すこし前に歩いた、神奈川県中井町、大井町の里山の雰囲気がなんかいいかんじだったので、その続きとして歩けそうなところをピックアップ。今回は、秦野市の鶴巻温泉をスタート地点に、伊勢原市の三ノ宮、上粕屋、日向といった地名の土地を通って日向薬師に至り、薬師林道を厚木市にぬけて七沢温泉、七沢森林公園をぬけて森の里の住宅地まで歩いてみた。
このコースを決めるにあたっては、関東ふれあいの道(首都圏自然歩道)神奈川県コースの、No.10太田道灌・日向薬師のみち、No.11巡礼峠のみちの2つを参考にさせてもらった。
今回の行程
中井、大井の里山歩きノートはこちら
温泉という名のついた駅前は、大きなマンションなどが立ち並び、ふつうにベッドタウンの様相。その裏にまわると、何軒か温泉旅館などがあることが分かる。鶴巻温泉は弱アルカリ性塩化物泉だが、カルシウムの含有量が世界一多い(1960mg/kg)とのこと。
駅前から北方向へ歩くとすぐに上り坂、丹沢大山の山裾なのである。坂を上っていくと、東名高速にぶつかる。
東名高速の遮音壁と間をとおる陸橋
野菜を育てる温室のようにもみえる。このあたり住宅も多いので遮音は必須なんだろう。陸橋を渡るとまた階段で、それを上がると大住台の住宅地
住宅地の北側は国道246号になる。国道246号に出たところが関東ふれあいの道神奈川県コースNo.10「太田道灌・日向薬師のみち」のスタート地点で、案内看板も立てられていたが、さび付いちゃってよく読めない。脇の国道の排気ガスにやられたのか?
ここからの道は少々複雑なのだが、要所要所に木製の指導標があって、迷うことはなかった。(はじめのうちは)
国道を逸れ、農道のような小道にはいる。
小道とはいえ舗装されていたのに、さらにこちらへ行けと。指導標がなければ、この細い道へ行くとは思わない。脇はみかん畑
小さな神社、寺院の前をいくつか通過し、小さな上り下りを繰り返す。古い住宅と畑、林が混在する。そんなに遠くないところに大山(おおやま)の姿も見え隠れする。
向こうにみえるのは大山の裾を延びる尾根、右側のビニールハウスは東京農業大学の農場。
農場の中を通ったら、植物園のようにいろいろな種類の植物が植えられ、それぞれに名前が記されていて、まさに植物園。
そしてまたこんなところを歩いて行く
この手前で比々多神社を通るのが関東ふれあいの道の本来のコースだったようだが、この辺から指導標があいまい、というより自分が見落としているのだろうけれど。それで、神社の前に出ずにコースをショートカットしていた。まあ忠実にトレースすることが目的じゃないので、良し。
この先、「伯母様」という変わった名前の場所を通り、大山阿夫利神社登山口の近くから流れ下る鈴川を渡る。現代の大山登山道も、古い登山道も通る場所に出てくる。
古い大山道と交差
その解説板
右側の道標には寛政十一年とある。西暦では1799年。真ん中の庚申塔は享保六年(1722年)だ。
大山は江戸時代ごろから庶民の山岳信仰の対象となった山で、当時から大山参りが盛んに行われていた。あちこちから大山に向かう「大山道」もたくさんあったようだ。
近くに太田道灌の墓、入口(洞昌院)
道灌墓
墓前の左右にふたがされているのは松の切り株。伊勢原市HPによれば「道灌の四十九日の供養に当時関東にいた詩僧・万里集九(ばんりしゅうく)が祭文(さいもん)をささげ、植えた松と考えられます。」
太田道灌
永享4(1432)年~文明18(1486)年
室町時代の武将で扇谷上杉氏の家宰。資清(道真)の子。通称源六郎,道灌は入道名。父資清が相模国の粕屋(現伊勢原市)に本拠を置いていたため、伊勢原市で生まれたと考えられている。家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城したことで有名である。「足軽之軍法」を編み出した軍法師範ともいわれ,優れた兵術家,築城家,傑出した政治家でもあった。しかしその最期は、主君定正の糟谷の館(伊勢原市)に招かれて謀殺されるという不運なものであった。
そして墓所にあった解説
道灌墓の近くに上粕屋神社
神社の裏から坂を下って行くと、向こうに産業能率大学の建物が見えてくるが、周囲が大規模工事中。新東名高速道路とその連絡道にもなる厚木秦野道路の新設工事中。
産業能率大学の校門近くから北側の新東名高速工事現場
大学キャンパスは山のふもとの、のどかな場所だったに違いないが、あと数年で北も南も大きな道路と高架に挟まれた、哀れな風景になってしまいそう。
ここから県道をすすんで日向薬師に向かう道を目指す。途中で左折すると、山の方向へすすむ道路がそれだ。
道はじわじわと上りになっていき、正面に大山の山頂が望めるところに出てくる。
さらに、小さな古い橋を渡る
そうするとすぐに日向薬師の参道にはいる
階段をのぼると2体の仁王像のある山門
照明が点灯していて像がよく見えない。
門をくぐった先はまた階段
ようやく本堂の下へ
本堂(薬師堂)
2016年10月まで350年ぶりの本堂修理工事が行われていたとのこと。修理が完了してすぐの新しい本堂が拝めた。
なのでもう1枚
お寺や神社には疎いので解説はこちら
日向薬師の歴史(伊勢原市HPから抜粋)
日向薬師・宝城坊は霊山寺(りょうぜんじ)といい、日向十二坊と呼ばれたように多数の坊からなる日向修験の拠点の寺として栄えてきました。明治3年、神仏分離により別当(霊山寺の管理者)であった宝城坊のみが寺として残り、他の坊は帰農したり神官になりました。
寺の起源は縁起によると、奈良時代、霊亀2(716)年に僧・行基(ぎょうき)により開創されたといいます。これによると約1300年の歴史を持つことになります。本尊薬師如来及び両脇侍像は平安時代10世紀頃の作といわれています。また、境内から出土する布目瓦も10世紀頃までさかのぼるようです。境内の東に鐘堂があります。釣鐘は国重文ですが、これにある銘文に天暦6(952)年村上天皇が口径二尺一寸の銅鐘を奉納されたとあり、また仁平3(1153)年、鳥羽法皇(とばほうおう)の院宣(いんぜん)により銅鐘を改鋳したともあります。江戸時代になっても日向薬師では大山と違い、以前と同様修験道の拠点としてのあったと思われます。資料調査が進んでいないこともあり、詳細は不明です。
簡単にお参りなどして、本堂裏手の駐車場などがある場所へまわる。ここからは、大山方面、日向薬師裏側の日向山などに向かうことができるが、もう一方、薬師林道を歩いて厚木市七沢方面へ向かう。
薬師林道の途中にて
林道は最初少し上りのあとはずっと下りがつづく。林道の途中に、伊勢原市と厚木市の境界を示す標識があった。
遠方が望める場所から
正面はこれから向かう予定の七沢森林公園、森の里方面だろうか?
長い下り勾配をいいことに、速足になって坂を下り、七沢温泉のほうへ。
七沢温泉は山のふもとの静かな温泉地。旅館も数軒あって、温泉の規模的には、この日出発した鶴巻温泉とだいたい同じだと思う。鶴巻温泉のほうは駅前なので、住宅地として人の生活圏内の要素がより強く、人の数は多い。七沢温泉は純粋素朴に温泉地の雰囲気(近くに大きな病院などがあるが)。
一軒の旅館の脇から
七沢温泉の泉質は無色透明のアルカリ性単純温泉で、pHが9~10と高いそうだ。
温泉にはつからず、清川村、宮ケ瀬湖方面へ向かう県道を横断し、七沢森林公園を目指す。
県道を越えた先から、七沢森林公園の森を望む
坂下橋という橋を渡り、森林公園の入口へ。巡礼峠を目指す。
公園の入口に鹿よけの柵とゲートがある。
通ったときに会うことはなかったが、このあたりは鹿やサルといった野生生物が多くいるようで、ところどころで動物の侵入をふせぐフェンスを見かける。このゲートは鍵がかかっているわけではないが、止め金をはずして柵の向こう側にまわり、当然だが、ゲートを閉めて必ず止め金をかける。開けっ放しじゃ柵の意味がない。
七沢森林公園にはいる
赤土の道をしばらく上る。なぜこんなに土をむき出しにしてあるのかと思ったが、この公園も含めて東丹沢一帯、住宅地に近いところにも、ヤマビルがたくさんいることで有名になってしまっている。冬場はたかられる心配はほとんどないと思うが、ヒルは落ち葉の下などにいるので、その駆除も兼ねているのかなと推測してみる。
少し歩くと巡礼峠に着く。峠にあった関東ふれあいの道の案内板
巡礼峠については厚木市の解説板で
巡礼峠の近く、公園内の高台に「ながめの丘」というところがあったので上がってみた。
ながめの丘から(1)南東方向
ながめの丘から(2)東方向
標高としては200mにも満たないが、(1)からは相模湾、江ノ島など、(2)からは新宿、都心、横浜などの高層ビルが遠く見えた。
七沢森林公園から東側へ下りてくると森の里の住宅地
バス通りにぶつかったところに森の里五丁目バス停があったので、ここから本厚木ゆきバスに乗った。
この日の歩行距離は16.5km。