散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

荒川を河口から歩く その1 河口から3㎞地点まで

新型ウイルス性引きこもり症候群の典型症状が出ていました。解消のため、多摩川河川敷を歩いてリハビリしました。
それにしても夏場にマスクってのは実に鬱陶しいです。運動負荷がかかって発生する体内の熱が逃げにくく、容易に熱中症症状が現れることを実感しました。とても危険です。
されど街中でマスク必須なのは、まだ当分続くでしょう。
この夏に街中を、半ば運動として歩き回るのは無理と判断しました。なるべく人がいないところに行きます。

もちろん往復の移動時はちゃんとマスク着けますよ。
幸いというか、多摩川で走る歩くチャリる人を観察すると、あまりしてないです。ならば同じ状況と想像される荒川から散歩再開、行ってきました。

そういえば公共交通機関ってのを使った移動は3月下旬以来。
東京メトロ東西線南砂町下車。まず荒川河口へ向かいます。

南砂町駅出入口

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まず目についたこと。駅ホームは地下にありますが、入口付近にのぼりのステップが10段くらいあり、そこを上がってから下りの階段になってます。
これは簡単にいうと浸水を防ぐ対策ですが、このあたりは海面より土地が低いこともあって段差が大きくなっているのかと思いました。

入口の左手には過去の水害で記録した水の高さを記した標柱がたてられていました。(左端)

 

駅から永代通りに沿い東へ1㎞ほどで荒川右岸堤防に出ます。

永代通り東西線荒川中川橋梁へのアプローチ

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永代通り清砂大橋東西線はこの付近で地上に出てきて橋を渡ります。

 

この橋のたもとから荒川堤防に上がり、もう少し下流側にある河口へ向かいます。

堤防に上がったところ、清砂大橋東西線橋梁

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ここには河口を往復してまた戻ってきます。

 

下流に500mほど歩くと河口の標識などがあります。

堤防上、”海から0㎞”

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ここが河口ということになりますが、まだ先があります。

 

下流方向、別角度から

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前方に見える首都高、JR京葉線の橋梁付近が実際の河口位置です。

ここからあちらの橋まで直接行くことはできませんが、河川敷をまだ下れます。

 

清砂大橋から1.3㎞ほど下って行き止まり

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この先で砂町運河との合流、そこに橋がないので新木場、夢の島方面へ渡れません。

 

ほぼ同位置から荒川湾岸橋、JR橋梁

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橋を渡った対岸には葛西臨海公園など、江戸川区になります。

 

さて、ようやくスタート地点に到着。ここから上流に向かって荒川をさかのぼります。

行き止まりの柵から上流方向はこんなかんじ

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Googleマップによれば高い煙突は”東京都下水道局東部スラッジプラント”、その向こうに東京電力江東変電所があって赤白の鉄塔などです。

 

河口から0k 江東区新砂、河川敷から

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河口位置。堤防上は『海から0㎞』表示でした。

昭和30年代頃まではこの付近が河口、のちに埋め立てがすすんで実際の河口位置も沖合へと移動しました。

 

ここから上流に向かって、荒川左岸側に中堤をはさんで中川が並流します。

”0㎞”付近から対岸

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荒川、中川の間にある中堤が中央やや左で切れています。中堤の上を通っていた首都高はカーブして対岸へ。

永井荷風の随筆「放水路」にこの周辺の描写があります。

 大正九年の秋であった。一日深川の高橋から行徳へ通う小さな汚い乗合のモーター船に乗って、浦安の海村に遊んだことがある。〈中略〉 船はいつか小名木川の堀割を出で、渺茫(びょうぼう)たる大河の上に泛(う)かんでいる。対岸は土地がいかにも低いらしく、生茂げる蘆より外には、樹木も屋根も電柱も見えない。此方の岸から水の真中へかけて、草も木もない黄色の禿山が、曇った空に聳えて眺望を遮ぎっている。今まで荷船の輻湊した狭い堀割の光景に馴らされていた眼には、突然濁った黄いろの河水が、岸の見えない低地の蘆をしたしつつ、満々として四方にひろがっているのを見ると、どうやら水害の惨状を望むが如く、俄に荒凉の気味が身に迫るのを覚えた。わたくしは東京の附近にこんな人跡の絶えた処があるのかと怪しみながら、乗合いの蜆売りに問うてここに始めて放水路の水が中川の旧流を合せ、近く海に入ることを説き聞かされた。

 

はじめに荒川堤防に上がった場所、清砂大橋まで戻ってきました

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向こう側は東西線荒川中川橋梁です。

 

橋の間から

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上流側から

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ほどなく次の”葛西橋

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ちなみに転がってる石は流れてきたのではなく、運んできたもの。荒川上流の秩父山地の石だそうです。

 

河口から1k 江東区東砂

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間近から葛西橋葛西橋通り

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吊り橋に見えますが、桁橋(補剛ゲルバー桁という名称。吊っているように見える部分が”鋼カンチレバー吊補剛”というもの)だそうです。

 

1963年に現在の葛西橋が完成する前は300mほど上流に(旧)葛西橋(木製橋脚、鉄製桁)がありました。河川敷、草むらの中に解説板があります。

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江東区登録史跡 葛西橋
東砂5・15、6・17~江戸川区
葛西橋は、大正一四年(一九二五)に東京府会の議決を得て着工し、昭和三年(一九二八)に竣工しました。長さ六九六・四メートル、幅員六・一メートルで、架橋当時は東京で最長の橋でした。正確には、荒川放水路に架けられた長さ五四九・一メートルの葛西橋と、中川放水路に架けられた長さ一四七・三メートルの葛西小橋に分かれます。古くからこの付近が葛西と呼ばれていたため、葛西橋と名付けられました。
葛西橋は、荒川・中川放水路の開削によって隔てられた江東区江戸川区を結ぶ重要な橋でした。その後、自動車の交通量の増加や橋の老朽化のため、昭和三八年(一九六三)に新しい葛西橋下流に架橋され、旧葛西橋は廃止されました。
平成二七年三月  江東区教育委員会

葛西橋跡近くの堤防へ上がってみました。
堤防上から現葛西橋方向

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現在旧葛西橋の痕跡はありません。橋へつながっていた清州橋通りが堤防手前で途切れているくらい。

あっと、ここで。
川に船やその係留所なんかが写ってますね。かつてここに旧葛西橋があった頃、橋の上は釣りをする人が多く集まったのだそうです。それで橋のたもとに釣り具店などができはじめ、それが発展して釣り船の発着場も設けられ、橋が移動したあともここに残ったようです。橋の痕跡ありましたね。

「放水路」葛西橋周辺にも類似の描写がありました。

 葛西橋荒川放水路に架せられた長橋の中で、その最も海に近く、その最も南の端(はず)れにあるものである。〈略〉
 夜は忽ち暗黒の中に眺望を遮るのみか、橋際に立てた掲示板(けいしいた)の文字さえ顔を近づけねば読まれぬほどにしていた。掲示は通行の妨害になるから橋の上で釣をすることを禁ずるというのである。〈略〉
 葛西橋の欄干には昭和三年一月竣工としてある。もしこれより以前に橋がなかったとすれば、両岸の風景は今日よりも更に一層寂寥であったに相違ない。
晴れた日に砂町の岸から向を望むと、蒹葭(けんか)茫々たる浮洲が、鰐の尾のように長く水の上に横たわり、それを隔ててなお遥に、一列の老松が、いずれもその幹と茂りとを同じように一方に傾けている。蘆荻(ろてき)と松の並木との間には海水が深く侵入していると見えて、漁船の帆が蘆あしの彼方かなたに動いて行く。〈略〉
 昭和五年、わたくしが初めて葛西橋のほとりに杖を曳いた時、堤の下には枯蓮の残った水田や、葱を植えた畠や、草の生えた空地の間に釣舟屋が散在しているばかりであったが、その後散歩するごとに、貸家らしい人家が建てられ、風呂屋の烟突が立ち、橋だもとにはテント張りの休茶屋が出来、堤防の傾斜面にはいつも紙屑や新聞紙が捨ててあるようになった。乗合自動車は境川の停留場から葛西橋をわたって、一方は江戸川堤、一方は浦安の方へ往復するようになった。そして車の中には桜と汐干狩の時節には、弁当付往復賃銭の割引広告が貼り出される。

 

”海まで2.0km”地点(江東区東砂)

f:id:miwa3k:20200619185737j:plain河川敷、少し右側に立っている青色の標柱の表示は”河口から2k”。

川向こう、中川との中堤、上は首都高中央環状線、その向こうに中川が流れてます。(中川は見えない)

 

少しさかのぼると荒川右岸側に旧中川、小名木川の流れが合流します。合流地点に荒川ロックゲートがあります。

下流側から荒川ロックゲート(奥)、小名木川排水機場水門(手前)〈江戸川区小松川

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荒川ロックゲート(荒川側水門)間近から

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ロックゲートは日本語で閘門(こうもん)といい、水位の異なる水域を船が行き来できるよう、間に2つの水門を設けて水位の調整を行うための設備です。

 

奥(旧中川、小名木川)側のゲートと水位調整用プール(閘室)

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一方の水門をひらいてプールに船が入ると水門を閉じ、導水または排水して水位をもう一方の水面高さに合わせてから船を出します。

荒川と旧中川(小名木川)の水面高さは最大で3.1mもの差があるそうです(荒川が高い)。この差は江東デルタ地帯と呼ばれた地域の地盤沈下が原因です。昭和の高度経済成長期までに周辺の工場などが大量の地下水をくみあげ、地面が沈んでいきました。地下水といっしょに大量の天然ガスヨウ素も産出したんですよね。現在はもちろん地下水のくみあげは行っていません。

 

荒川側水門から

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荒川方向。真下に一部見えているのが水門扉。

 

こちらは小名木川排水機場水門

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普段の排水、水位調整用に使われている水門です。排水機場というポンプを備えた施設から水を流し出しています。

 

荒川ロックゲートのすぐ上流側

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向こうは都営新宿線荒川中川橋梁です。

 

橋に近づいていく途中に3㎞のポストがありました。
青標柱なので”河口から3k 江戸川区小松川

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その1はここまで。

足あと地図を出します。1日目は青のラインで北千住[赤]まで歩いてますが、本ノート分は南砂町[緑]から荒川河口、折り返して川をさかのぼり、黄色のマークポイントまでです。

荒川(2020)・歩いた足あと地図

続きのその2、その3

miwa3k.hatenablog.jp

 

miwa3k.hatenablog.jp