前回その4では川の右岸、荒川区側を歩き荒川8丁目まで来て離脱、町屋駅に出た。
日を改めて出直し、京成線町屋駅のひとつ先の千住大橋駅で下車。隅田川的な位置で見ると少し下流に戻り、今度は左岸側になる足立区千住橋戸町から、また川をさかのぼって歩き始める。
川の近くまで来て、川面が望めそうなところでカメラを差し出したらこんな風景が撮れた。
逆光の東京電力送電橋、都水道局千住水管橋、千住大橋
前回その4で見た風景の対岸にいることを確認して、上流方向へ。
その先は少しの区間だけ、こちら左岸の足立区側のみ堤防の改修が終わっている。
対岸、荒川区南千住側を望む
でもすぐに堤防の上を歩けなくなってしまう。
前方は京成本線隅田川橋梁
2径間連続下路式トラス橋(ちょっと適当)。橋がいつできたのかはわからなかったが、路線開通は1931(昭和6)年。その後架け替えがあったかどうかも不明。
土手から橋へさしかかる電車
かつては京成線橋梁の数百メートル先にひとつ橋(上水千住水管橋)があったが、現在は廃止、撤去されている。
京成線の下をくぐり、その向こう側はカミソリ堤防の壁が続く。
千住桜木にさしかかると、そこからまた視界がひらける。
上流方向
川沿いに行き、帝京科学大学の建物前に「お化け煙突」のモニュメントがあった。
近づいて
お化け煙突モニュメント
『お化け煙突』は、大正15年1月から昭和38年3月までこの地で操業した千住火力発電所に設置され、約40年間親しまれてきました。この煙突は4本ありましたが、時には3本になり、2本、1本に見えました。実際には4本の煙突が、薄い菱形に配置されていたため、見る角度によって4本から1本に変わりました。このように場所によって煙突の本数が異なって見えたのが名前の由来です。
千住火力発電所は、昭和39年11月に解体され、その後、煙突の一部が足立区元宿小学校で滑り台として残され、このたび帝京科学大学千住キャンパスにモニュメントとして再生することになりました。モニュメントの上半分が実物の煙突です。
モニュメントの後ろ側は尾竹橋(おたけばし)
現在の橋は1992(平成4)年竣工、橋長130.3mの3径間連続ローゼ桁橋。
最初の架橋は1934(昭和9)年だが、老朽化と交通量増加に伴って架け替えられた。
尾竹橋の上流側
ここからしばらく、北側を流れる荒川との距離が縮まる。荒川の堤防上、間の建物が低いところからは隅田川を見ることができる。
荒川の堤防から垣間見る隅田川
先へ歩くと日暮里舎人ライナーの足立小台駅と尾久橋が見えてくる。その手前で隅田川に再びテラスが整備されているのでそこへ下りる。
日暮里舎人ライナー隅田川橋梁と尾久橋(おぐばし)
2つの橋の下から
道路もライナーもここで隅田川を渡ってすぐに、また広大な荒川を渡らなければならない。ライナーは2つの川に挟まれた細い場所に足立小台(あだちおだい)駅を設けている。
道路橋のほう、現在の尾久橋は1968(昭和43)年に竣工、橋長は431.0m、形式は3径間連続鋼床鈑箱桁橋となっている。荒川の扇大橋とつながっているようにも見え、そちらを含めてしまえば1000m以上の長大橋となる。
ライナー橋は資料が見つからないので正確にはわからないが、橋の完成は、日暮里舎人ライナー開業時の2008(平成20)年頃で、形式は見たところ、尾久橋と同じかもしれない。(自信はない)
川岸のテラスは長く続かず、また視界のきかないカミソリ堤防横の歩道を歩いて行くと、次の「小台橋(おだいはし)」が目の前に現れた。
小台橋
親柱と橋名標をいれて
現在の橋は1992(平成4)年竣工、橋長122.0m、形式は鋼ニールセンローゼ桁橋。先代の初代小台橋は1933(昭和8)年に架橋されているが、老朽化で架け替えられた。
都心近くで昭和初期に架けられた橋はいまだに現役で使用されているけれど、それら以外は軒並み老朽化で架け替えになっているのね。
もう少しさかのぼって歩いて行くと対岸は
あらかわ遊園
荒川区立の小さな遊園地。観覧車がなければ対岸からは気づかないかも。
その先スーパー堤防化工事中区間があり、そのまた向こうはカミソリ堤防、それから大きな下水処理施設(みやぎ水再生センター)があって川を見られない。途中に石神井川の合流点があるが、実際に見ることはできなかった。
最近は水道施設の上部を覆って公園にしているところが多いが、ここの水再生センターも宮城ファミリー公園になっていて、その中を通って川岸に出ることができる。
川岸に復帰(足立区宮城2丁目、宮城ファミリー公園付近)
下流方向を向いて。
左上は首都高速中央環状線。王子、飛鳥山から石神井川上を通り、隅田川を跨いでこの付近は川に並行。
隅田川を跨ぐということは橋梁があるはずだが、この橋のことは意識していなかった。水再生センターの広大な敷地の向こうを通っていてチェックポイントがなかった。
上流側を見ると
豊島橋(としまはし)
ウィキペの引用だが
豊島橋
橋の歴史
もともと現在の橋の上流300メートルほどの隅田川が大きく蛇行する「天狗の鼻」とよばれる場所に鎌倉時代から続くとされる「六阿弥陀の渡し」(豊島の渡しとも)があり、六阿弥陀詣の人々で賑わったと伝わる。1925年(大正14年)、この場所に最初の豊島橋が木橋として架けられた。初代の豊島橋は荒川を渡る同じく木橋の旧江北橋と結ばれていたが、老朽化によって1960年(昭和35年)に下流の現在の位置に両橋ともどもゲルバー式鋼製桁橋として改架された。なお旧江北橋はすぐに撤去されたが、旧豊島橋は1967年(昭和42年)まで存在していた。
2代目の鉄橋は1995年(平成7年)に地盤沈下と老朽化によって再度改架されることとなり、7年の工事期間を経て2001年(平成13年)に現在の橋となった。
現在の橋長は106.7m、形式は単純下路式鋼ローゼ桁橋。
渡ってる途中で
隅田川の向こうに首都高速中央環状線、荒川に架かる五色桜大橋
あのへんが荒川。荒川があのへんを流れる以前は、隅田川の流路があのへんまで突き出していて、天狗の鼻はもっと高かった。鼻は川の改修によって低くされた。
天狗の鼻を回り込むとその先には
新豊橋(しんとよはし)
2007(平成19)年にできた新しい橋。橋長105.0m、単純箱桁アーチ複合橋。
道路部分から
アーチのワイヤー部分が赤く塗られていてアクセントになっている。
その先はそれほど間を置かず、新田橋(しんでんばし)が架かる。
新田橋
逆光にめげず上流側から見返す
1961(昭和36)年に架けられた、橋長114mの5径間単純鋼桁橋。桁部分はこれといって特徴はないが、橋脚はかつて架かっていた木橋を模してつくられた。横から見るとアルファベットのAに見える。
新田橋からは古い堤防と一般道の間に設けられた歩道を通り、さらに川をさかのぼる。500~600mほど行くと環七通りが通る新神谷橋(しんかみやばし)に出る。
新神谷橋
右の方の続き部分
(左側、堤防と柵のすき間から川の方向を撮るのは結構つらい。)
1965(昭和40)年の開通。元はここより少し下流の右岸、甚兵衛掘(神谷堀)に「神谷橋」が架けられていて、その後この橋が隅田川に架けられたため、「新神谷橋」となった。右岸側が北区神谷の地名である。
橋長153.0m、形式は3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋。
新神谷橋の上流には荒川との分岐点、岩淵水門まで2キロ弱、橋はない。
歩道はある、そしてカミソリ堤防もある
後ろに荒川の堤防が間近に迫ってきたあたりで、下流側を
荒川堤防上から、右岩淵水門、左奥から新河岸川、水を交えて左手前へ隅田川
岩淵水門で荒川の水の一部を分流して隅田川に流し込む。ここが現在の隅田川のはじまりである。
このあたりは、以前荒川を歩いたときのノートにも少し書いている。
岩淵水門、上流側へ回って
ここにある水門は1982(昭和57)年に造られたもの。
近くの解説板
岩淵水門
増水時に、荒川の水が隅田川へ流入することを防ぎます。
岩淵水門は、大正13年に完成した旧岩淵水門の老朽化、地盤沈下による高さの不足のため、昭和57年に旧水門の下流約300mに建設されました。平常時は、水門を開放し船の通行を確保するとともに、隅田川の水質を浄化するために荒川の水を流下させています。増水時には水門をしめて隅田川への流入をくい止め、首都東京を水害から守る大切な役割を担っています。
旧岩淵水門はそのすぐ上流側に残されている。
現・岩淵水門付近から見た旧水門と荒川
右の荒川から旧水門手前側にある水路は、現在の水門建造時に開かれた。(そうでなかったら旧水門を設けた意味がない)
旧岩淵水門、上流側から
真横から
解説板から
旧岩淵水門
■旧岩淵水門のあらまし
昔、荒川下流部分は現在の隅田川の部分を流れていましたが、川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の洪水被害をたびたび受けていました。そのため、明治44年から昭和5年にかけて新しく河口までの約22kmの区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。
現在の荒川と隅田川の分かれる地点に、大正5年から大正13年にかけて造られたのがこの旧岩淵水門(赤水門)です。その後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和50年から新しい水門(旧岩淵水門の下流に造られた青い水門)の工事が進められ、昭和57年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。
長年、流域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は現在子供たちの学習の場や、人々の憩いの場として保存されています。
一方、現在の隅田川には岩淵水門のすぐ下流側で新河岸川が合流しているが、こちらの川はこの上流から荒川にほぼ並行して流れてくる。
隅田川合流地点近くの新河岸川
隅田川遡上の記録はとりあえずここまで。
すべての足跡を貼り付け
隅田川その1からその4までのリンクを最後に置いておく。