柏尾通り大山道を歩く その1 東海道柏尾不動坂から相模川戸田の渡し

田村通り大山道を歩き中、現在伊勢原で留め置きとなっていますが、新たに柏尾通り大山道を歩き始めました。昔の大山詣でには使えなかった技です。

柏尾通り大山道は東海道保土ヶ谷宿と戸塚宿の間、といっても戸塚宿江戸方見附より1キロ弱江戸寄り、現在の横浜市戸塚区柏尾町、不動坂が起点となり、そこからほぼ西へ、途中相模川を戸田の渡しで越え、現在の伊勢原市下糟屋で江戸青山からの青山通り大山道に合流して大山へと向かいます。

柏尾通り大山道・今回その1の足あとは青色ライン

江戸市中から大山詣をするには柏尾通り、青山通りがルートとしては最短だったと思われます。
江戸から柏尾通り大山道に入ることを想定すると、東海道の江戸方向から来て分岐点を折れるのが自然だろうと考え、保土ヶ谷…いや、ちょっと距離があるので東戸塚からアプローチすることにしました。江戸時代には無かった鉄道の駅があるので…

東戸塚駅前、バス停ですが

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駅前から旧東海道に出ます。品濃坂を下りてきたところで合流しますが、すぐに現在の国道1号に取り込まれてしまいます。
そのまま国道1号を下ると、不動坂交差点手前に大山道の分岐が残っています。

 

大山道に入る前に、不動坂「益田家のモチノキ」について少し。
現在の「益田家のモチノキ」(2018/11撮影)

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樹齢250年といわれ、神奈川県指定天然記念物にも指定されている古木が整地された土地の端へ移植されていました。
元々はこの場所から20mほど離れた道路の近く、そこはこんもりとした小さな山になっており、その中に益田家の住宅、このモチノキ(元は少なくとも2本あった)、その他にも多くの樹木などがありました。

数年前に家の敷地と小山は造成され、ご覧のような姿になってしまったのですが、その時確認なしに建設業者が記念物のモチノキを伐採しようとした”事件”があったのです。

完全な伐採は免れたものの、木の周囲の土は削られ、樹勢は衰えて枯死倒木の危険から、県教育委員会が移植を決めて現在の姿になったようです。
移植は今年の春に行われたようです。見ると、すでに枝に葉はないばかりか、周囲に落葉の跡もないのは、とても「これでよかった」とは言えない状況ですね。

 

それでは大山道へ。

モチノキが移植された場所の背後が分岐点、追分です。入口に案内看板などが出ています。
分岐点から国道1号東京方向を向いて

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入るとすぐに御堂があります。

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堂内には正徳三年(一七一三)建立、半跏の不動明王像(石造)があります。覗きこんでみましたが、下に刻まれた「…れより大山道」という文字しか見えませんでした。
左右に立っている道標、庚申塔、燈篭あわせて6基は、元々ここにあったものと周辺から集められてきたものがあるそうです。

大山前不動の一の鳥居も建っていたそうですが、関東大震災で倒れてしまったそうです。

東海道との分岐点から100m程度の旧道、先はJR東海道線線路で分断され、上は県道高架です。

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横の階段を使って線路を越え、県道(瀬谷柏尾線)沿いにしばらく行きます。

旧道はその県道と北側を流れる阿久和川の間を通っていたようですが、現在は消滅しています。
県道は道幅せまくて歩道が十分なく、車通行量も多いので、阿久和川沿いにある歩道を歩きました。

阿久和川沿いの道、片曾橋たもとから

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この川沿いの歩道は以前にも歩いたことがありました。

柏尾川 境川合流点からさかのぼって阿久和川、その支流のひとつへ歩く - 散歩の途中

歩道を行くうちに横浜市戸塚区から泉区に入り、白百合団地入口交差点近くに西林寺があります。
この境内に古い道標があるということで寄ってみました。

西林寺境内の道標

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出羽三山供養塔で左右の面が道標、こちら側は「西 あつき ほしのや 八王子道」、反対側は「東 かまくら ぐめうじ 江戸道」とありました。
あつき=厚木、ほしのや=星谷は座間の星谷寺、ぐめうじ=弘明寺横浜市南区)です。このあたりの道標で星谷、弘明寺を示していることがよくあります。現在も星谷寺、弘明寺は坂東三十三観音札所になっています。

西林寺から阿久和川沿いに戻り、すぐ先に永明寺(ようめいじ)があります。その前にも大山道道標があります。
不動明王像をのせた道標と出羽三山供養塔のある永明寺門前

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この道標は正面に「大山道」、右側面はこちらも「右 ほしのやみち」とありました。

このお寺の前で阿久和川から道が折れ、桂坂へと上って行くこの付近をかつては西田谷(にしだやと)と言ったそうです。
西田谷の地神塔と道祖神

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左側解説板から

柏尾通り大山道
柏尾通り大山道は、東海道の前不動(柏尾)から岡津の永明寺(ようめいじ)別院前の大山道道標前を経て大山へ向かい、西田谷(現、桂坂)で坂道(男坂・女坂)へとつながる道です。
「上り 大山道・下り かしを道」と刻まれた道標になっている地神塔は、坂の上り口に立っていましたが宅地造成のとき現在地に遷されました。地神塔の立っている前の土手(現在は住宅)にあった庚申塔などは、現在、中川地区センター駐車場横にあります。また、周辺には製糸場もありました。
泉区役所

坂道を上がっていく途中は大規模に造成された宅地になって旧道の面影はありません。

国際親善総合病院の敷地を迂回するように回り込み、さらに坂をあがると丘のいちばん高い場所へ出て、そこからは南と西側が開けたよい景色とのどかな風景、旧道の道すじに戻ります。

ゆるい坂を下りて行くと和泉小学校入口交差点で”かまくらみち”に交差します。その辻に一基の庚申塔があります。
和泉小学校入口交差点の庚申塔

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この庚申塔も左右面が道標になっています。見えている面は「東かしを 南ふじ沢道」、反対側は「西大山道 北八王子道」とあって、古くからここが交差点であったことが分かります。

ちなみにここで交差するかまくらみちは、”たつ道”と呼ばれ、直線的な道路です。鎌倉攻めに使うため造られた軍用道路という説があります。
左側に写っている道路がかまくらみち、北方向になります。

交差点を西方向へ横切って和泉小学校の先で分岐を左に入るところ、道路脇にひどく風化した石塔が置かれていました。供養塔らしいですが、見ても何だかわかりませんでした。

分岐の先を行ったところにもいくつかの石塔がまとめられていました。台座だけのも

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住宅地の中の旧道をしばらく行くと県道22号(長後街道:ちょうごかいどう)にぶつかります。周辺は横浜泉区役所、相鉄いずみ中央駅と、古い町ではないですが、それなりににぎやかになります。

長後街道に出たところで道を反対側へ渡ると
蚕御霊神塔

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ほかにも庚申塔などがありますが、一番左のがそれです。
蚕御霊神塔(かいこごりょうしんとう)と読みます。1878(明治11)年の造立、霜害で桑が枯れて蚕を育てることができず、地中に埋めてしまったことから、蚕を慰霊するために造られたものだそうです。
なぜか左面に大山道の道標が彫られています。

後ろにちょっと見えているのは神明神社の鳥居と屋根の一部です。また、神社の後ろ長後街道に面した公園には「史跡 鎌倉郡中和田村役場跡地」の碑がありました。

ここからは長後街道(神奈川県道22号)に沿って西へと進みます。
和泉川、相鉄線横浜市環状4号線と交差してその西側へ出ると少しの間、旧道が残っています。

泉区上飯田町、旧道区間にて

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すぐ先で下り坂になり、坂の下で鎌倉街道上の道に突き当たりますが、この付近の鎌倉街道は現代の道路で、昔の面影はありません。そこからすぐ境川を渡ります。

長後街道に戻って境川、高鎌橋から上流方向

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川を渡ると藤沢市、って昔の高座郡鎌倉郡の境にある橋で”高鎌橋”ですか。今気づきました。
古道の道すじは川の近くで不明瞭になる、の定義どおり、この付近、道の跡は若干ぶれています。

それでも川のすぐ近くに石仏がありました。

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ただ、右側はすでに何なのかわかりません。

再び長後街道に戻って先へ歩きます。
藤沢湘南台病院前まで来ると旧道の分岐があり、そちらへ進んで国道467号を越えた先、滝山道(藤沢街道旧道)に突き当たったところでそちらと一旦合流します。

滝山道と合流して、長後の商店街

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大山道は先に見える信号を右に折れて滝山道から離れます。このへん、道せまいっす。

右折した先を通るのが小田急江ノ島線です。
先に見えるのは長後駅

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手前にある踏切を渡り、西へ少し行くと藤沢市長後市民センターがあり、そこの一角に石仏、石碑などがたくさん集められていました。

右大山道と刻まれた道標

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この後ろにも大小様々なものが置かれていました。行き場のなくなったものを、それこそ周辺あちこちから集めてきたのでしょう。どこにあったものかがマッピングされているとよかったのにと思いました。

庚申塔の左右に不動明王像(長後市民センター内)

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市民センター前からまっすぐのびる道を先へ、途中で細い旧道に入って少し行くと引地川に出ます。
引地川手前はとってつけたような道ですが、手前の交差する道との辻に激しく風化した石塔(らしきもの)数点が置かれていて、古い道であることの手がかりになります。

引地川の橋の上から東側長後方面

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橋を渡ってから道なりに行くと県道22号新道の一直線の道路に出るのですが、その前に少し旧道を歩くことができます。

旧道の道標一基(藤沢市下土棚)

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道の分岐に「左大山道」と刻まれた石標が立っています。側面には「右星の谷道」とあって、ここが座間星谷寺へ向かう道との分岐点です。

ここを左へ行くと県道22号新道に出ます。しばらく車にあおられながら藤沢市綾瀬市の境界近くを歩きます。

いすゞ自動車藤沢工場の北端をかすめ、東山田交差点から旧道に入りますが、この旧道はすでに県道22号として一度拡張された道で、古道としての雰囲気は残っていません。

引地川あたりから先は、古くからの集落といった場所がなかったのですが、御所見(地名は用田)まで来ると町らしくなってきます。用田の交差点で中原街道と交差し、その一角にまた不動明王像をのせた道標が現れます。

用田交差点の不動明王像をのせた道標

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正面の「右大山道」が何とか見える程度に風化しています。それに比べて不動明王像ははっきりしています。

少し先の大山道です。

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標識下には頭が少し隠れた大山が見えます。バス停は用田辻。

この先で目久尻川を用田橋で渡ると海老名市に入ります。
橋を渡った海老名側すぐのところにブロック塀に囲まれて、上に不動明王像ののった道標がありましたが、周囲の道路や塀の向こう側が工事中でよく観察できませんでした。

その先の坂道途中にあるのは壽閑寺

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このあたりも古くからの集落か、寺院もあり、そして石仏などもあちこちに残っていました。(一か所に集められてそのまま放置されてるらしいのもありました。)

小さな川の谷間からまた上がっていくと富士ゼロックスの事業所、その先の交差点を左折します。

ずいぶんはっきりした道しるべです

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向こうのお地蔵様、頭だけ新しいようですが、首から上だけ彫って接いだのでしょうか。

近くの不動明王と二十三夜塔

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祠はまだ新しそうです。

その周辺

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その先で道は下り坂になります。
居合坂(いあいざか)

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居合坂の標柱と柏尾通り大山道の解説がありました。特に目新しいことは書かれていません。

この坂は地形的には相模野台地の段丘と相模川の氾濫原(低地)の段差にあります。坂を下ると相模川とその先まで平らな土地が続きます。

永池川を渡り、海老名市門沢橋付近の大山道

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もう少し先へ行くと相模川戸田の渡しです。河原へ出る手前に目印のいちょうの木と不動明王像をのせた石塔があります。

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向こう側が高速道路高架だったり、右側の塀が工事現場みたいだったりであまり趣きがありませんね。

でも、今回はここまでとします。