散歩の途中

散歩しながら観察して記録してちょっと調べて書くノート

矢倉沢往還・青山通り大山道を歩く その3 下鶴間宿から相模川厚木の渡し

もうすぐ下鶴間宿というところまで来ていたその2の続きです。

前回も使用した2日目足あと《鷺沼からさがみ野まで》
この地図でのその3範囲は青ラインの黄色〇から赤〇まで

境川を渡って下鶴間宿に入ります。
鶴瀬橋と鶴間山観音寺境内

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鶴瀬橋に相当する橋は宿内に残る古絵図にも描かれていました。
橋の右向こう、観音寺は境内を後ろから見る格好になってます。

観音寺門前から

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こちらの寺院は武相観音第1番札所だそうです。

道沿いすぐに”大山阿夫利神社御分霊社”

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南朝忠臣新田氏縁の家という個人宅敷地内に設けられ、創建年代や由緒などは不明。阿夫利神社新田義貞、なんというか謎まちっくな神社ではあります。(個人感想)

下鶴間宿には昔の雰囲気を残す屋敷などが多く残っているように見えます。
こちらもそのひとつ、門の前から失礼して

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高札場と下鶴間ふるさと館建物の一部

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ふるさと館の建物は、宿内にあった旧小倉家住宅、商家建築の母屋を復元したものです。ここには宿場、街道の資料が展示されています。

こちらも黒板塀の屋敷

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蔵の上にちょっと見えているのは、鶴林寺本堂の屋根だと思います。電線、電柱が邪魔ですね。

鶴林寺へ上がっていく階段の下に、体の半分が欠けてしまった不動尊の石標と下鶴間宿の案内板がありました。
鶴林寺(下鶴間不動尊)への階段と石標(右)

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案内板は切れてしまいました。そこには明治初期の宿場の貴重な写真もあったのですが、傷みがひどく、文字だけうつしました。

旧下鶴間宿
ここを東西に走る道路は矢倉沢往還と呼ばれた古道であり、江戸時代には東海道脇往還として重要な交通路となっていました。青山(東京都港区)を発し、神奈川県を西南方向に突っ切り、関本・矢倉沢・足柄峠南足柄市)を通り三島へと至る街道です。また、大山街道とも呼ばれるように江戸時代中期以降は大山信仰や富士信仰の行者が利用する道としても栄えました。
下鶴間宿には、紺屋、げんこく屋、かたい屋、そば屋、馬喰等の屋号を持った染め物屋・居酒屋・餅屋・質屋といった商家や、山本屋・松屋・三津屋・松葉屋・角屋・ちとせ屋の旅籠がありました。矢倉沢往還は宿場の中で瀬谷と町田を結ぶ通りと交差していましたが、その辻には高札場がありました。また、天保2年(1831)には渡辺崋山が小園(綾瀬市)に行く途中、この坂の上にあった旅籠を兼ねていた「まんじゅう屋」で一泊しており、その時のことを「游相日記」に記しています。それによると、当時の下鶴間宿のことを「ものさびしい」と記しています。この宿場がにぎわいをみせるのは幕末頃であったようです。
大和市教育委員会

坂を上がっていった先の三叉路がまんじゅう屋の跡、そこに
道標と地蔵尊、常夜燈と書かれた石碑

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道標は「左失」しか見えませんが、”左 失倉”とあり、実は”矢倉沢”を示しているそうです。
前は厄除地蔵で、明和元年(1764)の銘、「右大山道、左ざまみち」(ざま=座間)とも記されています。
まんじゅう屋は道標の左後ろにあったようです。いまはちょっと大きめの民家があります。

もうしばらく、古くからの屋敷が点在する街道を進みます。途中、滝山街道(八王子街道とも)との交差地点には風化して文字が読めなくなった石碑が2基ありました。

下鶴間宿から離れていくと、昔は”鶴間原”と言われた広大な原野が広がっていたそうです。大げさにいえば、街道の道すじだけあってほかに何もない寂しいところ、だったのかと思います。
相模野台地上の平らでのっぺりしたところをほぼ直線的に行くと、国道246号の旧道と合流、小田急鶴間駅前に出てきます。

小田急江ノ島線鶴間駅

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江戸方向を向いています。

鶴間駅前から国道246旧道を1500mほど歩きます。
大和斎場入口交差点で右へ入っていく道が旧道になります。その近くに西鶴寺がありますが、このお寺は最近できたものと思われます。

西鶴寺と旧道

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道端に最近建てられた「矢倉沢往還」の石標があります。

大和市内に入って街道筋のところどころにこのタイプの石標が建っているのですが、”大山[街]道”ではなく、必ず”矢倉沢往還”と書かれています。どのようなこだわりがあるのかはわかりません。(側面の説明文には「大山街道とも呼ばれ」とも書かれてます。)

こちらは西鶴寺より手前、国道旧道にあった石標

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矢倉沢往還”旧道に入って少し行くと国道246号バイパスが横切り、まっすぐ通りぬけられません。旧道はほとんど一直線なんですけどね。

その先は大和市からぬけて、座間市と海老名市の境界上を行きます。東西、南北碁盤の目に区画整理された道路を1本斜めに通る道が、あれ、座間市内の石標は”大山街道”になってました。
座間市東原5丁目にて大山街道石標

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もうちょっと行くとさがみ野駅入口交差点で、2日目は相鉄線さがみ野まで歩いておしまいにしました。

 

ここで日を改めます。

3日目、さがみ野からの足あと地図
矢倉沢往還青山通り大山道3日目足あと《さがみ野から伊勢原まで》
この地図でのその3範囲は青ラインの緑〇から黄色〇まで

さがみ野駅入口交差点から西へ歩きだすとすぐに相鉄線の踏切です。
踏切を渡ります

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座間市・海老名市境界上をもうしばらく進み、大塚本町交差点から先へ行くと綾瀬市・海老名市境界上を歩きます。路上を観察していると、道路の両側で側溝ふたやマンホールのデザインが違ったりして、結構興味深いです。

座間市・海老名市境界上の街道

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路上のマンホールデザインは座間市

ちょっと話題がずれました。もどって

赤坂というバス停の隣りに不動明王像を載せた道標があります。
横から街道と(綾瀬市小園、海老名市柏ヶ谷境界)

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ほぼ正面から

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ここは大山道に左から別の道(神奈川道?)が合流しています。
ここの不動明王像は珍しく欠けておらず、姿がはっきりわかりますが、下の道標部分は風化、表面の剥落が激しく、何が書かれていたのか判読不明です。ほかにもいくつか石柱が置かれているようですが詳細はわかりません。

赤坂から緩い坂を下りて望地(もうち)交差点で県道の反対側に突き抜けるのが大山道の旧道で、海老名さつきハイツという団地の近くに小さな馬頭観音がありました。

そこから坂の上へ出ますが、正面に大山の姿が見えました。

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坂を下りて先ほど渡った県道に出て、目久尻川を目久尻橋で渡ります。かつて宝暦年間(1751~1764)頃ここで街道に架けられたのは当時としては珍しい石橋で、古い石橋供養塔が川のほとりに残されています。

再び分岐する道へそれ、坂を上がると頂上付近に多くの石塔がありました。
ここは国分の辻と呼ばれ、周辺は街道の国分宿だった場所です。
国分の辻の石塔たくさん

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道標も兼ねた庚申塔や供養塔などにまじって、”相模国分寺址保存指定地 内務省”なんて刻まれたものも(一番左の細長いの)。

この付近、街道の宿駅、国分宿でもありましたが、その昔は相模国分寺があった場所でもあり、石塔群の後ろは広く公園のようになっています。
相模国分寺跡

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相模国分寺は160m×120mの広大な面積に七重塔、金堂などを持つ大きな寺でした。それらの模型が写真正面松の木の左向こうにみえている温故館(旧海老名村役場建物)に展示されています。

また七重塔のレプリカが海老名駅近くの商業施設(ビナウォーク)内にあります。

そちらを先に
国分寺七重塔

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ここにあるレプリカは高さ約22mですが、国分寺にかつてあったものは65mあったそうです。海老名市がそう言ってます。

また、現在の国分寺は寺跡の南側にある薬師堂です。相模国分寺は創建以降、何度も焼失、破壊されて衰退し、高台に残された薬師堂を跡に移して再興したそうで、それが現在に引き継がれています。

”海老名の大ケヤキ”と国分寺への入口

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左へ上がって行くと国分寺薬師堂で、その手前街道沿いにケヤキの木があります。

ということで国分寺ばかり目立って、大山道の国分宿はどうなっていたのかよくわからないままですが…、先へ。

前の道を下り、先ほどの県道に合流、海老名駅近くのにぎやかな一帯を通りぬけて先へ行きます。

小田急跨線橋から海老名中心方向

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反対方向は正面大山

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大体また真っ直ぐに進み、一気に相模川の川原まで出ます。

川原近くの河原口というところに、
道標を兼ねた庚申塔だそうです。

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「よく見て通りましょう」とあるのですが、表面が剥落していて何が書いてあるかよくわかりません。

そして圏央道の高架下をくぐって、渡し舟のあった川原に出るはずでした。
相模川の厚木の渡し場があった場所になるのですが、列をなして次々にやってくるダンプで埃だらけです。「河川を広げる」工事中でした。

海老名側の厚木の渡し跡、付近

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散歩のおじさんも立ち往生です。

河川敷に出られる状態ではなかったので、ここはあきらめて橋の架かっているところへ歩きました。
あゆみ橋を渡って厚木へ

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相模川、渡しがあったあたりの風景

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渡し場の厚木側へやってきました。

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対岸が先ほどの工事現場ですが、ほとんど何も見えません。

近くに「厚木村渡船場跡」の碑がたっています。

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右側がその碑、向こうは相模川河川敷です。

近づいて

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厚木市指定史跡
厚木村渡船場
この地は、矢倉沢往還や藤沢道、八王子道が相模川を渡る渡船場で、常時五艘の舟が備えられ、旅人などに利用されていました。
江戸時代に刊行された『新編相模国風土記稿』の記述によると、冬の渇水期には土橋が設けられていました。
この渡船場の厚木側の権利は、厚木村と溝呂木家が持っていました。溝呂木家の権利は、徳川家康から与えられたものと伝えられています。
天保二年(一八三一)九月、矢倉沢往還を通って厚木を訪れた渡辺崋山は「厚木六勝」図を残していますが、その一つ「仮屋喚渡(かおくかんと)」は、この場所を描いたものです。
明治四十一年(一九〇八)、相模橋の開通によって、この渡船場は廃止され、その役目を終えました。
平成三年三月 平成二十一年三月再調 厚木市教育委員会

厚木に入ると道は相模川に沿うようにしばらく南へと下っています。渡船場跡からすぐ南へ向かって厚木宿となっていました。

今回その3はここまでとします。

 

矢倉沢往還青山通り大山道過去分

矢倉沢往還・青山通り大山道を歩く その1 赤坂御門から二子の渡し - 散歩の途中

矢倉沢往還・青山通り大山道を歩く その2 二子の渡しから下鶴間宿手前境川鶴瀬橋 - 散歩の途中