日向薬師(ひなたやくし)へ、大きな声じゃ言えませんけど、初詣。だって年が明けて二桁の日数が経ってからです。三が日も、初薬師の行事がある8日も逃してるんです。
ということで冬晴れの一日、神奈川県伊勢原市、大山の麓にある日向薬師へ向かい、その後厚木市の七沢森林公園などを経由して厚木の街まで歩いてまいりました。
天気はいいけどいきなり逆光、こりゃ手に負えない…
通常、日向薬師へはこの隣り、伊勢原駅からバスを使います。ここからだと距離は少し長くなるものの、車の少ない細道をずっと歩けるので良いのです。
厚木市小野、玉川沿いに出ます。
昨年この玉川を歩きました。このへん川沿いに歩道が整備されてます。
正面は大山、あの麓まで行きます。
川べりから離れて
ゆるい坂をおりた、家の近くに実蒔原(さねまきばら)古戦場の案内がたってました
代読します。
伊勢原市指定史跡 実蒔原古戦場(さねまきばらこせんじょう)
所在地 伊勢原市日向・西富岡 指定 昭和44年2月27日
文明18年(1486)7月26日、太田道灌が相模国糟屋(伊勢原市)にあった、主君扇谷上杉定正の館で謀殺されました。道灌没後、山内上杉氏と扇谷上杉氏の間に対立が生じ、ついに長享元年(1487)戦端が開かれました。長享の乱の勃発です。
相模や武蔵国内などで両者の抗争が続く中、長享2年2月5日、扇谷上杉氏の本拠地糟屋を押さえようと武州鉢形城(埼玉県寄居町)から出兵した山内上杉顕定は、軍兵一千騎をもって押し寄せました。
山内勢は糟屋の背後に当たる定正の弟、朝昌が守る七沢城(厚木市七沢)を攻め、城は落城しました。
これに対して、定正は手兵二百騎余で河越城(埼玉県川越市)から駆けつけ、両軍は実蒔原で激突しました。実蒔の地形を熟知していた扇谷勢は、寡兵にもかかわらず、山内勢を打ち破りました。
定正は後にこの合戦のことを「二度と学ぶべからざる行い」(上杉定正状)と述べています。
山内勢の中には太田道灌の実子・資康がいました。
なお、従来朝昌は七沢城落城時に討死したようにいわれていましたが、後に大庭城(藤沢市)を守備するようになりました。
平成22年3月 伊勢原市教育委員会
しだいに大山の手前にある山々が近づいていきます。
下は先ほど玉川の支流、日向川(ひなたがわ)
もう少し行くと大山の山頂が隠れてしまいます
日向川に古い橋
橋は伊勢原方面からのバスが通る道路です。歩いてきた道と合流して日向薬師までもうすぐです。
表参道入口に到着
参道を入るとすぐ右側に石仏石塔がいくつかあります。
しばらく行くと階段
ここから薬師堂(本堂)の前まで階段と登り坂が続きます。
いわゆる縁日を逃しているせいなのでしょうか、誰も人がいません。
しばらく上がって行くと仁王門(山門)
仁王像についての解説がありました。
伊勢原市指定文化財 金剛力士像 二躯 昭和57年2月5日指定
金剛力士は仁王ともいわれ、寺の表門にて境内を守るとされます。向かって右側は口を開いて左手に金剛杵(こんごうしょ)をとる阿形(あぎょう)像で、像高は3.50メートル、左側の一体は口を閉じて右手を開いた吽形(うんぎょう)像で、像高は3.52メートルです。ともに寄木造(よせぎづく)りで、朱漆(しゅうるし)により彩色されています。
火災により仁王門とともに焼失しましたが、本堂の賓頭盧尊者像(びんずるそんじゃぞう)の台座裏には、天保4年(1833)、賓頭盧尊者像の修理とともに再興されたことが墨書きされていました。
作者は鎌倉扇谷(おうぎがやつ)の仏師、後藤真慶です。
平成28年3月 伊勢原市教育委員会
阿形像・吽形像
参道
本堂下の階段
日向薬師本堂「宝城坊本堂」
国の重要文化財。3年前に本堂の大修理(350年ぶり)が終わっています。
今年の初薬師も終わって、片付けの最中でした。
日向薬師のサイトから
沿革
当山は奈良時代初頭の霊亀2年(西暦716年)に、僧行基により開山されました。
僧行基が熊野を旅していた際、薬師如来のお告げにより、相模国のこの地(現在の神奈川県伊勢原市)に、
日向山 霊山寺(ひなたさん りょうぜんじ)を開山した、と伝えられています。
本尊 薬師瑠璃光如来(鉈彫り 国重文)
真言 オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ
日向薬師(ひなたやくし)は、元の名を日向山霊山寺(ひなたさんりょうぜんじ)と称した薬師如来信仰の霊場で、関東地方では有数の古寺である。本尊は平安時代前期に作られた鉈彫り(なたぼり:像の表面にノミ目を残して仕上げる彫刻様式)の薬師三尊像である。また宝物殿には阿弥陀如来や四天王、十二神将など23体の仏像が納められている。これらを含め国の重要文化財9件、神奈川県および伊勢原市指定の文化財を多数所蔵する。
寺伝では霊亀2年(716年)、行基の開山という。寺に残る梵鐘(暦応3年・1340年鋳造)の銘文や、鎌倉時代の史書『吾妻鏡』も当寺を行基の草創としている。ただし実際の創建は10世紀頃と推定されている。
一時期は勅願寺になり、江戸時代末期には 12坊を数えたと言われる。
廃仏毀釈で多くの堂舎が失われ、現在は霊山寺の別当坊であった宝城坊(ほうじょうぼう)が寺籍を継いでいる。
本堂、左の方からも
内部は写真撮影できなかったので境内の解説から
本堂は寄棟造、茅葺の七間堂で南面している。内部は前方二間を土間床の外陣、後方三間を板敷の内陣で、内外陣境の中央五間は中敷居に引違格子戸を構えている。天井は内外陣とも側廻りの一間通りを化粧屋根裏、内側は竿縁(さむぶち)天井となっている。
すいません、これでイメージできたらおめでとうございます。💦
宝城坊鐘堂
左に置かれた銅鐘は暦応3年(1340)の銘文を持っているとのことです。
かつては後ろの日向山、奥の院に祀られていたそうですが、境内に移され、幹が空洞となった古い樹の中に祀られています。
だいぶ長居してしまいました。
お詣りの後は境内横を通る林道へ出ました。林道側には駐車場があり、皆さん車で来てそこから入ってくるのですね。急な階段のぼる必要ないし、参道に人がいなかったのに本堂などにはいたわけがわかりました。
たくさん歩いてきた分ご利益マシマシで、なんて都合のいいこと思いますが、おみくじによる今年の運勢はさほど芳しそうなものではありませんでした。
日向薬師から少し山側へ入ったところに浄発願寺(じょうほつがんじ)という三重塔が目立つ寺院があります。そちらへも足をのばして立ち寄りました。
浄発願寺三重塔近くから
本堂
こちらも案内を簡単に抜粋します。
無常山浄発願寺(むじょうさんじょうほつがんじ)は、上野寛永寺の凌雲院の末寺となる天台宗弾誓派の寺です。創建は慶長13(1608)年、ひたすらに修行に勤しみ、口にするのは木の実や草だけという木喰の僧、弾誓上人によります。江戸に幕府を開いた徳川家康が上人に深く帰依したことから、寺は代々幕府の手厚い庇護を受け、山岳修行者や各地を行脚する修行僧の行場として栄えました。
ここからUターン、少し下って厚木の七沢へ出ます。
歩いていたら神奈川県自然環境保全センターと記された場所に出ました。
ここはスギの品種改良などをやっている林のようです
”林業試験場”といったところでしょうか。
スギ採種園、種子をとるための林と書かれていました。花粉の少ないスギも育てて種を採っているそうです。
あとどれだけすると花粉の少ないスギが広まるのでしょうか。
期待はしてます。自分もスギ花粉症はあるので。
七沢森林公園・森のかけはし
こちらは神奈川県立の公園です。広さ65ヘクタール、里山をまるごと整備したなんて自己紹介してます。
この公園を通りぬけて厚木市街地方面へ歩く予定なのですが、結構起伏が多くてちょっとしたハイキングです。
エントランス付近
公園内の池
尾根まで(個人の感想として)結構上がります。
尾根へ出て巡礼峠をすぎ
ながめの丘から東側
この日は湘南横浜川崎方面から都心スカイツリー、東京タワー、カントーヘーヤ一望でした。
その後は東側、森の里の住宅地へ出てまた別の公園へ。
森の里へ下りてきたところ
あつぎつつじの丘公園
季節的に花はないですが、一斉に咲いたらすごくきれいだろうと思いました。春にまた来てみよう。
起伏の多いところを歩いて疲れたのでこのあとは川沿いへ(上り下りほとんどないから)。
恩曽川の川沿いに延々厚木の街まで歩きました。
川沿いの歩道から振り返って1まいだけ
帰り道は大山が背後になるので姿を見失ってました。
このあと本厚木へ出るのですが、何にも写真撮ってなかったようです。
疲れましたが、年末年始のアルコール分とその中途分解生成物は体内から蒸発しました。
最後に恒例足あと地図は置いておくことにします。