目白崖線・落合崖線にかかる名前付き坂道を順にたどり、山手線目白駅近辺まできました。
駅の西側すぐ銀鈴の坂と豊坂、2つの小さな坂道から。
◆銀鈴の坂〈ぎんれいのさか〉
豊島区目白3丁目、目白通り目白駅前交差点信号から南側へ下る階段坂があります。これが銀鈴の坂です。
坂上から
数段下りて
坂は途中で折れ曲がっています。ステップを数えたら踊場を境に上が17段、下が13段の合計30段。短いけど階段なので急坂ってことになります。
下側のステップ
同じく坂下から全体を見上げて
近くの女子大への通学路でもあり学生が頻繁に通ります。
階段坂下からカメラを構える、という行為にちょっと神経を使いました。
坂下から先はすぐ目白駅ホーム
左側にはエレベーターがあって駅前へは階段を使わなくても行き来できます。最近設置されたエレベーターの名称は「銀鈴の塔」です。
坂道に標識などはありませんが〈目白駅と地域〉という解説板が付近にあり、その中に坂のことも少し書かれています。
付近にあった清らかな湧水を偲び、「銀鈴の坂」の名が2004年豊島区によって道路の通称として付与された、というような内容でした。
前回最後に取り上げた「学習院椿の坂」と命名は同時ですね。
◆豊坂〈とよさか〉
銀鈴の坂を下り、目白駅ホーム脇を数十メートル行った右側、豊坂の坂下に出ます。
豊坂の坂下、というより入口
細くゆるい坂道は坂上近くで右に折れ、すぐまた左に折れて平坦となります。坂の長さは30m程度です。
坂の左側には旅館がありましたが、訪れたときには更地となり工事用シートがかかってます。
坂途中にある目白豊坂稲荷神社、下側から
鳥居の前を過ぎて振り返り
さらに右折して坂上から振り返る
背後でこの道は細いまま平坦になり、川村学園女子大学の正門前へと続いていきます。銀鈴の坂からそこまでが一連の通学路です。
文京区目白台1丁目にも同じ名前「豊坂〈とよさか〉」があります。
こちらの豊坂は豊島区目白3丁目、坂名の由来など詳しいことは拾えませんでした。
以上の2つの坂は本来の目白・落合崖線に直接かかるものではなく、崖線から台地側に切れ込んだ谷の側面にある坂です。山手線もその切れ込んだ谷間をうまく利用して線路を通し、線路の勾配を少なくしています。
《目白駅、学習院大西側周辺の窪地は古く「金久保澤」の名前があったこと、後で知りました。》
この後は再び目白・落合崖線の下側へ出て、さらに西側にある坂道を見に行きます。
山手線の西側は新宿区になります。区域が北西側に張り出した落合地区、どこで分けるか決まってるわけでもないので、この先は落合崖線の名称を使うことにします。
西に向かって相馬坂、七曲坂、おばけ坂の3坂を今回はたどります。
◆相馬坂〈そうまざか〉
新目白通りの1本北側の道路が山手線の下をくぐるところ、「山手線・新井薬師道ガード」と記されています。落合崖線の直下をなぞって通る新井薬師道に入ってガードから200mほど行ったところ、崖線の勾配に沿って「おとめ山公園」があります。
公園一帯は江戸時代、将軍家の狩猟地で一般の人が出入りできなかったため、御留山、御止め山、御禁止山などと記されました。明治になって近衛家の所有地になり、大正年間に(相馬藩出身)相馬家が西側のおとめ山公園部分を取得して池泉を中心とした回遊式庭園を築造し、現在の原型となったといいます。
おとめ山公園の西側を北へ向かって上がる坂が相馬坂です。公園の中央を通る〈おとめ山通り〉、東端を通る道なども北へ向かって上がる坂道ですが、そちらは坂名不詳、相馬坂だけが名前付き坂道として挙がっています。
おとめ山通りの坂道(こちらは無名坂)
新井薬師道の落合四小下交差点が相馬坂坂下になり、すぐに坂がはじまります。
落合四小下交差点から相馬坂
道路左端に坂名標柱があります。
相馬坂(そうまざか)
この坂に隣接する「おとめ山公園」は、江戸時代には将軍家御鷹場として一般人の立入りを禁止した御禁止山(おとめやま)であった。この一帯を明治時代末に相馬家が買い取って屋敷を建てた。この坂は新井薬師道から相馬邸に向け新たに通された坂道であるため、こう呼ばれた。
同じ文言が書かれた標柱は坂上にもありました。
上り始めて少し
坂道は中ほどからわずかにS字に曲がっています。勾配は坂下からやや急で、坂上近くで少し緩くなります。坂の長さは200mほどです。
左へ曲がる直前で坂上方向
上がった先で次は右にわずかにカーブしています。
少し上から振り返り
下の新井薬師道の交差点前方は平坦、先ですぐ新目白通りにぶつかります。
坂上に近づき下方向
左側一帯はおとめ山公園、右側は落合第四小学校。このあたりから上は勾配もゆるくなります。
ほぼ坂上から
左はおとめ山公園、右は落合中学校に。
公園は崖地にあり湧水があります。かつての相馬家邸宅の庭園にもひかれていた水でしょう。
湧水の水辺付近
”東京の名湧水57選”のひとつに選定された湧き水ですが残念ながら水量は現在ごくわずか、写真を出すほどでもなく。季節的にヤブ蚊がしつこく水辺は早々撤退しました。
◆七曲坂〈ななまがりざか〉
相馬坂の下から新井薬師道を西に200mほど、そこから北へ上がる坂道が七曲坂です。
坂下、道端にお地蔵様がおります
坂下を横切る新井薬師道、七曲坂は周辺の坂道の中でいちばん古い道と言われ、それらが出合う場所には石仏石像などがいかにもありそうです。
道の左には坂名標柱もあります。坂上にもありますが先に読んでおきます。
七曲坂(ななまがりざか)
折れ曲がった坂であることからこの名がついた(『江戸名所図会』)。古くは源頼朝が近在に陣を張った時、敵の軍勢を探るためにこの坂を開かせたという伝説がある(『遊歴雑記』)。
以前あった標柱の文言も別途拾えたので
七曲坂
『豊多摩郡誌』には「七囲(めぐ)り坂 馬場下通 御禁止(おとめ)山の麓にあり、大字下落合字丸山と同本村の中間にあり。曲折七ヶ所より成れる坂路にして昔より本名を得たるが、明治三七年開穿して交通の便に資せり」とある。落合では最も古い坂道のひとつで『若葉の梢』に「頼朝公和田山に御出陣の時、軍勢をはかり給わんとて、七曲坂を開かせ給へりと也。上は鼠山、西は玉川と猪の頭の落合に行き 柏木えもん桜へも近し」とある。
平成三年九月 東京都新宿区教育委員会
7回曲がっているかはともかく、坂下からはまず右にカーブしています。勾配は”中程度”といったところでしょうか。
少し上がってその上を
途中から急坂によくある丸い窪みつきコンクリート路面になります。勾配もたしかにきつくなります。
さらに上がり、下を見て
たしかに細かく左右にカーブしています。このあたりは切通し、古い坂だとすれば最近になって勾配を緩くするための改修工事をしたのかと思います。
坂上に近づき
右カーブ付近から勾配は緩くなっていきます。
その右カーブの上、坂上付近から下を振り返り
周辺のほかの坂道と地形的な変化はさほどないはずですが、この坂道は急なうえに長く感じました。地図上で測ると長さは210mです。
すぐ東側にさらに曲がりくねった細い坂道が存在しますが、そちらの開通は比較的新しく、実はそちらが七曲坂、ということはないようです。
坂上のその先
十字路のその先へもう少しだけ上がってます。右向こうは公園でしょうか。その手前小さなスペースに庚申塔がひとつ置かれてました。拡張される前の道端にでもあったのでしょうか、これも古い道であることを示す存在です。
坂の別名は古い解説文にもあった「七囲坂〈ななめぐりざか〉」があります。
◆おばけ坂〈おばけざか〉
七曲坂坂下から新井薬師道を西へ100m弱、鬱蒼とした大きな樹木が何本もあり、うす暗く分かりにくい入口を入っていくと下落合野鳥の森公園があります。その周囲をまわるようにあるのが、おばけ坂と呼ばれる細い坂道です。車で通過することはできません。
野鳥の森公園西側には隣接して薬王院(東長谷寺>総本山は奈良長谷寺)という寺院があります。
下落合野鳥の森公園へのアプローチ
正面の階段が公園入口。
入口を右に折れ、道なりに入っていくと坂下
坂は左の公園を回り込むように上がっていきます。
公園の反対側、正面などもつい数年前まで鬱蒼とした林が続いて昼間でも暗く、そして何か、打ち捨てられたような雰囲気の場所でした。「おばけ坂」という名前がぴったり。現在はまるで暗闇の蓋がとれてしまったようです。
坂の途中左カーブから上
古い土留めの壁だけが。
その先から振り返り
公園反対側にあった木々はほぼ取り払われ、新築の建物が建てられています。
次の右カーブから
ここも右上はかつて古い民家と林でしたがマンションが建ってます。
その建物の上側から
ほぼ坂上、ここにも不安定な道路側面がかつての名残りをとどめてました。
坂上から坂道入口を望む
坂上、左側は立派な門もある古い日本家屋の邸宅です。門の右側が坂の入り口。
この坂道に標識などはありません。
坂名由来もあまりはっきりしないです。”お化け”から来ているというよりも、崖線、崖地形を南関東では「はけ」と呼び、それが転訛して「ばけ」「ばっけ」、さらに「おばけ坂」となったのかもしれません。この近くには「バッケの坂」も存在しています。
今回は以上5つの坂道でした。
下の坂道地図11~15にあたります。(数字がかぶり、見にくくてすみません。+で拡大していただくと何とかなると…)
地図
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