最初は2016年10月03日付けで公開したノートです。最近石神井川上流とかつての水源付近を訪ねる機会があったので、過去ノートをタイトル含めて更新しました。
『石神井川を歩く その1』で王子から石神井公園・三宝寺池までを歩きました。〈正確には石神井公園の池は石神井川へ流れ込む支流ですが〉
今回その2はさらに遡って上流端とそれより先、かつての水源周辺までの記録です。
その1のノートはこちら〈その1も加筆予定してます〉
Googleマップ 石神井川流路 その2の足跡など
まず石神井公園の奥にある三宝寺池へ。はじめに公園内を一周寄り道。
ここにある石神井池、三宝寺池は厳密には石神井川の支流です。流れ出た水が石神井川に合流します。
三宝寺池の池尻
〈天気予報は晴れると言っていたのに暗い〉
三宝寺池の池尻側はこのように水草や葦に覆われています。
三宝寺池の葦原
この池にある浮島の植物群落は昭和10年(1935)に国の天然記念物に指定され、珍しい種類の植物がいくつかあったようです。いまはだいぶ様相が変わって、回復を図っている、とのことです。
池の上側にまわると水面が現れます。
三宝寺池と厳島神社の建物
かつて池の水はすべて湧水でしたが、湧水量減少のため現在は地下水をくみ上げて池に供給しています。
〈武蔵野台地上の3つの池、井の頭池、善福寺池、三宝寺池、みんな同じ状況〉
三宝寺池から流れ出し石神井池へ注ぐ水路
2つの池の間に川(水路)があって上の池の水が下の池に供給されています。
昭和初期までこの下側に石神井池は存在せず、三宝寺池から流れ出した水は三宝寺川とよばれた小川となって石神井川へ注いでいました。
その川跡と周辺の田んぼがあったところに石神井池を人工的につくったとのこと。ちょうどその頃、いまの西武が鉄道を近くに通したこともあり、観光地化して人を呼び込む目論見もあったようです。
その後周辺は宅地化されて、高級住宅地っぽい雰囲気のある石神井池北側周辺です。〈個人の感想〉
石神井池の中ほどから
歩道はここ何週間かの天気の悪さで酷くぬかるんでます。
石神井池の北側を望む
このあと石神井池池尻のボート乗り場近くから石神井公園記念庭園を通って石神井川へ。前回歩いてきた「憩い橋」に出ます。
憩い橋の上流側から
このあたりは河川改修工事からそれほど時間が経っていないようで、設備や護岸もまだきれいです。川の水も澄み豊富に流れています。〈公園から出たら日差しが出てきた〉
睦橋から上流側
睦橋は憩い橋の2つ上流側の橋。このあたりも両岸に桜が植えられて並木道。
憩い橋の周辺が改修工事直後ということはその近くで引き続き工事が行われているという予想が的中。
この先工事中
都道444号にかかる蛍橋とその上流が工事中でした。
これより先は河川整備完了、未完がまだらで川沿いの歩道があったりなかったり。
小ヶ谷戸橋から上流、新青梅街道方向
向こうの上が新青梅街道の扇橋。このあたりの護岸は新規整備前の状態、川岸に歩道はなし。
関新橋から下流側
武蔵関駅に近づくあたり、商店なども増えてきます。
川は駅のホームをかすめて西武新宿線下をトンネルでくぐり、線路の反対側に顔を出します。
西武新宿線をくぐるトンネルの入口
線路に沿ってしばらく川が流れ、その流れが方向を変えるところに武蔵関公園の入口があります。
武蔵関公園入口
公園入口と線路の間に公園内の富士見池から流れ出す水の水門があります。
富士見池の水門
写真左側から流れてくる石神井川と正面から流れ出す池の水がここで合流。
川はここから上流側へ富士見池を迂回するように公園の縁を回って流れています。
富士見池、中ほどにある橋から
富士見池と池中にある島
池の水は石神井池などと比較して全体的に緑色が濃く、植物プランクトンが多いようです。
昭和初期頃ため池として掘削されたようですが、現在は石神井川の調節池で川の水位が上昇すると越流堤から水を取り込み、その後下がれば水門を開いて排水します。
石神井川からの水を流入させる堰
すぐ脇を流れる石神井川の様子
池には常時水がある状態ですが石神井川からいつも供給されているのではなく、わずかな湧水と地下水のポンプアップで維持しているそうです。
池に水を供給している場所
写真手前右側と左上奥側配管の下(わかりにくい)の2か所から水が供給されていました。
この脇にあるポンプ施設からくみあげた地下水と湧水なのかなと想像。
富士見池を一周半して上流側出口から抜けると隣は早稲田大学東伏見キャンパス。
溜渕橋から上流側
ここからは西東京市。
この先早稲田大学の運動場が並びます。野球場、サッカー場、なんかがたがたうるさい小屋があるなと思ったら、厩舎があって中の馬がちょっと興奮してました。
このあたりから川の水量は目に見えて減るという情報がありましたが、長雨の直後ということもありこの日は十分流量がありました。上の写真参照。
そしてこの付近には縄文時代の大集落であったという下野谷遺跡があります。そのころから集落の大勢の人を賄う水を確保できていたのでしょう。川付近は崖もあり、湧水も豊富にあったのかもしれません。
大学キャンパスに沿って歩道が整備されている場所をすすむと東伏見稲荷の近くに出ます。
東伏見稲荷神社の東側から上流側
水の流れはまだ十分、ただし川底に生えている草は水草ではなく空き地などに普通に生える雑草の類いに見えます。ということは水のある時よりもないほうが優勢ということではないでしょうか。
東伏見稲荷神社は昭和4年(1929)に京都の伏見稲荷大社から分霊を勧請して創建されました。わりと新しい神社なんですね。
ちなみに東伏見にあるから神社をここへ持ってきたのかと思ったら、神社ができてから地名を東伏見にしたんだそうな。
この先伏見通りと青梅街道を渡り、西武柳沢駅南交差点付近の様子
武蔵関公園付近からあちこち両川岸間にH鋼を渡したこういうタイプの護岸になります。水は全体に流れているというより溜まって見えました。これがこの上流でずっと同じ感じで続きます。
西武新宿線の線路わきにあった調整池
階段があって調節池には自由に下りられるようになってます。雨上がりでぬかるんでますが水はたまってません。
このあたりから田無駅の南側に出てきました。以前からある住宅地の表札はみんな「田無市」と書いてあります。〈現在は西東京市〉
西東京市向台町4丁目さつき橋から
同6丁目ともえ橋から
最初訪れたとき、このあたりではもう水がないと想定していました。ほとんど水たまり状態ですがかすかに流れもあります。
長雨の後だけになかなかしぶとい。
多摩湖自転車道(狭山・境緑道)の馬の背と呼ばれるところまで来ました。
石神井川と上水道の水道管が立体交差していて土手が築かれてます。
馬の背の土手と歩道
土手を横切る石神井川が左右断片的に見えてるのですがわかりにくいですね。両側フォーカスします。
馬の背、下を潜る石神井川
下流方向
上流方向
上流方向次の橋(長久保橋)から馬の背側をふり返り
長久保橋から上流方向
馬の背から新しい写真に差し替えてます。この時馬の背、長久保橋ではすでに水の流れはありません。
石神井川は前方の森、小金井公園の北側へ入り込みます。
公園と住宅地グラウンドの境界
公園内、すぐわきに池があり、水源のひとつとして石神井川へ供給されます。
この時は流れ出てなかったようです。
この池近くに上流端標識(小平市花小金井南町2丁目)
上流端標識より上流側は蓋かけされた暗渠が少し続きます。
〈路面左側やや色の濃いほうが暗渠のふた〉
すぐ先、小金井カントリー俱楽部と嘉悦大学の間に入ります
前方にフェンスがありこの先は追いかけられません。
フェンスのところまで行ってみると暗渠蓋がなくなり小さな堀がみえましたが水は流れていないようでした。
さらに上流は小金井カントリー俱楽部のコース内を横切っているようですが現在はっきりした流路を見ることはできません。
倶楽部コース内に残る地形の窪みを外から垣間見てみる
正面前方3本の松の木などの先から土地が窪んでいるのですが、石神井川が刻んだ谷間の名残りではないかと思われます。
コース西端、住宅地との間を通る道路からは前方の谷底がうかがえます
左がゴルフコース内、右が住宅地になってかつては谷底を右から左に小さな流れがあったようです。
正面の道は谷底まで下りて先でまた少し上へあがってます。
谷底からスリバチ状の窪みになった住宅地内へはいると
井戸があったことがわかります(小平市鈴木町1丁目)
これはここに水みちがあったという証拠でもあります。
この周辺は50~60年前に造成された宅地、その前は畑地か水田だったようです。井戸は宅地化前に設けられた灌漑用だったのでしょうか。
正面の道を先へ行くと鈴木小学校前へ来て突き当たります。
右に鈴木小学校敷地
ここは馬蹄形に土地が窪んだ先っぽ〈[Ω]の上の部分〉。先ほどの井戸はこの左方向にあり、右小学校敷地はいわゆる谷頭にあります。
かつては湧水があったのですが現在は地形しか残っていません。この付近が石神井川の源流付近と考えられています。
鈴木小学校敷地西側は台地上の平坦部になりますが、そこの道路から校庭をのぞくと
低くなっていることが確認できると思います。その向こうに建つ住宅はさらに一段低い場所(1つ前の写真の位置)です。
鈴木小学校は建設時に旧石器時代の遺跡「鈴木遺跡」が見つかっており、昔からここが水辺で生活拠点となっていたことがわかります。
鈴木遺跡案内
鈴木遺跡(すずきいせき) 小平市鈴木町一丁目、回田町ほか
石神井川の水源部の谷頭(こくとう)部を取り巻くように分布する遺跡で、都内有数の規模をもっています。昭和49年(1974)、鈴木小学校の建設に伴って江戸時代の水車の水路跡などが見つかったことがきっかけで確認されました。
この遺跡からは、今からおよそ3万数千年前から1万5千年前の後期旧石器時代の遺物が数多く、また何層にもわたって発見され、わが国の後期旧石器時代を代表する遺跡となりました。中でも刃の部分を磨いて尖らせる局部磨製や打製の斧形石器は、この遺跡を代表する遺物のひとつです。
石神井川上流部、加筆したため長くなりましたが以上です。