散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

東海道を歩く その5 小田原から箱根

小田原宿から箱根の山登り、箱根関所の向こう側、箱根宿を目指す。
行程

箱根八里と言われるが、八里(約32km)一気の山越えは少々きつそうなので、とりあえず山の上まで。
前回到着した、小田原宿のほぼ中央にあたる、御幸の浜交差点に向かう。
小田原駅東口

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東口からは小田原城「お堀端通り」をまっすぐ行く。そのお堀に架かっている、学橋

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この橋は、昭和4(1929)年に城内小学校が二の丸に移転した際に竣工したものだそう。それ以前には存在しなかった。
御幸の浜交差点で国道1号東海道)に出て、右折して箱根方向へ。小田原宿内から板橋の先にかけては、ところどころに古い建物が残っている。
小西薬局の建物

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現役の薬局だが、街かど博物館という幟がたっている。

小田原市HPから)
小田原の産業にかかわるひと・製品・ものづくりの結びつきを知ってもらうことにより、小田原の魅力を高めようとするのが「街かど博物館」です。

そのひとつに指定されているのがこのお店。

薬博物館(済生堂薬局小西本店)
薬研や秤、明治・大正時代のお店の写真などを展示しています。建物は、関東大震災で倒壊した明治時代のものを大正年間に復元したものです。石造りの薬種蔵を内包した純和風の木造建築です。

板橋見附近くの光円寺の大きなイチョウの木

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この木、交差点の近くから写真に撮ったら、全体が入りきらなかった。
板橋見附は小田原宿の京方の入口。ここで国道1号線を折れ、旧道にいったんはいる。
旧道沿いの廣瀬畳店

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下田豆腐店

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この店にも街かど博物館の幟がある。

関東大震災後に建てられた出桁(だしげた)造りの建物が、独持の雰囲気を醸し出しています。店内には、おかもちを担いだ行商姿の写真など、店の歴史をパネルで紹介しています。

内野邸(武功醤油醸造工場)

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建物の前に解説板があった。

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このような風景が見られる、板橋の旧街道。旧道はこの先でいったん国道1号と合流する。
国道1号上から箱根方面を望む

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国道1号をしばらく行くと小田原厚木道路の高架をくぐる。くぐったところに分かれ道があり、踏切を越えていくと再び旧道に入る。
箱根登山鉄道の線路と国道1号小田原市風祭)

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旧道の途中で、一般の民家のようですが

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入生田駅の先で再び踏切を渡る。

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踏切の先で小田原市から箱根町にはいる。
またこの先で国道1号に合流するが、すぐにまた旧道に入る。ここは国道に合流するところで旧道から出てきた側に歩道が見当たらず、信号も横断歩道もない。それでも車の途切れたすき間をぬって道路反対側の歩道に渡り、次の旧道入口ですぐまた横断歩道のないところで道路を渡りと、かなりあぶない。と思ったら旧道から出てきた側には階段があってそこを通るようになっているようだ。たまたま道路工事も行われていたせいか、階段に気づかなかった。
ここの旧道は現在の国道のすぐ裏手を通っていて、車の音が響く。そしてすぐにまた合流してしまう。合流するところが箱根新道との分岐の交差点。その先、三枚橋交差点まで国道をすすむ。三枚橋国道1号を折れ、橋を渡る。
三枚橋のうえから箱根湯本方向

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下は早川、前方が箱根湯本駅で、その先は湯本温泉。国道1号は湯本温泉のほうへ伸びているが、橋を渡ってこれからすすむのが旧東海道。このあたりから坂道の傾斜が少しずつ急になっていく。まあ旧道とはいえ、県道(732号)なので車の往来は結構ある。
箱根湯本温泉と箱根新道の間を坂道でずっと登っていくと、湯本茶屋に一里塚跡

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江戸から二十二里と刻まれている。ちなみにここには塚はない。
この近くに箱根旧街道入口がある。

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県道から分岐したこの奥に石畳の道が現れる。

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ただ、ここの石畳はほんの250mほどでおしまい。県道に合流する。
須雲川と箱根新道にはさまれた県道は、湯本温泉近くよりは幅が拡張されている。森林地帯にはいってくるため、周囲の眺望はあまりきかないが、時々いい景色。

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箱根新道須雲川インター近くで

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須雲川の集落の先、寺院の下、道路沿いに小さな滝があった。

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この先で須雲川を渡る。渡る手前に「須雲川自然探勝歩道」という看板が立っていて、旧道も兼ねているのかとそちらへ進みそうになるが、そちらは旧東海道ではなく、ジオパークの一環として新たに整備した歩道のようである。近くには解説板が立っていて、そこには地層、マグマといった個人的には非常に興味をそそられる分野の内容が書かれていたのだが、今回は寄り道なしとして、そのまま県道の須雲川橋を渡る。
須雲川橋のうえから、須雲川上流方向

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橋を渡るとヘアピンカーブの先に妙に派手な鳥居が存在するが、旧東海道とは関係なし。触らぬ神に祟りなしということで、見て見ぬふりして通過。
その先、「女転ばし坂」「割石坂」とある。
後から知ったが、女転ばし坂は須雲川自然探勝歩道側にあり、その先が割石坂となって現在の県道に合流しているので、向こう側の自然探勝歩道を通ってもよかったようだ。
割石坂のところで旧街道の石畳の道へ入ることができる。ここには「江戸時代の石畳」というのが残っていた。

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江戸時代の途中で

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残っている区間はほんの数十メートル、案内がなければ江戸時代のものかどうかはわからなかったと思う。
一旦県道に合流するが、ほどなく道路わきに「箱根旧街道」の立て札があり、細い道が森の中へ下りていく。
須雲川の支流にかかる木橋を渡る。

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木橋を渡ると上りになり、急な石畳の坂を上がり切ると畑宿に着く。このあたり下が湿っていて石畳がとても滑る。特に下りは危険。
畑宿手前の坂

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畑宿に入って、バス停の付近

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畑宿は箱根寄木細工の発祥の地。江戸時代には茶屋があり、のちには小田原、箱根間の間の宿として旅人の休憩所となっていたそうである。
現在も道筋に寄木細工の工房や売店がいくつかある。
街並みの様子、小田原方向へ向かって

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一里塚も道の両側に2つとも、石垣を備えたものが残っている。

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塚自体は発掘調査を行い、復元したものとのこと。2つの塚をいっしょに撮ることができなかったので片方だけ。畑宿一里塚は江戸から二十三里。
畑宿から先は坂の傾斜がいっそうきつくなる。県道の車道、箱根新道も七曲りと呼ばれるヘアピンカーブの連続する区間にはいる。
旧街道の歩道は畑宿からしばらく石畳の坂道だが、県道と合流してその歩道を歩いたり、車道をバイパスする歩道が階段になっているところがある。江戸時代の街道がどのように通っていたかはこの区間、正確にはわからない。ただ、急斜面で相当な急坂だったことは確かだ。
畑宿の先の旧街道石畳

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橿木坂(かしのきざか)の立て札

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橿木坂を上がった付近からの眺望、見えているのは小田原方面

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立て札にも坂を上がる昔の人のエピソードが書かれているが、正直、このあたりから余裕がなくなる。上りがきつい。
橿木坂を登りきっても、その先も傾斜の緩急あるものの、だらだらと登り坂が続き、階段になっている場所もまだある。そして一旦登りが緩やかになると甘酒茶屋まで来る。
甘酒茶屋の建物、裏の駐車場側から

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ここまでくればもうきつい上り坂はないだろうと、休憩もせずに先へ進んだ。
旧街道が県道を横断していて、横断した先に「箱根旧街道」入口の立て札

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この前後、石畳の道だが、この先は上りがきつくなる。いよいよ箱根外輪山のピークを超えるところがやってきたのだが、高をくくって休憩せずに歩いてきたせいで、またきつくなる。息が上がって余裕がなくなる。なんと現在石畳が残っている場所で一番角度のきつい急坂がこのあたり、とのこと。
脇に排水路のある石畳

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雨水などを排水するための水路がつけられている。場所によっては石畳を横断するように斜めに排水路がつけてあるところもある。昔は悪天候の日の通行はさぞかし大変だったろうと、息をあげながら思う。
そして峠は突然やってくる。坂の傾斜が緩やかになったと思ったらすぐに下りだす。

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石畳の下りは楽かといえば、決してそんなことはない。すべるのと、表面が平らでない石でバランスを崩しやすい。体の負担がかかる場所が違ってくるだけで、歩くのに結構きついのは変わらない。
それでも、歩いて行く先に芦ノ湖の水面がちらりと顔をのぞかせたときは、やっとここまで来れたと思った。
箱根の石畳について自分なりにまとめてみると

箱根旧東海道の石畳は、部分的には江戸時代のものが残っているが、ほとんどは昭和以降に再整備されたものだ。その大きな理由は、関東大震災(1923年 大正12年)、北伊豆地震(1930年 昭和5年)の相次ぐ大地震地震により、道路の崩壊、周辺の崖崩れなどが起き、壊滅的な被害を受けたことによる。この先は推測だが、その後、戦時下で復旧もままならず、整備がはじまったのは日本が高度成長期にはいり、観光の機運が高まった後のことではないだろうか。
石畳の歩道といえば、聞こえはいいけれども、実はとても歩きにくい。江戸時代に軍勢の進軍を遅らせるため、意図して平らに整備しなかったという話もあるが、度重なる風雨雪によって、周囲の道路含め荒れてしまっている部分もあるように思った。

元箱根に着いて一般道と交差し、杉並木の歩道に下りる手前

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杉並木の歩道

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「元箱根、箱根峠を経て三島に至る」と書かれている。その向こうはケンペル・バーニー碑

エンゲルベルト・ケンペルは元禄年間オランダ通信使の医師として来日したドイツ人で、彼の死後、弟子たちによってまとめられた『日本誌』は、全世界に日本の文化や諸相を広く紹介したものである。
シリルモンタギュー・バーニーは、大正年間に芦ノ湖畔に別荘を構えたイギリス人貿易商で、彼は『日本誌』の序文を引用し、石碑に刻むことにより、「箱根の美しさを子孫の代まで守り伝えなければならない」という“自然保護の精神”を我々に訴えかけた。

芦ノ湖の湖畔に出てみた。元箱根の遊覧船のりば近くから

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向こう、箱根神社の鳥居のうえに富士山。
箱根恩賜公園のほうへ少し近づいて富士山

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まん中の街路灯が邪魔だが、杉並木の間から富士山

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この辺はちょっと移動するだけで富士山の見え方が結構変わってくる。
このあたり杉並木のなかは小砂利が敷かれている。

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しばらく進むと箱根恩賜公園の駐車場入口兼箱根関所入口の道路から、関所跡へ
関所跡近くの芦ノ湖

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例によって箱根関所については、解説板で

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以前来たときとだいぶ様子が変わっていたと思ったら、最近になって復元工事をしたとのこと。(最近といっても10年ほど前だが)
京口御門の様子

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江戸方から歩いてきて、無事箱根関の京口をぬけたところに立つことができた。ここからが箱根宿の宿内になる。

箱根宿について 国交省関東地方整備局東海道Q&Aから長々と引用すみませんです。)
箱根宿の成立年代は確定されていませんが、『新編相模国風土記稿』によれば、元和4年(1618)に、箱根山越えの便宜を図るために宿場を新設したと記されています。
さらにその場所については、土俗の伝えとして、幕府は初め、古くから箱根権現の門前町として栄えた元箱根を宿場としようとしましたが、それができなかったため、芦ノ湖畔の原野で人気のない今の箱根町箱根に宿場を設置したといわれています。
このとき、隣宿の小田原宿と三島宿からそれぞれ50軒ずつ移住させ、宿場を設けたのです。現在の箱根町箱根には、字として小田原町三島町という名前が残っていますが、この字名はこのときに由来するものと伝えられています。
ところでこの字名は、たんなる表記という意味ばかりでなく、小田原町小田原藩領分であり、三島町は三島代官所(宝暦期以降は韮山代官所)が管轄する天領であるという意味を持っていました。つまり江戸時代を通じて箱根宿は、1つの宿場でありながら、2人の領主を持つという特殊な宿場だったのです。このような支配形態を持つ宿場は、東海道五十三次の中で箱根宿だけです。

いまも箱根の観光は鉄道会社の小田急系と西武系で張り合ってるし、という話はあまり関係なく。
何とか無事に箱根宿まで到達したので、本日はここで引き揚げ。箱根関所跡のバス停から、小田急系のバス会社で湯本・小田原方面へ下った。

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箱根新道経由のバスが速くてよし。
本日の歩行距離は18.4km。距離的にはさほど長くないが、山登りには慣れてないことを露呈したのであった。

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