散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

見沼代用水西縁を歩く その2 見沼氷川公園から瓦葺東西水路分岐点

見沼代用水西縁をさかのぼって歩いています。現在位置は見沼氷川公園、武蔵国一宮のひとつ氷川女體神社の下におります。

【再掲】西縁にかかる氷川女体橋から境内方向

見沼代用水東縁、西縁の間を流れる芝川は(これから歩く向きで見ると)見沼氷川公園の付近で北から西へ方向を変えます。西縁も芝川に沿って同じように方向を変えます。
〈芝川が方向を変えるところで支流の加田屋川が北から合流、東縁は加田屋川に沿って流れているのでそちらを遡って歩いたときはそのまま北へ向かいました。このへんを境に東縁西縁の間隔が広がります。〉

今回はここに『見沼地図』を置いておきます

user:Hiroyuki0904, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

見沼地図で現在位置は『見沼(消滅)』と記されたあたり。加田屋川は記載されてませんね。西縁左の小さな鳥居が氷川女體神社かな。

 

芝川同様西縁の向きも変化したあたり(さいたま市緑区宮本)

西縁の上流方向を見ています。対岸並木の奥(南側)は斜面、相変わらず片側の土地が高く、低地との縁に流れがあるのは変わりません。右側(北側)は低地で見沼田んぼの領域、200~400mの間隔をあけて芝川がほぼ並流しています。

 

さいたま市立病院の北側付近

南側台地上は基本、住宅地ですが崖が迫っているところなど下はこのように緑深い、やや暗い風景になっています。西縁沿いの歩道は舗装されていないところも多いので歩く人もほとんどありません。
それに対して並行する芝川の土手は舗装された自転車歩行者道、その上どこも明るいのです。

 

少し方向を変えて低地側の畑

見沼田んぼの領域はほぼ畑、野菜畑もありますがこのへん園芸用花卉や植木の栽培が多いのが特徴です。

 

用水路の周辺、ところどころ保存緑地として森を保護している場所もあります。

木崎4丁目保存緑地(さいたま市浦和区木崎4丁目)

〈あまり変化ない...ですね〉

 

竹林も

 

浦和区大宮区の範囲に入ると畑ばかりだった低地側にも住宅や公園、運動場などが徐々に目立ってきます。

水位調整用ゲートを前方に(さいたま市大宮区北袋町2丁目、浦和区大原3丁目境界付近)

右側一帯が見沼田んぼ領域にあたりますが、さいたま市大原サッカー場浦和レッズ関連の練習場のようでもありました。

 

少し上流で首都高速埼玉新都心線をくぐるとまた水門があり、そこから高沼用水が見沼田んぼと逆方向の西へ向けて分流されていました。

高沼用水分流点から200mほど、さいたま新都心方面のビルなど

 

そして50mくらい行くとまた大きめの水門

見沼田んぼの低地側にある水門、西縁から取水してます。
通りかかったとき何の水門なのか謎でした。

後で調べてみるとここは『天沼揚水機場』。西縁この地点で取水し、地下に設置したパイプを通して荒川へ送水、荒川の秋ヶ瀬取水堰から再度取水され東京、埼玉の上水、工業用水などとして利用されるとのことです。
近年使用量が減少した農業用水を都市用水として利用するため1989年になって設置されたものだそうです。〈見沼代用水の利用方法も時代で変化していくのですね〉

 

天沼揚水機場から600m、大和橋手前(大宮区天沼町2丁目)

大きな水門の上流側、取水される前で水量も多いように見えます。〈気のせい?〉

 

ここから日がかわって。

大宮第二公園の西側を流れる見沼代用水西縁(さいたま市大宮区寿能町2丁目)

左フェンスの下に流れ、右側、西縁と4~500mほど離れて並流する芝川の間が大宮第二公園です。第二公園の南側は大宮第三公園、北側は大和田公園が続きます。西側も大宮公園がほど近く。

 

大和田公園を過ぎるとまた一帯は畑(さいたま市北区見沼)

正面向こうが西縁と芝川の上流方向。

 

そちらへ進むと途中東武野田線線路を横切り、また畑が続きますが

西縁小さな土手の上に風車のような建物

西縁の流れをはさんで『見晴公園』、その北側は市民の森・見沼グリーンセンターが続きます。

 

こちらは市民の森・見沼グリーンセンター、西縁の上に設けられた小さな広場

公園端っこなので隣りは住宅ですが。

 

細いながら歩道(見沼緑道)が続きます。

 

突然、線路にぶつかって見沼緑道途切れますが西縁は下をくぐって

JR宇都宮線東北本線)と東大宮操車場への連絡線など多くの線路を横切ります。歩く人は正面に出るのに迂回、遠回り。

 

西縁は東大宮操車場に沿って流れていますが、その途中で突然方向を変えます。操車場の東側を流れている芝川を越えるためです。
ちょうど向きの変わった西縁に沿って操車場の上を跨ぐ陸橋があるのでそこから眺めます。

操車場を横切ってきた西縁

手前へ流れてます〈とても濁ってます〉

右奥のほうは昼寝中の車両です。

 

上流側からふり返って。
見沼代用水西縁と芝川の伏越地点

右の濁ってるのが西縁、その地下を芝川が伏越し、左前方へ姿を現しています。

 

陸橋の反対側から芝川の水が地下へ落とされるあたり

右向こうから流れてくる芝川、ゲートを通って地下のパイプへ水が落とされ西縁の下を通過します。

 

陸橋を渡り終えて西縁の下流方向

陸橋の右側に芝川の水門ゲートが頭を出してます。

 

この地点、背後はこんな景色

西縁はここからしばらく暗渠になっています。
真上のこちらは現在『東大宮親水公園』、細長く300m近く続きます。(公園内を流れている水は西縁のものではないと思います。)

 

公園の先も少し暗渠区間が続きます

 

暗渠出口から450mくらい遡ったこちらが入口

フェンス下に暗渠トンネル入り口の穴があいてました。

暗渠となっているこの区間、見沼代用水西縁がちょうど大宮台地を横断するところにあたります。

西縁は最初、綾瀬川筋の低地を流れていますが芝川筋の低地、さらに芝川を越えた西側へ導流させる必要があります。綾瀬川、芝川2つの川の間には大宮台地があり、これを越えるのが現在通過中の地点です。
台地といっても両河川の流れる低地との高低差は10m未満ですが、ここを越えるために西縁は開削時、堀を深く掘り込んだ切通しで水を流していました。
しかし近年、護岸の風化や周辺人口増加などで事故等の懸念が高まり地下を暗渠で通すようになったということです。

参考まで周辺の暗渠化は1980年頃、東大宮親水公園の開設1988(昭和63)年とのことです。

(見沼代用水東縁でも同様に台地(微高地)を越えるところがありますが、高低差がほとんどなくあっけなく通過していました。)

また、芝川を越えるのは先ほど陸橋の上から見た伏越(砂伏越、「砂」は地名)です。そちらは西縁開通当初からあり、木製樋管を使用した伏越だったそうです。

 

上の写真、先に見える橋からふり返り

正面、暗くてわかりませんが暗渠の入口。

さいたま市をぬけ、これより上流は上尾市、西縁両岸とも最近開発された住宅地が続きます。
また、見沼代用水に沿って延びる自転車歩行専用者「緑のヘルシーロード」、西縁末端がここにありました。

 

少し端折って1㎞ほど先
溜橋付近から

古そうな橋です。

さらに300mほどで国道16号高架をくぐると東縁、西縁の分岐までまもなくです。

 

荒神上橋から上流方向

 

次の宿橋は西縁になって最初の橋。
宿橋上から

前に見えるのは用水の管理橋で、その真下はまだ東西2つの水路が並んでいます。右側フェンスがターンしてますが、その向こう側が東縁です。

西縁をたどって瓦葺伏越(かわらぶきふせこし)、見沼代用水東西水路分岐点まで到着しました。(現在は『瓦葺分水工』という名称のようです。)

 

管理橋の前方からふり返り

〈どちらも濁ってますが〉左が東縁、右が西縁水路。

背後に水門ゲート(瓦葺調節堰)があってそこから東西に水が分けられていること、伏越で綾瀬川の下をくぐっていることなどは東縁を歩いたときに記しました。

こちらの後半

miwa3k.hatenablog.jp

 

ゲートの上流側から

東西分岐の直前です。左側は放流工(『蓮田逃樋(はすだにげひ)』という名称があるらしい)、余分な水が溢れて綾瀬川へ落とされます。

 

現在見沼代用水は伏越となっていますが、開通当初から1961(昭和36)年まで綾瀬川の上を橋(掛樋)で通過していました。
明治時代の改修時に煉瓦でつくられた掛樋の土台などが残っています。

近くの広場にある解説。当時は伏越でなかったので『瓦葺掛樋』です。

当時の鉄製掛樋【解説中の写真拡大】

上尾市登録文化財 記念物(史跡) 瓦葺掛樋跡(かわらぶきかけどいあと)
「瓦葺掛樋」は、見沼代用水の重要構造物のひとつで、瓦葺の地で、見沼代用水と綾瀬川が立体的に交差できるように、綾瀬川の上に架けられていたものである。見沼代用水は享保一三(1728)年に、「見沼溜井(現・さいたま市)」と呼ばれる溜池が新田開発で干拓されたことに伴い、代替の農業用水を利根川から導水するため開削された。当初は水路の両側に盛り土をして堤を築き木製の樋を掛ける構造であったが、その後、すべて板囲いに改められて、以後この形で明治期まで続いた。洪水などによる被害がなくとも大量の通水があるため、度々漏水腐食が生じ、毎年のように修理が行われ、十年以内の年限で架替も必要であったとされる。
現在残されている煉瓦で構築された橋台・橋台翼壁・掛樋北翼壁は、明治四一(1908)年に樋が鉄製に改造された際の構造物の一部である。
見沼代用水の流路上に存在した掛樋の多くが江戸時代の間に川などの下をくぐる伏越へと変えられた中、瓦葺掛樋はその後も長く用いられ続けた。しかし、昭和三六(1961)年に長年の流水による水路の変形や下流での流量不足などのため廃止され、綾瀬川の下をくぐる伏越に変更され現在に至っている。昭和五六(1981)年立会橋の再建に伴い煉瓦積みの一部が取り壊されたが、見沼代用水の重要構造物に位置付けられているもののうちで唯一、明治時代の遺構が残る貴重な文化財である。
なお、現存する煉瓦は上敷免村(現・深谷市)の日本煉瓦製造株式会社で製造されたものであり、「上敷免」の極印が刻まれたものも存在する。

 

綾瀬川左岸側に残る橋台、翼壁の一部

ここにこの幅の掛樋があって川を渡っていたのですね。

奥に見えるのは現在の伏越、吞み口側ゲートなどの設備です。

 

綾瀬川上流側から同じ位置を

奥にかかるのは立合橋。

 

右岸側の広場に残る片側の翼壁

 

瓦葺分水工の上流側、宇都宮線

この先はまたいつかたどります。

 

最後に東縁、西縁流路地図を置きます。

東縁西縁、歩き終わりました。

 

西縁その1

miwa3k.hatenablog.jp