文京区の境界、外周を一周中。前回の続き、道灌山通りを渡って千駄木よみせ通り商店街をぬけたところからです。
足あと地図・今回は西日暮里近くの黄色いポチ印から反時計回りに御茶ノ水までです
道灌山通りから200m弱でこんなところに出てきます。
風景を見てもわかりませんが、ちょうどこの足元付近から約130m(Googleマップで距離計測)の区間が貴重な(?)、文京区と荒川区の境界になります。
境界は足元の道路から左の細道に入り、その先でまた正面の通りに出て交差し、20mほど先までとなります。
左の細い道に入ってみると荒川区の住所標示がありました
荒川区西日暮里4丁目の表示があります。
正面が先ほどのまっすぐ伸びる道、その先茶色いマンションの手前までが文京・荒川境界です。ちなみにマンションは北区田端になります。
短い境界区間なんてことに興味を持つのは自分くらいかと思っていましたが、ちょうどここを歩いていた時、向こうからやって来た女性グループが偶然この境界のことについて話しをしているのが聞こえました。ちょっと驚きました。
そしてずっと歩いてきた藍染川(谷田川)の川跡とはここ、北区との境界に変わる地点で離れます。藍染川はこの先北区界隈では谷田川と呼ばれ、川跡は谷田川通りとなります。
文京区境は谷田川通りに入らず左折、次は北区との境界をたどります。
境界線は不忍通りのひとつ北側の細い通りに沿い、そこをトレースして歩きます。
田端銀座に出る
通称”タバギン”、マスコットはタバギンの文字をあしらったペンギンでした。
道路左側は文京区本駒込、右側は北区田端です。
北区と接する距離もさほど長くはありません。1000mほどで次の区、豊島区との境界になります。
正面アザレア通りはすでに豊島区
文京区・豊島区境界はあちこち入り組み、建物の間などを通過したりでなかなか忠実に境界線上を歩けません。それでもなるべく丁寧にトレースしていくつもりです。
六義園北側の門から
駒込駅に近い北側の門ですが、通常の出入口ではありません。
六義園は柳沢吉保の下屋敷として造られ、江戸末期まで柳沢家下屋敷として使用されました。
区境はそのまま山手線線路まで達します。
またあれこれ入り組みますが、再び六義園敷地の一角へ出てきます。
六義園西角(文京女学院前交差点)
そして国道17号、白山通り、中山道、名前がいろいろある道路との交差点へ。そのわりに交差点名がない。
北側巣鴨駅方向を向いて
渡った先、文京区側は千石となります。この周辺、古くはそれほど大きくはない武家屋敷が立ち並んでいた地域のようです。現在は閑静な住宅地です。
しばらく住宅地の中を境界線に沿ってあっちへ行ったりこっちへ戻ったり、うろうろ。
文京区千石3丁目
少し広い道へ出て坂を下ります
坂の下で左折すると小刻みなカーブの多い道路
この道は以前、”小石川”の流路でした。川は埋められて道路になりましたが、流れの跡はそのまま残っています。ここを少し、川の下流方向へ進みます。
小石川の川跡ですが、地名の小石川はもう少し下流にあり、このあたりの地名は大塚になります。
以前ここを歩きました。小石川跡を歩いたときのリンク。
文京区立大塚公園内へ
都立大塚病院内を通って、大塚公園内を区境界が通ります。
それから春日通りの大塚5丁目交差点、丸の内線新大塚駅上に出ます。
大塚5丁目交差点・新大塚駅上付近
春日通りを渡って南側へ、少し坂を下り浅い谷間を歩いていきます。
次は首都高速5号池袋線が上に被さる音羽通りの先へ出てくるまで、境界線は住宅密集地の路地や家屋の間を折れ曲がりながら進んでいきます。文京区側は大塚、豊島区側は東池袋という場所になります。
この間はほとんど一般の住宅であまり見るものもありません。単調です。
雑司ヶ谷霊園、護国寺墓地の間で音羽通り先(都道435号音羽池袋線)に合流し、そこから区境は護国寺墓地内の道に沿って南下します。
護国寺墓地は皇族専用の墓地である豊島岡墓地にも隣接して、というより豊島岡墓地が元々は護国寺所有地だったのですが。
墓地内を通らせていただきます。
護国寺墓地から
護国寺西交差点近くへ
この先へ下りて行くと音羽通り、不忍通りが交わる護国寺西交差点です。そちらに向かってはずっと下り、窪地へ下りて行くかんじで、都道側の坂道には「小篠坂(こざさざか)」と名前がついています。
護国寺西交差点を渡り、西側へ出ます。境界豊島区側は雑司が谷、文京区側は目白台となります。
区境が路地へ引っ込んだところに
清土鬼子母神(吉祥天)
雑司が谷の鬼子母神に祀られている鬼子母神像が発掘された場所(碑には”鬼子母尊神出現□”と刻まれています)がここなのだそうです。現在は雑司が谷七福神のひとつとして吉祥天が祀られています。
不忍通りから一段下におりたところで、通りからはちょっとわかりにくい場所かもしれません。おまけに少し湿気があって土臭いです。川跡?
不忍通りの北側をあれこれ折れ曲がりながら進み、目白台2丁目交差点で不忍通りの南側へ渡ります。
古い建物の酒屋さんの横を入っていくと急な下り坂が現れます。富士見坂です。
富士見坂上から
前方には新宿高層ビル群、富士山は見えそうもありませんが実際はどうなのでしょう?
坂を少しだけ下りた左側電柱の先、左へ分かれる道があり、そちらは石段となっている”日無坂”があります。区境界はそちら日無坂を通っています。富士見坂よりも古い道です。
2つの坂を隔てる場所に建つ古い家屋も含めてなかなか見どころある場所ですが、もう少し待ってからシャッター切るべきでした。
日無坂の石段を下りてそのままずっとまっすぐ細い道を進み、突き当たって左折します。
小さな商店街を通りぬけると今度は神田川が見えてきますが、その手前に肥後細川家下屋敷であった肥後細川庭園の入口が現れます。
門の手前から
ご覧の光景、ということでここで遠慮させていただきました。めでたしめでたし
代わりに庭園の後ろ側出入口から少しだけ中を覗きました。
池をいれて
駒塚橋上から神田川
川の左側一帯は椿山荘の敷地、かつては黒田家久留里藩下屋敷でした。
神田川を渡るあたりからは文京区と境界を接するのは新宿区となります。
文京区関口町1番地の古い住所標示を見つけました
古い家の前にかかっています。何年前のものでしょう。
区境界は早稲田大学近く、リーガロイヤルホテル前で新目白通りに出てこれを越え、新宿区早稲田鶴巻町や山吹町、文京区側は関口の間を通過します。
区の境界はすぐに商店街通りの1つ南側の道を入っていきますが、そこがまたちょっと水っぽいところです。
この細道が境界
変にくねったり行き止まったりの道があり、川の暗渠かなの推理、ここはさほど難しくはないです。
昔、蟹川という川がこの近辺で神田川に注いでおり、その流れの跡でした。
この細い路地も区境
まっすぐ先は目白通り、その向こうは神田川です。ここが水路だったかはわかりませんでした。
目白通り石切橋交差点付近で区境界は神田川上へ出ます。その先はずっと神田川の中央部が境界となり、一周の旅を開始した御茶ノ水までそのまま続きます。
ということでこのあとはずっと神田川に沿って歩くことになります。
石切橋を渡ってすぐ、神田川北側から
文京区水道あたりに差し掛かります。
この先あまり風景に変化がないので、一気に飯田橋まで行きます。
同じ歩道橋から飯田橋駅前
神田川はここで外濠と合流。車が滞留している方の橋が飯田橋で、手前の少しカーブしているのは船河原橋です。
船河原橋を渡って神田川の南側(右岸)へ出て、左方向へ歩いて行きます。橋の上あたりに文京区、新宿区、千代田区、3区の境界点があり、左へ行くと文京区、千代田区の境界となります。
JR線路の北側を歩いていくと、水道橋駅手前で緑に塗られた三崎橋を渡ります。
三崎橋手前にて
橋の下を流れるのは神田川から分流している日本橋川です。右の方へ流れて日本橋方面へ向かっています。
向こうへ流れるのが神田川、右へ入ってくるのが日本橋川。ちょっと殺風景、おまけにピンボケました。
水道橋を渡って再び神田川の北側(左岸)へ出ました
石造りのものが2つありますが、右側は現水道橋の親柱、正面にあるのが神田上水水路のモニュメントです。
近くには神田上水懸樋(掛樋)跡の碑があります
プレートの文字だけ読んでみました。
神田上水懸樋(掛樋)跡
江戸時代、神田川に木製の樋(とい)を架け、神田上水の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。
明治三十四年(一九〇一)まで、江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました。
この樋は、懸樋(掛樋)と呼ばれ、この辺りに架けられていました。
この絵は、江戸時代に描かれたもので、この辺りののどかな風情が感じられます。
平成八年三月 東京都 文京区
外堀通り、御茶ノ水へ向かって坂(御茶ノ水坂で良いのかな?)を上り、順天堂前の信号まで来ました。
順天堂前
右側を神田川が流れていますが、このあたり水面はずいぶん下の方、深いです。この付近の神田川は仙台堀、伊達堀の名前もあるように、江戸時代初期(1620年頃)、仙台藩伊達政宗によって本郷台の台地を開削して切通しとし、神田川の流れを導いたところです。
人工の水路、堀というわけです。その結果、台地は2つに分かれ、駿河台とよばれる台地が仙台堀南側に生まれたのです。
御茶ノ水駅西側で御茶ノ水橋を渡って再び川の南側へ、さらに駅東側聖橋口へ戻ってきました。
JR御茶ノ水駅聖橋口
文京区一周完歩です。歩いた距離は23㎞くらいだったと思います。