多摩川左岸歩き4回目は、昭島市と八王子市の間に架かる、多摩大橋からスタート。上流に向かって、「たまリバー50キロ」の終点で、玉川上水の取水口のある羽村堰を目指す。
その4行程
前回は多摩大橋を渡って八高線小宮駅から帰ったが、今回は、連絡が良かった青梅線東中神駅に下りる。どちらの駅からも、多摩大橋までは同じくらいの距離。
東中神駅
駅から多摩大橋に向かって歩き始めると、最初は平らだが、途中に崖(10mくらいの高さ)がある。この崖は立川崖線と呼ばれる、多摩川の流れが長い年月をかけて段丘を削ってできた長い崖の線だ。
立川崖線は、JR青梅線青梅駅付近から調布市と狛江市の市境あたりまで続いている、延長約40㎞の段丘崖である。下流ではほとんど高低差がないが、上流部の立川付近では15m程度の高さとなっている。
崖線部分の道路の下り坂を下りて、崖下の平らな面に出た先に多摩川が流れ、多摩大橋がある。
多摩大橋の北詰に到着
上流に向かってスタートする。まだこのあたりも広い河原が両岸に広がっている。
多摩大橋付近の河原の様子
少し先へすすむと、海から44Kポスト。
河原のグラウンドは「多摩川緑地くじら運動公園」という名前がついている。1961年(昭和36年)に、この付近の多摩川の地層のなかから、クジラの化石が発見されたことに由来している。
アキシマクジラ出土地 (河原の立て札から)
アキシマクジラの化石は昭和36年8月20日(1961年)、八高線鉄橋の橋脚番号十一の下流36メートルの地点からほぼ完全な形で発見されました。化石の全長は16メートル、ヒゲクジラの仲間でコククジラに近い種類ですが、現在のものと異なることから「アキシマクジラ」と命名されました。アキシマクジラが埋没していた地層は、第四紀更新世前期のもので、今から約160万年前のものと推定されています。 昭島市教育委員会
JR八高線橋梁
1931年(昭和6年)に八高線が開通したときの桁がいまも使用されているそうだ。この橋梁では、1945年(昭和20年)に列車の正面衝突事故が発生して、死者105名の大惨事となった。多摩川の堤防のうえに、川の中から見つかったという、そのときの列車の車輪が置かれている。
八高線の先へすすむと、しばらくして国道16号が通る拝島橋
現在の橋は1991年(平成3年)竣工、長さは572m。1955年(昭和30年)に最初の拝島橋が架けられた。それ以前は、八王子から日光へ至る日光千人同心街道の、拝島の渡しという渡し舟があった。ここでは昭和の初め頃、定期バスが渡し舟を使って多摩川を渡っていたとのこと。
拝島橋の長さを見ると572mもある。多摩川下流の橋でも400m程度のものが多いが、このあたりの河原の広さを反映しているのだろう。ただ、この辺まで来ると、河原にたくさんの木がはえていて河原の全貌がなかなか確認できない。
そして対岸にみえる丘陵、このあたりは加住丘陵という名前がついている、がだんだん多摩川の間近にせまってくる。
拝島橋の次にある橋は、拝島水道橋
結構目立つ色にペイントされた橋だ。ここは導水管が通る橋で、人や車は通れない。「多摩川横断水道橋」が本当の名前らしいが、橋には「拝島水道橋」のプレートが取り付けられている。羽村市の小作浄水場から拝島給水所を経て八王子市、多摩市方面へ送る水が流れているとのこと。多摩丘陵幹線という送水管路。
川をさらにさかのぼると、昭和用水堰。
多摩川と秋川の合流点近くにある、農業用水堰。2つの河川の水を取り入れて昭和用水へ流し、昭島市、立川市などの田畑で使用されている。前身は室町時代に開削されたともいわれている九ヶ村用水(立川堀)で、現在の堰の場所へ1933年(昭和8年)に移動し、1955年(昭和30年)に現在のコンクリート製の堰が造られたとのこと。
この付近で右岸側から秋川が合流している。堰の向こうに見える、緑に覆われた丘陵は加住丘陵。
秋川を歩いたときのノート
堰の少し上流側に海から48Kのポスト
福生市にはいってすぐの河川敷は、多摩川緑地福生南公園。睦橋の下まで公園が続き、歩道、自転車道も公園の中をすすむ。
睦橋(むつみばし)
福生市とあきる野市の間に架かる。通るのは五日市街道(このあたりでは睦橋通りと呼ばれる、都道7号杉並あきる野線)。あまり特長もなく、塗装もくすんでしまって、何だか少し残念な橋。竣工は1982年(昭和57年)、長さは415mある。
睦橋をくぐって上流に向かう。また堤防の土手の上を歩く。
JR五日市線の橋梁が見えてくるあたりから、多摩川河原と遠くに奥多摩の山々
橋梁近くに海から50Kポストがある。しかし、「たまリバー50キロ」の終点はまだ。
五日市線多摩川橋梁と電車
この橋梁の下あたりで、右岸から平井川が多摩川に合流しているが、撮影時に意識していなかったので、この写真ではわからず。五日市線を越えると河原をすすんで、多摩橋に至る。
多摩橋
この橋の付近まで来ると、川幅が狭まり、橋の長さは202m。この橋もなぜか、上を通る道路は五日市街道(都道7号杉並あきる野線)。このあたりでは五日市線をはさんで南北に2本の五日市街道(都道7号杉並あきる野線)が通っている。地図をみると、横田基地で五日市街道の道路が分断されているようにも見え、新道旧道扱いの違い?
多摩橋の先はそれほど間がなく、永田橋に至る。
永田橋(上流側から)
この橋も長さ244mと、下流の橋よりも短く、川幅の狭まりが分かる。渡る道路は、東京都道165号伊奈福生線、東京都道29号立川青梅線が重複している。現在の橋は2011年(平成23年)完成のPC4径間連続複合トラス橋(スペーストラス構造)。
永田橋を過ぎると、次の羽村大橋までは少し距離がある。途中、海から52Kポスト、53Kポストを通過する。
海から53Kポストと羽村大橋
このあたりはすでに羽村市に入っている。たまリバー50キロの終点、羽村堰も遠くない。
羽村大橋は、玉川上水と多摩川の2つの流れを跨ぎ、そのまま向こう側の段丘の崖へ向けて駆け上がっていくため、長さは547mある長い橋になっている。
羽村大橋、上流側から
この橋の先はすぐに玉川上水の取水口である羽村堰で、小さな公園になっている。
たまリバー50キロの終点もここ。
わかりにくいが、案内板の左上隅に「現在地」が記され、大師橋緑地から53kmの表示がある。
羽村堰(1)
正面奥のコンクリート製の構造物が、固定堰とよばれる、まあ、普通の堰。
羽村堰(2)
左岸側にある、「川をきれいに」の表示があるところが投渡堰(なげわたしぜき)と呼ばれるもの。こちらはWikipediaを引用すると
羽村堰は固定堰と投渡堰の2つの堰で構成されている。投渡堰とは堰の支柱の桁に丸太や木の枝を柵状に設置する方法であり、大雨時に多摩川本流が増水した場合、玉川上水の水門の破壊と洪水を回避する目的で、堰に設置した丸太等を取り払って多摩川本流に流す仕組みになっている。この仕組みは堰が設置された1654年(承応3年)からほぼ変わらず現在に至っている。固定堰と投渡堰の境には、かつて江戸(東京)へ木材を運ぶために設けられた筏の通し場が設置されている。
投渡堰の右側、放水されている水門は、堰から取り入れられた余水が川へ戻されているところ。取り過ぎ分を戻している。
玉川上水を開削した玉川兄弟の銅像
玉川上水の取水口の様子
水門の向こうが多摩川。
取水口付近を別の角度から
右側が多摩川、左側へ水を取り入れて、正面奥へ流れていくのが玉川上水。
取り入れた多摩川の水が玉川上水側に流れていく様子
玉川上水を歩いたときのノート
おまけで、羽村堰の少し上流(羽村水上公園付近)へ
海から54Kポスト
このポストはたまリバーなんとかに関係なく、引き続きこの先も設置されているようだ。
河原の方向を見て
まだもう少し先まで河原の歩道が続く。向こう側の段丘もこのあたりまでくると段差が大きい。
左岸側、たまリバー50キロを歩きとおし、玉川上水取水口の羽村堰まで到着したので、一旦多摩川歩きはここまでで区切りとすることにした。
この日は、羽村堰の案内板にあった、羽村駅へのルートに沿って駅へ出た。途中、朝、多摩大橋に向けて下りてきた立川崖線を、今度は羽村駅に向けて上ることになった。
本日の歩行距離は13.7km。