最近、江戸川、荒川を歩きました。そのとき、江戸時代の利根川東遷+荒川西遷に関連する川べりを辿ってみたいと思いました。
〈内容わかりにくいので冒頭の一文だけ貼付:利根川東遷事業(とねがわとうせんじぎょう)は、江戸時代初期に行われた利根川中下流の付け替えにかかわる一連の河川改修を指す。〉
江戸川、荒川〈荒川は災害復旧、改修工事の影響でさいたま市内までしか辿れてませんが〉に続き、昔の利根川、荒川の流路でもある中川を歩いてみることにしました。
その初回ではありますが、すでに中川は部分的〈つまみ食い的〉には歩いてます。なので今回は流れの途中から歩きはじめました。
この日は葛飾立石から吉川(埼玉県吉川市木売)まで。そのうち、このノートは立石から三郷放水路分流点までの記録です。
また中川という河川はいろいろ複雑な『生い立ち』があり、自分の理解のためメモったものを最後に置きました。そちらはあくまで自分用ですので適当に読み飛ばしてください。
京成立石駅からはじめます
『呑んべえの聖地』とかいわれる立石の朝ですが、前の晩から居たとかではありません。
早速中川べりへ。
本奥戸橋の上流側からスタート
地図で参照するとよくわかりますが、このあたりの中川は実に見事な蛇行がそのまま残っています。『七曲り』といわれるそうです。川の風景もずっとカーブの連続です。
ところが困ったことに七曲りのはじまる高砂橋まで数キロの間が河川改修工事中。シートで覆われ、川の様子はほとんど窺えません。
シートすき間からのぞいた新中川分派点付近
七曲り手前に新中川との分派(分流)点があります。見にくいですが、向こう側を右へ入っていくのが新中川、手前へ来るのが中川本流です。
新中川は1963(昭和38)年に完成した放水路、人工的に開削した流路で末端は旧江戸川につながっています。以前は『中川放水路』と呼ばれていました。
分派点のすぐ上流側
高砂橋
その隣りは京成線中川橋梁
葛飾区青戸7丁目付近から
対岸は葛飾区新宿(にいじゅく)1丁目。新宿は江戸時代の水戸街道宿場町。
国道6号中川大橋から上流方向
対岸、街道の新宿はこちらの方が近い。
旧水戸街道中川橋を過ぎるとJR常磐線中川橋梁
足元は足立区中川1丁目、対岸は葛飾区新宿5,6丁目
三菱製紙中川工場跡地に最近建設された高中層住宅群、他に東京理科大キャンパスも開設されました。
常磐線橋梁の上流で水管橋2つを越えて
飯塚橋(足立区大谷田1丁目)
川岸近くに大きな古木
幹の反対側には小祠がありました。
対岸、花畑水門
綾瀬川と中川を結ぶ花畑運河が通り、その水門です。
花畑運河は延長1.4km、昭和初期に舟運の便を図るため開削されましたが、戦後はほとんど利用されなくなりました。
花畑運河合流の300mほど上流、同じく対岸、垳川(がけがわ)合流
垳川は綾瀬川の古い流路ですが、江戸時代に改修され、以来葛西用水路の溜井として利用されています。
現在は河川に指定され、樋門向こうには垳川排水機場(茶色の壁の建物)も存在していますが、基本的に綾瀬川、中川との水の出入りはなく本来の河川と趣きが異なります。ただ、垳川の流路跡は現在もそのまま東京都と埼玉県の境界になっています。
垳川の延長線上、中川河岸のこちら(左岸)側には新大場川水門
大場川(おおばがわ)の合流点で、中川の逆流防止のため水門が設けられています。
新大場川水門の橋上から見た大場川
昔は中川(古利根川)の流路でした〈派川?〉。1729(享保14)年に閉め切られて小合溜井の用水池となり、現在この奥は水元公園内の細長い大きな池です。
本流に戻って、ここからは埼玉県八潮市。
三愛石油東京オイルターミナル付近
油槽タンクが見え、川の中には桟橋があり船もついてます。タンカーなのでしょうか。何らかの石油製品を積んで中川をここまで遡上してくるのですね。桟橋左端にはボートが吊り下がってます。
オイルターミナルの隣りは風月堂の工場、甘いにおいが対岸まで漂ってました。〈北風〉
そのすぐ上流側
潮止橋
自分の足あとを調べたところ、過去に中川はこの橋まで来てました。
先へ。
潮止橋を下流側に見て
次の橋、新中川橋を渡ります。
橋上から中川下流側(三郷市戸ヶ崎)
この付近から両岸とも大規模な堤防設置工事が進んでいます。ここは左岸が未工事で右岸が工事中。
同じ橋から右岸側(八潮市大瀬)
古い堤防位置に比べ現在建設中の堤防は水際近くに設置されるようです。川から少し離れたところには古い堤防が残っていて、上が遊歩道になってました。
古い堤防の上(八潮市南川崎)
いつ頃造られたものなのでしょうか。高さも厚みもなく、貧弱に見えます。〈だから頑丈なのを造ってるんですが〉
少し上流側は新しい堤防が建設済みでした。
その上から(八潮市木曽根)
対岸は三郷放水路三郷水門
三郷放水路は中川と江戸川を結ぶ人工水路で、中川の水を江戸川に逃がす役割があります。
綾瀬川、中川は周辺でも一番標高の低い、傾斜もほとんどないところを流れているので流速が遅く、水が溜まりやすくなっています。氾濫、洪水を防ぐために江戸川と結ぶいくつもの放水路が設置されています。
いったんここまでで区切ります。
>>>>理解、整理用メモまとめ
埼玉県羽生市東7丁目、葛西用水路を伏越で通った宮田落(農業排水路)吐口が中川管理起点。「一級河川中川起点」と刻まれた標石がある。中川にいわゆる源流は存在しない。管理起点が定められたのも1965(昭和40)年のこと。
関東平野中央部には勾配がほとんどないこともあり、古代より利根川、荒川、太日川(渡良瀬川下流部となる現在の江戸川)等の大河川が乱流し、支川、派川を多数形成していた。
江戸時代初期の利根川東遷、荒川西遷事業に代表される河川改修や多数の用水路、排水路開削等によって多くの河川が整理統廃合されていくなかで徐々に現在の姿に形を変えていく。
江戸時代初期まで、利根川と荒川は現在の吉川市と越谷市境界付近で合流し、その下流は中川流路を下っていた。
利根川東遷、荒川西遷事業により両河川の分離、流路の移動がなされ、上流部を閉め切られて(大落)古利根川、元荒川となる。
流量が大きく減少し、それまでの流路はおもに農業用の用水路、排水路となる。
一方中川上流側は複雑。
現在中川は越谷市と松伏町境界で(大落)古利根川と合流するが、その形になったのは昭和初期になってから。
利根川東遷事業以降続く河川改修で宮田落、天神堀、島川、権現堂川、庄内古川、古利根川などが、一部は新河道を開削して河川同士を繋げられ、中川に組み込まれる。
権現堂川、庄内古川は江戸川に合流していたものを切り離して中川に繋ぎ、中川の一部とした。
現在(大落)古利根川は越谷市・松伏町境界で中川に合流しているが、庄内古川から古利根川までの中川流路は人工的に開削されて繋げられた部分である。
江戸時代後期まで、中川という河川名称は荒川と江戸川の中間を流れる、現在の三郷市付近から下流部を指していたそうだが、管理上の都合などもあって繋がった上流部も中川となった。
荒川と江戸川の中間を流れることが『中川』の名称由来とのこと。
大落古利根川合流以降
越谷市、吉川市境界で元荒川(江戸時代以前の荒川本流)と合流。
三郷市と八潮市境界から三郷放水路が江戸川と結ばれて中川の水が分水されている。1973(昭和48)年完成。
三郷市と葛飾区境界の水元公園小合溜井は江戸時代に中川から江戸川へ注いでいた分流?を堰き止めて作った用水池である。現在も中川の水が引き込まれている。
葛飾区亀有付近には西に向かう古隅田川があり、こちらも古利根川(現・中川)の分流である。
葛飾区高砂付近から1963(昭和38)年に完成した新中川(旧名中川放水路)が分派。
その先『七曲り』といわれる蛇行区間を経て荒川と並流して江戸川区西葛西の河口へと向かうが、大正時代、荒川(放水路)の開削により中川流路は分断され、西側に残った部分は旧中川となっている。
葛飾区東四つ木で綾瀬川と合流後、荒川との間を堤防で区切られて並流、河口近くまで続くが、河口2㎞ほど手前で間を仕切る堤防が切れる。そこから河口までは荒川ではなく、中川の河川区域となっている。
綾瀬川は江戸時代以前、荒川の派川だった。西遷により上流部で荒川とも切り離され、灌漑用水路となった。
中川のエントリーノートは4つ。
旧中川:荒川ロックゲートから木下川水門、河津桜を添えて - 散歩の途中
これらに先だって荒川を歩いたとき、葛西の河口が実は中川だった(管理上だけど)ということがあった。
東京の荒川を歩く その1 葛西臨海公園から河口を経て小菅 - 散歩の途中
この時は中川河口から清砂大橋までさかのぼって対岸の荒川側へ移ってる。清砂大橋から平井大橋まで厳密には中川沿いを見てない。
旧中川、新中川は全区間歩いた。
新中川分岐点から上流は歩く方向は逆だが、八潮潮止橋まではトレース済み。
地図:今回分は《中川(2)》