相模川中津川周辺で冬の田んぼを巡る散歩をしました

田園をおさんぽした記録です。
相模川左岸の座間から右岸の厚木、中津川沿いに愛川町まで足を伸ばし、再び相模川近く厚木市内から座間へ戻ってくる周回ルートで広い田畑のなかをメインに歩いてきました。

当然のことながら、真冬の農地は枯れ草と土の色、晴れていた空も一時曇りがちとなり全般に地味な色合い、風景です。『通好み』とでも言っておきましょうか(笑)

 

スタートは小田急線座間から。

駅から丘陵地を下って西へ、相模川の流れる低地に出るとすぐ冬の田んぼです。
JR相模線入谷駅近く神奈川のローカル線相模線の入谷駅ホームが真ん中あたりにあります。
まわりが田んぼばかりで何もないというのに目立ってません。
左遠くには隣りの海老名市街地あたりの建物がみえてます。

 

相模線線路を越えるとさらにひらけて


直進すると相模川河川敷に出ます。

右の座架依(ざかえ)橋を渡ります河川敷は『パークゴルフ場』、開園時刻なのか人が集まってます。

 

渡ってその続きの高架道路上から相模川対岸(右岸)は厚木市になります。こちらも川に近い低地は田んぼ。左の道路は圏央道です。

帰りはまた座架依橋を渡って座間市側へもどってきます。

右に見える段丘、中津台地(中津原段丘)を上がります。
中津台地は相模川とその西を流れる中津川の間にある、というか削り残された南北に細長い台地です。この付近で東西の台地の幅は700m程度しかありません〈台地の先端部です〉。

台地上は住宅地と畑が入り混じったところ。すぐ反対側の低地へ下ってしまうのでそのあたりは省略します。

 

台地西側のへりまで来て下を望むこちら側は中津川の流れる低地です。その向こうにはこちら側とほぼ同じ高さの台地があってその先丹沢山地へとつながっています。

対向する台地までは行かず、間の低地をうろうろします。

 

下へおりると善明川(ぜんみょうがわ)が流れています正面、森になっている中津台地の段丘崖に沿って流れてくる小さな川です。この背後、近くで中津川に合流しています。

善明川はこの時合流点から源流近くまで歩いていますが、詳細は次回まとめることにします。まとめたのはこちら

miwa3k.hatenablog.jp

 

 

なので今回は川沿いを少しだけ右が段丘崖、左が広大な農地(ほとんど田んぼ)です。

 

農地側の風景を移動しながら


途中にあったタイ式寺院『ワットラカンジャパン(WATRAKANG JAPAN)』の前から1枚中には仏像などがたくさんあるとのこと後で知りましたがこの時は入口まで。〈足元、金の招き猫もいたのですね〉

ちなみにこの寺院のうしろにも先ほどからの広い田んぼが続きますが、この先は段丘崖が中津川の流れ近くまで迫って狭間となります。

善明川についてもこの寺院近くが上流端になります。

 

中津川沿いに出ます


中津川と段丘崖の間をぬけます右が崖、左は中津川や周辺の湧き水を引き込んだ釣り場。
奥に見える斜めに上がる橋は中津大橋、のちほどあの橋を使って段丘の上へ

 

釣り場上流側の河川敷架かる橋は八菅橋(はすげばし)、その奥の小高い山は八菅山(はすげさん)。

 

八菅橋を渡りつつ中津川上流側を見て


渡ったところが「八菅山いこいの森」入口

いろいろ案内看板などがたってます

八菅山、下は愛川町サイトからの引用ですが

八菅山一帯は古くから、神仏混淆(しんぶつこんこう)の信仰の聖地でした。
日本武尊(やまとたけるのみこと)、役小角(えんのおづぬ)、行基(ぎょうき)などの来山が伝わっています。また、源頼朝や足利尊氏・持氏による堂社建築や整備が行われたといわれています。
永正年間(1504~1521年)の兵火による荒廃後、天文10年(1541年)に遠山甲斐守綱景が社殿を再建。貞享4年(1687年)、京都・聖護院(しょうごいん)の直末寺(じきまつじ)となり、本山派修験(ほんざんはしゅげん)の一拠点となりました。
回峰修業(かいほうしゅぎょう)は春と秋に、八菅山と大山の間の峰々で行われていました。山内には七社権現(しちしゃごんげん)と別当光勝寺(べっとうこうしょうじ)の伽藍(がらん)の他、五十余の院・坊がありましたが、明治時代の神仏分離令により光勝寺は廃され、七社権現は八菅神社と改称、今日に至っています。

先日初詣で訪れた日向薬師なども含めかつては一帯が修験の場だったようです。(大山、日向薬師など、それほど離れてはいません。〈修験には適当な距離感、ですかね〉)

八菅神社や見晴しのよい展望台などがある八菅山やいこいの森、写真まん中の案内板にある鳶尾山(とびおさん)(八菅山隣り、一等三角点のある山)には数年前、同じ冬の時期に一度来た事があります。
その時、2つの山のちょうど中間あたり、森の中を歩いているとき猿の群れに遭遇してしまったことがありました。
一匹が発した警戒音に多数のおさるが一斉にどどっと動き出す大きな音が怖ろしかった(こちらが襲われるんじゃないかと)こともあって、今回は山に入る気が起きません。

 

ここでUターン

再び八菅橋を渡り、続く中津大橋を上がります。

 

橋の上から中津川下流側対岸、右端あたりから出てきて左方向へ歩いて橋を渡り、こちらへ来ました。

 

中津大橋途中からも往きに来た道や河川敷などがよくみえました


再び中津台地へ上がると上は愛川町の市街、住宅などが多くある開けたところになります。
中津大橋を上がってすぐの場所、現在中津小学校の敷地内には「中津村役場跡」と書かれた石柱がたっていて、昔も村(現在は愛川町ですが)の中心地区だったことがわかります。

道路をそのまま直進すると「田んぼ」ではなく、かなり広い面積を占めて愛川町と厚木市にまたがる『中津工業団地』のど真ん中に出ていきます。
台地上のその広い土地は戦時中に相模陸軍飛行場として整備されたところです。
〈台地の上ですから田んぼにするには元々不適、飛行場ができる前は養蚕の桑畑などだったとか〉

工業団地のまん中を突っ切るのは避け、南の住宅地との境界を通る道にまわり込みました。

 

中津工業団地内の一部分

工場や倉庫がずらっと並び大型車両の通行もそれなりに多いですが、あまり気にせずやり過ごしていくと台地東側の崖まで到達します。
中津台地を往きに上がった先端あたり台地東西の幅は700m程度でしたが、より北側の工業団地あたりは2500mほどまで広がっています。

 

坂を下りつつ東側(相模川が流れる低地)方向をみて


崖地の道は結構な急坂もあり、21%勾配標識のつぎには
24%勾配標識この道路は上り一方通行になってます。

 

下ると〈👆の画の先にも少し写ってますが〉また広大な田んぼです。

その北側から南方向

こちらは厚木市猿ヶ島というところ

 

広大な農地の中央付近から北東の方向をみて遠くで横に長くのびる段丘は相模原台地になります。こちらと台地の間に相模川が流れているはず

 

少し進んでから

南東の方向こちらは農地が最近物流倉庫に変わりました〈少なくとも一昨年はまだ広大な田んぼの一部でしたが〉。倉庫の左のほう、さらに別の倉庫がつくられるようで工事がはじまってます。〈そのうちこのあたりの風景は一変してしまうのかもしれませんね〉

 

一連の新設倉庫群を通過してさらに先でふり返り倉庫の先はまた田んぼがひろがってます。左は中津台地の崖線、そのすそを圏央道が通ってます。

 

台地上の住宅や圏央道の車など


圏央道厚木PA付近で一般道に出ました高架道路は圏央道、左は相模川の河川敷、その奥に往きに渡った座架依橋が見えてきました。

 

座架依橋上から相模川上流方向


橋を渡って座間の田んぼ往きにも通ったところ、これよりスタートした座間駅までは同じみちを通っているので省略します。

 

最後に「梨の木坂」をあがります道路右側には「梨の木坂横穴墓群第一号・第二号」の解説板がかかっているのですが崖側にあるという横穴墓の様子はわかりません。

正面の高い建物のすぐ先に小田急線座間駅、この日歩いたのはそこまでです。