散歩の途中

散歩しながら観察して記録してちょっと調べて書くノート

浜街道を歩く その3 原町田から八王子

八王子と横浜を結んだ、またの名はたくさんあるけど”浜街道”。
前回は原町田、現在の町田駅近くの繁華街に到着。いったん出直して2日目は八王子を目指して進む。

浜街道足あと その3はえんじ色のライン

前回の離脱点5差路(2017年8月撮影)

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いい絵がなかったので以前右の通りへ歩いたときのを使いまわし。

今回は左の通りへ入っていく。そちらの道は「絹の道中央通り」という標示があった。この街道、町田では「絹の道」がポピュラーな呼び方のようだ。

少し行くと小田急町田駅、その出口横に「絹の道」の碑と解説板が建てられている。
絹の道碑と解説

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郵便ポストの手前。
碑の正面は「絹乃道」左面「此方よこはま」右面「此方はちおゝじ」と刻まれている。

解説板は文字おこし

絹の道
黒船到来により永い鎖国が開かれ 安政六年(一八五九)に横浜が開港されると 日本から欧米諸国への輸出品の花形になった”生糸”は主産地である長野・山梨や八王子から 町田を通って横浜へ運搬されました。
新編武蔵風土記稿に”神奈川道”と記された原町田中央通りは 東西文化の交流を果した中国の長安から地中海に至る古代シルク・ロードのように日本のシルク・ロードになりました。
そして原町田は 商業地形成の原点となった「二・六の市」を主軸として 生糸をはじめ諸物資の集散地となり 繁栄の基礎が築かれ今日に至りました。
この碑は歴史と伝統を受け継ぐ 原町田商人の証として 原町田誕生四百年を記念し 一番街商店会が建立しました。
昭和五十八年十二月吉日

碑の先はすぐに小田急線踏切

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踏切を渡って直進すると
森野交差点

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交差する道路は町田市内で通称鎌倉街道と呼ばれているが、この地点ではさほど古い道ではない。その旧道はこの日のスタート地点で右に分岐していった道にあたり、本町田あたりで2つの道は合流している。
こちら浜街道、絹の道、ここで今歩いているのは旧道にあたる道。この先滝の沢交差点で都道47号、現在の町田街道と合流する。

合流してしばらく行くと木曽交番前交差点先、地名では木曽東3丁目付近で旧道が左へ分岐する。
分岐地点

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左へ入っていくのが旧道。

旧道に入ってから振り返って

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左側にお地蔵様の祠。旧道この部分は昔の街道の面影がある。

少し先へ行くと覺圓坊というお寺があり、その境内横が古い辻になっている。

覺圓坊境内を望む

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手前の祠は庚申塔

道路反対側には古そうな家も残っている。

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止まれ標識の先が変則の四つ辻。左右に通っているのは大山道のひとつだが、御尊櫃御成道(ごそんびつおなりみち)と呼ばれた、徳川家康の遺櫃が日光東照宮へ移されたときに通った道といわれ、近くに木曽一里塚がある。
そちらは尾根緑道を歩いたときに少しふれている。

miwa3k.hatenablog.jp

この辻付近はかつて宿場があったとされ、街道の雰囲気が残っている。
付近の風景(浜街道旧道)

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このすぐ先に福昌寺山門と秋葉神社の鳥居が並んでいた。

福昌寺山門

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旧道は上宿交差点で再び新道(町田街道、以後「新道」で通す。)と合流する。

忠生、根岸という地域を新道で通過し、桜美林学園の広い敷地前を通って常盤へ。
常盤駐在所北交差点から町田市街地方面へは新道の新道ができていて、交差点がその分岐点。ただし常盤付近には短いながら旧道が残っていて、旧道を通ると新新道との分岐点は通過しない。

中常盤バス停付近の新道

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この付近の新道も拡張の対象になっているようだ。
左奥は先ほどもちょっと書いた、”尾根緑道”が通る段丘である。

またしばらく新道に吸収されている区間を行く。
先へ行くと小山(おやま)、小山郵便局前交差点の先で旧道が右へ分かれて行く。

旧道に入って

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右側には風化した石仏、庚申塔だったか、記憶が定かでない。

少し先にいったところにも道路両側に
石灯籠や石塔が並ぶ

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灯籠は1865(慶応元)年とあるので、ちょうどこの道を使って絹が盛んに運ばれた時期だ。

この旧道も最近できた”南多摩尾根幹線道路”とともに町田街道(新道)に合流する。この付近で道路拡張工事のすすむ新道と、ちょっと残った旧道を律義にたどり、5~600m先の名もない分岐点から再び旧道に入る。
この地点で現在の町田街道新道から浜街道(=絹の道)は離れていく。

すぐに京王相模原線の高架下をくぐり、都道158号を交差する。

その先の旧道、横浜方向を向いて

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このあたり道幅が特にせまかった。
この背後で新しく拡張された道路が横切っていて、そこへ右折する。ちなみに真っ直ぐ行くと田端交差点で再び町田街道に合流する。

右折すると長い上り坂道となる。この坂道に沿って小山田端自然公園があるのでその中を通った。
小山田端自然公園内から

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右側崖の上には巨大なマンションが数棟、その向こうは京王線多摩境駅という場所だ。

坂道を上がりきると八王子市

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右側歩道の向こうに黄色い車止めがいくつか見えるが、その先、坂を上がっていくと小山内裏公園、ほんの少し前に歩いた尾根緑道の道である。

尾根緑道・小山内裏公園から出てきて、同じ場所を見たもの

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ここで道は合流し、正面給水塔方向へのびる歩道に入る。

すぐ先で尾根緑道(鑓水小山緑道)と絹の道の歩道が分岐

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尾根緑道は左へ、絹の道歩道は直進し、しばらく広い遊歩道が続く。

ここの歩道に「絹の道について」という解説やルート図の案内があったが、汚れがひどかったので文字部分抽出のみ。

絹の道について
江戸時代末期から明治時代にかけて、生糸は輸出品の花形でした。この生糸の仲買い人として活躍したのが、鑓水商人と呼ばれたこの周辺の豪農です。
当時、遠くは群馬、また長野・山梨など関東一円で生産された生糸は、八王子を通って横浜港に運ばれていました。
その交通路の一つが「浜街道」と呼ばれる道で、この道は昭和年代になって「絹の道」と名付けられました。
横浜港が開港した安政6年(1859年)から、鉄道が開通する明治41年(1908年)までの約50年間、絹の道は、荷車や荷馬車の背に生糸を積んで横浜へ向かう商人たちで賑わいました。

絹の道遊歩道と鑓水(やりみず)公園入口

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「絹の道について」の解説で「生糸の仲買人として活躍したのが、鑓水商人…」とある鑓水は八王子市東南部のこの一帯。丘陵地帯で、現在は未開発の雑木林と新興住宅地が混在している。

絹の道の遊歩道は鑓水公園の先で終わり、その先は一般道になるが、そこに農家、郷土史家であった小泉家の屋敷が残っていて現在も住居として使われている。
こちらの文化財となっている屋敷、鑓水にあるが、鑓水商人ではないということでいいのかな。

小泉家屋敷

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東京都指定有形民俗文化財
小泉家屋敷
  [所在地、指定年月日は省略]
小泉家の主屋(建築面積一一二平方メートル)は明治十一年(一八七八)に再建されたものであるが、木造平屋建入母屋造、茅葺、田の字形四間取りで、この地方に旧来からみられる典型的な民家建築を示している。
屋敷地の面積は約三三・二アールで、南面した道路沿いは宅地、田畑地となっており、背後の畑地から北側にかけては山林で次第に高くなり尾根に達している。
敷地内には主屋のほか納屋・堆肥小屋・稲荷社・胞衣(えな)塚などが点在し、多摩丘陵地域の一般的農家の屋敷構・生活形態を知る上で貴重な民俗資料となっている。
平成十九年三月一日 東京都教育委員会

下の看板は八王子市教育委員会による、この周辺の史跡、文化財などを示した地図と解説。

小泉家屋敷前から先へすすむと都道20号と大栗川を渡る。川にかかる橋は「嫁入橋」、この付近の小字は嫁入谷戸(よめいりやと)という。変わった名前だが、現在の橋はごく普通。

嫁入橋の上から大栗川

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川の右側の道が絹の道。
そこを川の向こうに小さく見える御殿橋のたもとまで行くと古い道標が残されている。

八王子道道

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建立は1865(慶応元)年、正面は「八王子道」、左面「此方はら町田 神奈川 ふぢさわ」、右面「此方はしもと 大山 津久井」とあるようだ。

道はここで北西の方へ、ゆるい傾斜を登っていく。

その坂の途中に、かつての鑓水商人の屋敷跡を改造した絹の道資料館がある。
絹の道資料館入口

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ここに屋敷を持っていた八木下要右衛門は石垣大尽と呼ばれたそうで、修復はされているものの外側の石垣は見事だ。

ここからもう少し行くと峠道への入口、道が分岐しているところに3基の石塔が立っている。
八王子市史跡指定区間・絹の道への入口

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右の坂道を上がっていくと道路の舗装も途切れ、往時のたたずまいをとどめた道となる。

史跡指定区間の道

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この区間は東京都内で唯一「歴史の道百選」にも選ばれているそうだ。

ずっと坂を上がり、ピーク近くまでくると大塚山公園となり、そこに道了堂跡がある。
塚山公園、道了堂跡へ上がる階段

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左側は「絹の道」と刻まれた大きな石柱。

階段を上がると道了堂境内になる。1983(昭和58)年に解体されて現在は礎石が残るのみとなっている道了堂は、1874(明治6)年、鑓水商人により浅草花川戸から道了尊を勧請し創建されたが、絹の道の利用が少なくなるに伴って衰退したとのこと。

道了堂礎石

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このほかには石灯篭の一部、地蔵尊が残っているに過ぎない。あと二等三角点があったがお寺とは関係ないな。

再び階段の下へ戻り、舗装のない道を先へ進むと突然八王子市街地方面が開けた場所に出る。
高台から片倉台、八王子市街地方面を望む

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足元には長い階段

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現在は階段だが、昔はたぶん急な坂道だったと想像する。
階段の先を横切っているのは国道16号八王子バイパスとその消音壁。

階段を下りて八王子バイパスの向こう側へ出る。
そこからは住宅地のなか、長い坂をずっと下っていく。

片倉台中央公園付近

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最近になって造成された宅地には古い街道の痕跡もあまり残っていない。

坂を下り切ると兵衛川を渡り、JR横浜線片倉駅横を通過、
JR片倉駅近くでこれはたぶん旧道に一致する道

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もう1本別の川(湯殿川)を渡るあたりで、旧道は現在の国道16号に吸収される。湯殿川住吉橋付近からは国道16号を歩く。

ただ、八王子医療刑務所後ろ側にだけ旧道跡が少し残る。

国道16号に入って再び坂を上がり、頂上付近。
八王子医療刑務所の塀と旧道

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ここが一応、八王子に向かって最後の旧道区間。(八王子市万町、子安町付近)

再び坂を下っていくと八王子の市街地。
JR中央線国道16号線の交差地点は踏切

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今も国道がこんなところで踏切になっているのは珍しい。

踏切から北へ300mほど行くと国道16号と20号(甲州街道)の八日町交差点、浜街道、絹の道の起点、八王子街道の終点に到着する。

八日町交差点

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左右に横切る甲州街道、手前がここまで歩いてきた浜街道(=絹の道)。

角度を変えて

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右側車道との間にあるのは道路元標(一般国道八王子道路元標)の碑。書かれていた解説によれば、一般国道16・20号の八王子を示す距離の起点として、ここ八日町交差点の中央部に設置したとある。
このほか、絹の道、浜街道など街道名で記念したものは見当たらなかった。

 

街道の終端まで来ることができたので、ここで完了。

浜街道その1とその2

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