散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

菊名川(横浜港北)暗渠を歩く(2) 菊名駅から太尾堤緑道へ出て鶴見川

菊名川暗渠を源となる菊名池から下流に向かってたどっています。
前回、菊名駅ホームにぶつかって道は行き止まり、からのつづきです。

歩道橋で駅反対側へ渡ります

f:id:miwa3k:20210531114018j:plain

暗渠は東急東横線菊名駅ホーム下を東から西に横断します。

 

橋上から暗渠道の先を望む

f:id:miwa3k:20210531114028j:plain

正面の道路左側の歩道部分が川跡、先へ向かって流れていました。
道路の左方はすぐ傾斜地、右方は平坦です。

 

歩道橋を下りて流路跡歩道へ。
暗渠道歩道の上

f:id:miwa3k:20210531114040j:plain

前回から「暗渠道」で通してますが、このあたりより下流側、地上は普通の道路と見た目が変わりません。暗渠化工事時地下に丈夫な導水管を埋設し、流路部分は完全に埋め立てたようです。
左に立つ石碑「南無妙法蓮華経 本乗寺」、日蓮宗の寺院入口。

 

丘側、おそらく暗渠化される前から存在した階段

f:id:miwa3k:20210531114050j:plain

歩道部分が流路跡ですから、小さな橋があったのでは。

 

少し先には別の残された橋

f:id:miwa3k:20210531114059j:plain

この奥、坂道の途中に八杉神社があります。

位置を変えて

f:id:miwa3k:20210531114109j:plain

「神橋」「昭和三十三年九月竣工」と刻まれていました。流路跡と少しずれていますが、橋の位置を奥に移動して残したのでしょう。

右に立っている「由緒沿革」から抜粋。

八杉神社
大豆戸町には古くより、字安山の八王子神社と字大西の杉山神社が鎮座していました。
神社制度の改革に伴い、神社の尊厳保持、祭祀の厳修を計るため昭和二十二年、八王子神社杉山神社を合併し、八杉神社を創立しました。

神社の奥丘の上、GoogleMapでは「大豆戸城跡」のピンが立ちます。天文年間(1532~55)頃、後北条氏の家臣小幡泰久、政勝の居城跡だそうですが、現在は何もないようです。

 

その先の暗渠道

f:id:miwa3k:20210531114121j:plain

道のカーブが強いて川跡といえるくらいで、何も知らなければごく普通の道路です。

傾斜面と反対側は鶴見川の氾濫原、平坦地が広がり水田が広がっていました。

そちら水田方面へ分岐させた水路の名残りではないかと

f:id:miwa3k:20210531114132j:plain

今は側溝のようになってますが詳細は不明。もはや周辺には田んぼもありませんし。

 

さらに進む

f:id:miwa3k:20210531114143j:plain

しだいに新横浜地区へ近づいていきます。正面円柱の建物は新横浜プリンスホテル、右には東海道新幹線高架も並行しプリンス建物あたりから新横浜駅です。

 

ただし流路はそこへは到達せず、途中で直角に折れ曲がります。

流れが唐突に方向を変えたところ(港北区大豆戸町1147)

f:id:miwa3k:20210531114153j:plain

方向を変えた先(下流方向)を見ています。前を横切るのは東海道新幹線、その下を新横浜駅方面から流れてきた『根川』と合流しています。(暗渠に落とし込まれているだけですが。根川は川といってもごく細い流れ。通称に『大豆戸根川』というのがありました。)

 

新幹線の下をくぐると横浜環状2号道路との交差点太尾新道入口へ、それを渡ると太尾新道(ふとおしんどう)の下を流れます。〈見えないけど〉

太尾新道この下が流路跡

f:id:miwa3k:20210531114203j:plain

この左方すぐに横浜アリーナ、大きな建物が鎮座しています。

 

太尾新道、元は菊名川流路脇を沿う古く細い道が拡張されたものです。なのでしばらくこの道路に沿って進むことになります。

少し先へ行くと港北警察署前交差点

f:id:miwa3k:20210531114214j:plain

鶴見川支流の鳥山川、改修工事前の1960年頃までこの交差点付近で菊名川と合流していました。当時はこの付近が菊名川の終点でした。

 

菊名川・鶴見川・鳥山川の関係、調べてみるとこんなエピソードが。冗長になりますがまとめてみました。

鶴見川下流から中流域では川の勾配が緩いため水の流れが遅く、満潮時など河口から海水が川をさかのぼって新横浜のあたりにもくることがあるそうです(感潮域)。鶴見川の水を利用する農地水田は塩害を受けることがあり、農業用水の取水は積極的に行えません。

江戸時代寛文年間(1661~72)といわれていますが、感潮域にある大豆戸、太尾地区では鳥山川に新たな堤防建設と新流路掘削工事を行い、鶴見川への合流点を大豆戸地区(現・新横浜付近)から数キロ下流の太尾(現在住居表示は「大倉山」)地区まで移動しました。また〈たぶんこの時の工事で〉菊名川と鳥山川が新流路上で合流することになりました。
この工事により大豆戸、太尾地区の農地では鳥山川+菊名川から塩分を含まない真水を農業用水とすることが可能になりました。

この時の掘削区間(旧鳥山川流路)が現在の太尾堤緑道です。

時を経て昭和30年代の河川改修により鶴見川と鳥山川の合流点は大豆戸町付近に再び戻されます。鶴見川合流点は菊名川合流点より上流側にあるので鳥山川と菊名川の合流はなくなり、菊名川は江戸時代に掘削された旧鳥山川流路を単独で流れるようになりますが、この改修工事で河川名は太尾堤(ふとおづつみ)排水路となり、1972(昭和47)年には太尾堤排水路も埋められ、跡は太尾堤緑道へと変わります。
菊名川からの水は相変わらず太尾で鶴見川に合流していましたが、太尾堤排水路の暗渠化で地下を流れることになります。

〈ますます長くなってすみません〉

その頃から現在に至るまでに
(1)太尾の鶴見川合流点近くに『太尾ポンプ場』設置
(2)港北水再生センター(下水処理場)設置
(3)太尾の鶴見川合流地点は埋立られ完全に廃止

何が言いたいかというと、現在菊名川から来る水はどこで鶴見川へ放流されているかはっきりしないのです。流れの痕跡がなくなっちゃいましたから。

(3)の可能性はなし。(1)は太尾堤排水路の水を放流していましたが上流側に後から(2)ができて港北区の下水処理を賄うようになりました。(現在『菊名川』は下水道扱いのため原則的に処理が必要→(2)へ行くはず)しかし(2)完成後現在も(1)は稼働中ということで引っかかってます。

よくわからないので菊名川の水処理はどちらの設備も使用という前提にしておきます。

 

港北警察署前交差点を直進、太尾新道を100mほど行ったところ

f:id:miwa3k:20210531114224j:plain

歩道はそのまま太尾堤緑道へ入ります。

 

緑道に入り

f:id:miwa3k:20210531114235j:plain

江戸時代掘削された鳥山川+菊名川水路跡、江戸時代はもちろん昭和50年頃までこの一帯はほぼ水田でした。東海道新幹線開通後の新横浜駅前もこちらから続く水田が広がっていました。

 

少し先から緑道と西側鶴見川の間は下水処理場『港北水再生センター』敷地になります。

港北水再生センター入口

f:id:miwa3k:20181026194553j:plain

これは以前に太尾堤緑道を歩いたときに撮ったものです。この時、緑道が「鳥山川」流路であったことを確認しましたが、菊名川までは及びませんでした。

横浜港北 太尾堤緑道・新田緑道は何からできていたか - 散歩の途中

港北水再生センターは手前緑道地下を流れる菊名川暗渠の水も下水処理されていると思われる施設です。
その他多くの下水道も集まり、鶴見川側の放流口からはいつも相当量の処理水が放流されているのが見られます。

 

太尾堤緑道はまだ先へ続きます。

f:id:miwa3k:20210531114247j:plain

アーチに下がっている作品、鷺?が蛙を捕まえた場面。

柱の左に何気に記されていた一文が

捉飼場(とりかいば)について
捉飼場とは、徳川将軍家の鷹狩用の鷹の捕獲や調教をした場所のことで、現在の港北区太尾町・大豆戸町付近は、当時この捉飼場に指定されていました。鷹を調教した場所は、鶴・鴨・雁などの水鳥のいた川沼や、ひばり・うずらなどが住みついた雑木林だったところで、当時の鶴見川周辺の風景が想像できます。
この捉飼場に指定されると、農家は鳥殺生の禁止や鷹役人通行のための道路整備など、さまざまな制約や義務を負わされ、生活への大きな障害となっていました。(港北区史より抜粋)
公園内のゲートの装飾は、この鷹や水鳥をデザインモチーフとして、鋳鉄(鍛冶)の技術を使って製作したものです。 1988年横浜市緑政局

そのほか緑道内には1989年に開催された横浜彫刻展(横浜ビエンナーレ)入選作が展示されています。

そのうちのひとつですが

f:id:miwa3k:20210531114259j:plain

「これは遊具ではありません。」の立て札に…とりあえず吹いたけど、色々考えさせられます

 

本流に戻って

川跡をかなり先の方へ行くと橋跡が残っています。
太尾上橋跡

f:id:miwa3k:20210531114308j:plain

四隅の親柱、欄干が残ってます。『昭和33年5月竣成』とあるのでまだ鳥山川の水も流れていた頃です。通る道路は県道140号(川崎町田線)、鶴見川新羽橋へと続いています。古い道ではなく、道路開通時に架けられた橋かもです。

 

太尾上橋から約200m先で道路にぶつかり緑道は完全に途切れます。
緑道終端の先

f:id:miwa3k:20210531114318j:plain

 

行き止まりの先をのぞいてみる

f:id:miwa3k:20210531114328j:plain

旧鳥山川の流路跡、通ることはできませんが通路のように先へ続いています。この先は太尾ポンプ場の敷地へつながっています。

 

ポンプ場周辺は近づけず(最後の方にちょっとだけ出てきます)、まずその先へ回り込みました。

旧鳥山川流路跡、鶴見川との合流点近くにあった太尾河岸付近へ。

川跡上流方向

f:id:miwa3k:20210531114338j:plain

空き地部分が埋め立てられた旧流路です。

 

反対方向も同じく空き地のようになってます

f:id:miwa3k:20210531114349j:plain

「太尾河岸跡 舟運」と刻まれた石碑が立っています。

ブルーシート部分はすもうの土俵、その向こう緑緑している土手が、鶴見川堤防です。

先に鶴見川は河川勾配が小さく水の流れが遅いということを書きましたが、それは舟運には有利であり、江戸時代から大正時代頃までは物資運搬のための集積所となる多くの河岸が点在していました。
ここもそのひとつ『太尾河岸』があった場所で、かつては鶴見川に架かる『太尾橋』もあり、人と物が集まる賑わいのある場所だったそうです。

 

鶴見川堤防上から、旧鳥山川(太尾堤排水路)と合流していたあたり

f:id:miwa3k:20210531114405j:plain

現在の鶴見川の様子、かつての合流の痕跡は見つかりません。

 

200mほど鶴見川をさかのぼったところ、太尾ポンプ場からの放流口があります。

川表側樋門

f:id:miwa3k:20210531114413j:plain

 

川裏側

f:id:miwa3k:20210531114427j:plain

正面奥の白い建物がポンプ場の一部。港北水再生センターより古く、現在も現役の施設なので菊名川からの水もここから鶴見川へ放流されてたのは確実です。

現在は水再生センターとの間でどのように管理調整しているのかはっきりわかりません。
下水道でよくやる処理方法ですが、通常時は水再生センターで全量処理して河川(鶴見川)へ放流、大雨時などセンターで処理しきれない場合はこちらのポンプ場へ水が回されそのまま鶴見川へ放流という推測はできそうです。

 

太尾ポンプ場付近の鶴見川、堤防上の道路

f:id:miwa3k:20210531114439j:plain

鶴見川上流方向を見てます。先の青い橋は新羽(にっぱ)橋、その先は新横浜方面です。

あれこれこだわって長くなりましたが、ここまでとします。

 

菊名川前半部 

miwa3k.hatenablog.jp

 

菊名川と旧鳥山川流路地図