神社の先ですぐ丘の上に出る。狭い道を今度は下っていくと秋谷漁港の脇から海岸に出る。
秋谷海岸、南の端から

f:id:miwa3k:20161108173608j:plain

秋谷海岸から立石を望む

f:id:miwa3k:20161108173609j:plain

「秋谷の立石」

f:id:miwa3k:20161108173610j:plain

立石、梵天ヶ鼻方向を望む

f:id:miwa3k:20161108173611j:plain

海のなかから突き出ている石が立石、高さ12mあるそう。松の木が生えている先の岩場を梵天ヶ鼻(または梵天の鼻)というらしい。この周辺は立石公園となっている。
立石公園から北側は少しの区間砂浜がなく、国道134号以外に通れるところがないので国道を歩く。左側に折れる小道が現れ、そこに入っていくと久留和である。
久留和海岸

f:id:miwa3k:20161108173612j:plain

砂浜のとなりに堤防があり、その向こう側は小さな漁港になっている。

f:id:miwa3k:20161108173613j:plain

砂浜の端まで行き、一旦国道に戻ってすぐにまた海岸側の路地にはいる。

エーゲ海、というにはいろいろ日本なものが写りすぎている。

f:id:miwa3k:20161108173614j:plain

ここからまた浜に出る。出てすぐのところ

f:id:miwa3k:20161108173615j:plain

ここから北側にまた長い浜が続いているが、ここの海岸は砂浜というより一面小石である。波打ち際には砂も見えるが陸側(道路のある側)はずっと小石が積まれている。
小石の浜

f:id:miwa3k:20161108173616j:plain

この海岸は海水浴場のようでもないし、なんか不自然なので帰ってから調べてみた。海岸の名前も、Googleマップではこの場所が「關根(せきね)海岸」となっているが他の地図にこの名称は使われていない。長い海岸であるのに名前がないようにみえる、ますます不自然、不思議だ。
途中経過は省略するが、いろいろ調べていくとここの海岸は秋谷海岸の一部であることがわかった。そして「養浜」(ようひん)という言葉がひっかかってきた。

養浜 Wikipediaから抜粋
養浜(ようひん)は、露岩もしくは侵食傾向にある海岸線に砂を寄せて砂浜を造成すること。防災や観光地の維持保全の目的で行われる。
古くは1950年代に、アメリカ合衆国のワイキキ・ビーチで、観光に適した海岸を造成するために、カルフォルニア州から白色の高い砂を移送し造成する工事が行われている。日本では、1960年代から活発になったダム開発、河川改修などで、海洋へ流出する砂が偏在または減少するようになり侵食傾向が顕在化。1990年代以降は、各地の海水浴場を中心に養浜が行われるようになった。
侵食傾向にない近隣の砂浜から移送するのが最も原始的かつ確実であるが、根本的な解決は潮の移動による侵食を押さえることが必要。日本では海岸線から直角方向の沖合に向かって消波ブロックを並べる突堤、または海岸線と並行に消波ブロックを並べる離岸堤が設置されることが多い。

その結果わかったのは、この海岸も養浜を行ったこと。以前は普通の砂浜だったのだが、砂が侵食されてなくなってしまうようになり、はじめは砂を補充していたが侵食が止まらず、長期的な対応としてついに大量の小石(礫と呼んでいる)をこの浜に入れる方法を用いたとのこと。その量、2006年から2014年にかけて92600立方メートルになるそうだ。(想像できないけど、もっと多いようにも感じた)工事を行った当事者は「礫養浜(れきようひん)」と呼んでいる。実験的な試みの面もあるようだ。
1キロ以上も長さがあるような海岸に厚さ数メートルに小石(礫)を撒く(積む)のにはいったいダンプ何台分要るのだろうか。

と、こだわっていろいろ調べてみた結果、この先海に突き出している長者ヶ崎の岩場までが秋谷海岸であり、海岸にある小石はすべてどこかから運んできたものであることが分かった。侵食が激しいので人の立入はあまり推奨していないのかもしれない。
波打ち際は砂、その右側は小石(礫)の海岸

f:id:miwa3k:20161108173617j:plain

そして、左向こうの方に突き出しているのが長者ヶ崎。
長者ヶ崎間近から

f:id:miwa3k:20161108173618j:plain

反対側を振り返って

f:id:miwa3k:20161108173619j:plain

こちらに近づくと下はまた砂浜に戻る。小石(礫)はこっちの方にまでは敷いていないようだ。この半島というか岩場を向こう側に回ると長者ヶ崎海岸が広がっていて、この上には駐車場もあるはずなのだが。と、ここまで来たとき、ここの上に登る道がないことに気づいた。
直登御免、長者ヶ崎の駐車場から来た方向を振り返る

f:id:miwa3k:20161108173620j:plain

反対側へ

f:id:miwa3k:20161108173621j:plain

海に突き出た半島の真ん中を横須賀市葉山町の境界が通っている。こちら側からは葉山町

◆長者ヶ崎から森戸

葉山側の長者ヶ崎海岸に下りるには歩道がある。
長者ヶ崎海水浴場

f:id:miwa3k:20161108173622j:plain

葉山側からみた長者ヶ崎

f:id:miwa3k:20161108173623j:plain

葉山公園近くの磯

f:id:miwa3k:20161108173624j:plain

葉山にはいると公園があったり駐車場が整備されていたりで、そこにやってくる人の数も多い。
葉山公園の先に一本の川が流れ込んでそこに赤い橋がかかっている。臨御(りんぎょ)橋。
臨御って、1.天子の位について国を治めること。2.天子がその場においでになること。臨幸。
下山川と臨御橋

f:id:miwa3k:20161108173625j:plain

このあたりから葉山御用邸と関連の敷地になる。境界に塀が現れるが海岸側は自由に通行できる。
臨御橋の上から御用邸

f:id:miwa3k:20161108173626j:plain

あちらがわに見える橋は勝手に通れない。川の中にはアジくらいありそうな結構大きな魚がいくつもいた。
反対側から

f:id:miwa3k:20161108173627j:plain

橋を渡った先は一色海岸海水浴場

f:id:miwa3k:20161108173628j:plain

振り返って御用邸

f:id:miwa3k:20161108173629j:plain

このあたり松の木がみんな立派。きちんと「お手入れ」されている成果か。
一色海岸の北の端、岩場に生えていたリュウゼツラン?に花茎。後ろの建物と松も渋い。

f:id:miwa3k:20161108173630j:plain

同じく北の端から御用邸方向を振り返って

f:id:miwa3k:20161108173631j:plain

ここから先はまた砂浜がなくなるので、砂浜を少し引き返して一般道にあがる。少し先に芝崎という浅瀬を埋め立てて住宅地にしたところがあるのでその周りをくるっと回ってみる。
コンクリートの岸壁から、一部が砂州のようになっている磯

f:id:miwa3k:20161108173632j:plain

一本だけ木が生えていて、頑張ってほしい。個人的に「波平松」と名付けたい。
芝崎、北側へまわると小さな漁港がある。

f:id:miwa3k:20161108173633j:plain

向こう側は森戸。県道に戻って森戸大明神のほうへすすむ。

◆森戸から逗子海岸

森戸大明神 神社HPから引用
永暦元年(1160年)、平治の乱に敗れ伊豆に流された源頼朝公は、三嶋明神(現在の静岡県・三嶋大社)を深く信仰し源氏の再興を祈願しました。
治承4年(1180年)、そのご加護により旗挙げに成功し天下を治めた頼朝公は、鎌倉に拠るとすぐさま信仰する三嶋明神の御分霊を、鎌倉に近いこの葉山の聖地に歓請し、長く謝恩の誠をささげたと伝えられています。
吾妻鏡」によれば、歴代将軍自らこの地を訪れ、流鏑馬、笠懸、相撲などの武事を行ったといいます。
災厄が生じると加持祈祷が行われ、七瀬祓の霊所としても重要な地であったと記され、源氏はもとより鎌倉要人からも篤い信仰があり、特に三浦党の祈願所でもありました。
七瀬祓:古昔、朝廷に於て行はれた祓の一種。七箇所の神聖な河海に臨んで行った。由比ヶ濱・金洗澤池・固瀬川・六浦・柚川・杜戸(=森戸)・江の島龍穴を以て七瀬とした。

森戸大明神参道から

f:id:miwa3k:20161108173634j:plain

いつも同じ風に吹かれる松

f:id:miwa3k:20161108173635j:plain

大明神裏側の磯、岩にパッチ

f:id:miwa3k:20161108173636j:plain

この岩の上にある松の木には千貫松(せんがんまつ)という名前がついている。(あとから知った)大明神の見どころのひとつに数えられている。
大明神脇のみそぎ橋を渡って森戸海岸に出る。
みそぎ橋

f:id:miwa3k:20161108173637j:plain

お祓い(七瀬祓)をするときのみそぎをこの近くでしたらしい。

橋のうえから森戸大明神社殿

f:id:miwa3k:20161108173638j:plain

橋の向こうは森戸海岸の砂浜

f:id:miwa3k:20161108173639j:plain

森戸海岸を葉山マリーナ手前まで進んで

f:id:miwa3k:20161108173640j:plain

葉山マリーナから

f:id:miwa3k:20161108173641j:plain

ここに船を置いておくことがステータスなのかな?と思わせるほどの数。
マリーナの北側には鐙摺(あぶずり)葉山港という小さな漁港がある。

f:id:miwa3k:20161108173642j:plain

ナントカちゃやという店も三軒ある。三軒茶屋でもある。
この先ですぐに葉山町から逗子市に入る。逗子に入ってすぐの海側に逗子市浄水管理センターというのがあって、周囲の岸壁を歩けるようになっている。
浄水管理センターの岸壁から披露山、大崎公園方面

f:id:miwa3k:20161108173643j:plain

同じく逗子海岸、渚橋を望む

f:id:miwa3k:20161108173644j:plain

浄水管理センターの中に地質的に有名な「鐙摺の不整合」の露頭が見られる場所があるのだが、あいにく水や落ち葉がたまっていて観察できる状態ではなかった。そばにあった解説板だけ。これだけ読んでもイメージしにくいのだが。

f:id:miwa3k:20161108173645j:plain

センターの中をぐるりと一周して逗子海岸方向へすすむ。
渚橋の上から逗子海岸

f:id:miwa3k:20161108173646j:plain

逗子海岸から内陸側に入ると逗子の街中に出ることができる。
砂浜を歩いて向こう側まで行き、振り返って

f:id:miwa3k:20161108173647j:plain

 

◆披露山から材木座

逗子海岸を越えて鎌倉方面へ歩いて行こうとすると、海岸線沿いは浜がない。道路は国道134号沿いに行くしかないのだが、途中トンネルには歩道がなく、歩行者の進入はできない(歩行者通行止めの看板がある)。ずっと内陸の県道311号を横須賀線沿いに迂回して行くか、披露山を越えていくくらいしか方法がない。
距離的には短い披露山越えを選択。山に登って披露山公園を通り、披露山庭園住宅を突っ切って小坪へ下りることにした。
しかしよりによってこんな道を選ばなくてもよいのだが。

f:id:miwa3k:20161108173648j:plain

海岸の海抜0mから披露山公園の海抜92mまで一気に登る。
披露山公園については以下を参照

f:id:miwa3k:20161108173649j:plain

公園から庭園住宅方向

f:id:miwa3k:20161108173650j:plain

逗子海岸、葉山方面を望む

f:id:miwa3k:20161108173651j:plain

たしかにとても良い眺めだが、ここにいたときは雲が出てしまった。公園下の庭園住宅に回って中を突っ切る。ここは日本一の高級住宅地などと言われる場所で、車で来ると途中に検問所もどきの場所があって勝手には入り難いが、公園から下りていく分には何もない。出入り口も車ではたぶん1か所しかないが、路地のような細い通路はいくつかあるので徒歩なら簡単に外にも出られる。真ん中の道路を通って反対側の小坪方面へぬける小道に進む。
そこから今度は山下り、途中にあった神社への階段
天照大神社への階段(登っている人がいる。)

f:id:miwa3k:20161108173652j:plain

また海抜0m付近まで下りてくる。
小坪漁港

f:id:miwa3k:20161108173653j:plain

振り向けば逗子マリーナ

f:id:miwa3k:20161108173654j:plain

パームアベニュー

f:id:miwa3k:20161108173655j:plain

いろんなヤシが生えてる

f:id:miwa3k:20161108173656j:plain

逗子マリーナの端から材木座海岸方面を望む

f:id:miwa3k:20161108173657j:plain

同じく江ノ島稲村ケ崎方向

f:id:miwa3k:20161108173658j:plain

マリーナの端から材木座海岸の方へぬける道から和賀江島が望める場所がある。
和賀江島の碑、裏から

f:id:miwa3k:20161108173659j:plain

和賀江島 Wikipediaから

和賀江島(わかえじま/わかえのしま)は相模湾東部に位置する人工島。和賀江嶋、和賀江の築島ともいう。現存最古の港湾施設であり、国の史跡に指定されている。
1232年(貞永元年)に築かれたが、現在では満潮時にはほぼ全域が海面下に隠れてしまう。付近の陸地は神奈川県鎌倉市材木座にあたり、すぐ南側には逗子マリーナがある。鎌倉市と逗子市の境界に位置する。
干潮時には岬の突端から西方に200メートルほどにわたって巨石の石積みが見られ、往時の姿を偲ばせる。かつては北側に数本の石柱があり、南風を避ける船を係留していた。

 向こうは材木座海岸。潮が引いていれば歩いて渡れそうな距離なのだが。なんと、この場所から材木座海岸へ出る間の道路が崖崩れで全面通行止め、しかも迂回路が結構遠回り。まったく知らなかったのでここで一気に疲れが出た。
後から調べてみたら新聞記事にもなっていた。2016年9月23日に2回にわたって崖崩れが発生、一時は近くを通る国道134号線も通行止めになっていた。復旧は11月中を予定、とか。
迂回してなんとか材木座海岸のところへ出てくることができた。ここからは鎌倉市
材木座海岸から逗子マリーナ方向

f:id:miwa3k:20161108173700j:plain

どこかに崖崩れの場所も写っているはずだが、よく分からない。11月の陽は短くてすでに夕方の雰囲気になりはじめている。海岸から引き上げる。
砂浜から

f:id:miwa3k:20161108173701j:plain

海岸橋を渡って鎌倉駅を目指す。

f:id:miwa3k:20161108173702j:plain

鎌倉駅

f:id:miwa3k:20161108173703j:plain

相変わらず鎌倉は人が多い。この日は23.5km、思ったより長い距離を歩いていた。