鎌倉街道上道(かみつみち)、3回目のスタートは原町田。現在の町田駅前商店街から歩き始める。
前回こちらの続き
上道その3、その4 行程
この日は原町田から国分寺まで歩いているが、長くなるのでノートは2つに分けた。原町田から現在の多摩市乞田(こった)までの行程、地図の緑ピンから黄色ピンまでがその3。
それと、自分の不案内で旧道が残っている場所を外して歩いてしまったところがあった。とても残念だったので、後日改めて歩きなおした。地図上に紫色で示してあるのは最初の行程と異なって歩いた区間となる。
アプローチは町田駅(JR)から
駅を出て本日の街道スタート地点、現在の町田繁華街を貫く通りへ出る。
少し先、町田中央通り交差点で
五差路の交差点。右側に写っている通りへ進む。
このあたり古くからの商店街通りを行くと小田急線線路にぶつかる。
小田急線踏切手前で
線路を越えて道なりにすすむと、通りの名前が鶴川街道(都道3号世田谷町田線)と表示されていた。この付近では鎌倉街道の古道は残っていないが、現在の鶴川街道西側に並行していたとも、現在の鶴川街道がそれであるとも言われているようだ。小田急線踏切あたりが鶴川街道の終点に設定されているようなので、とりあえずそこからさかのぼって歩いていく。
また、原町田までは俣野(横浜市戸塚区)あたりからずっと境川の左岸に沿って街道がのびていたが、原町田の先は境川流域からは離れていく。
別の都道(52号)と合流して道幅が広くなった坂道あたり一帯は「井出の沢古戦場」といわれる。
井出の沢古戦場
南北朝時代の1335(建武2)年、鎌倉幕府最後の得宗北条高時の子時行が兵を挙げ、鎌倉奪還を目指して進軍したが、足利尊氏の弟直義によって迎撃された戦場がこの付近(現在の町田市本町田)であった。
時行の軍は足利氏勢を破り鎌倉を占領したが、20日余りで足利尊氏、直義の軍に鎮定された。
その古戦場跡に菅原神社がある。
菅原神社
菅原神社というくらいなので祭神は菅原道真公で天神様。
神社拝殿は丘の上にあり、鳥居のある場所から階段を上がっていく。
階段脇のがけ下には
御神水の碑
後ろ側は窪地で湧き水がある。これが「井出の沢」らしい。
菅原神社前のT字路交差点は鶴川街道と鎌倉街道の合流点になっていて、これより北側へは現代の鎌倉街道(都道18号)が復活している。鎌倉古道のほうはもう少し鶴川街道を進み、恩田川(鶴見川の支流)の橋を渡った先を左に折れる。
菅原神社前から橋の先を左折して養運寺手前あたりがかつての本町田村の中心で、昔の字名は「宿」、鎌倉街道の宿場となっていたようだ。現在の地名は町田市本町田。
左折するとすぐのところに養運寺。
山門前から
浄土宗の寺院で、1567(永禄10)年に鶏足山養運寺として光蓮社伝譽上人により開創されたと伝わる、とのこと。
そこからさほど離れていない場所に
宏善寺
仁王門から本堂、金剛力士像
宏善寺は1271(文永8)年、井出の沢にあった真言宗の小庵を日蓮宗に改め創建したと伝わる寺院である。
2つのお寺を過ぎると恩田川に沿って上流の方へさかのぼるように歩く。川は源流に近い場所、そこが暗渠にされて上がせせらぎもある遊歩道になっている。
せせらぎのある歩道
こちらを向いて立っているのは太陽電池パネルらしいけど、どこの電気になっているのだろう。ずいぶんたくさん立っていた。
その歩道が尽きる先で現代の鎌倉街道と市道(?)の広い交差点、今井谷戸交差点に出てこれを渡り、北側の丘へ登っていく細い道に入る。この道は「町田ダリア園」へ行くので交差点などにその案内表示が出ている。
ダリア園前を通っても、途中でN字型に折れて隣の道を行ってもいいが、だんだん道の傾斜はきつくなっていく。この坂道の上は「七国山(ななくにやま)」で、そこを鎌倉街道の古道が通っている。
七国山へ上がっていく道
頂上近くなると林のなかにはいっていく。林の入口からすぐのところに
鎌倉井戸
その解説拡大
井戸はいわば山の頂上近くにあるので、水量は少なかったと想像される。なぜこんなところにと思うけど、この一帯だけ近くに川がないので、水の補給場所が必要だったのでしょう。新田義貞が掘ったとは思えないけど。
解説板の右側には「七国山鎌倉街道の碑」と書かれた石碑。この碑は最近になってたてられたものと思われる。
鎌倉街道上ノ道
道は七国山の上を越えてここから下り坂となる。
七国山の上から北方向
山と言うよりも実際は多摩丘陵の一部で、向こう側に連なる丘陵も同じくらいの高さ。
ここで先ほどの「上ノ道」標識の坂を下っていくはずだったのに、最初に歩いたときはなぜか林の中に迷い込み、農家の畑や全然街道ではないところを歩いてしまったのであった。
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ここから少し、2回目に歩いた記録。
鎌倉街道上ノ道の案内に従って坂道を下りていく。現在の道は普通に森の中の遊歩道といったかんじではある。
鎌倉古道とされる道
七国山の古道は3~400m程度で、下りてくると街道は鶴見川を渡る。(2回目記録ここまで)
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丸山橋から南側の丘陵(七国山方面)
道の奥のほうにみえる森が七国山あたり。
橋を渡ると次は北側の丘陵に上がっていくのだが、その手前に町田市が立てた散歩道の絵地図看板があり、そこに示された鎌倉古道は、事前に参考にした地図と経路が異なっていた。街道は幾筋もあったということで驚くことではないが、町田市の案内図に従って野津田公園へ入っていくことにした。
芝溝街道の野津田車庫前バス停付近を横断し、北側の公園入口の歩道を上がっていく。
歩道脇に掘割のような道が残されていて古道の跡だそうだ。標識も立っている。
鎌倉古道跡
さらに上へあがると古道跡へ遮る物がなかったので入ってみた。
今となっては下の土も柔らかく、道というかんじはしなかった。
そこから古道は丘の上にあがって道筋はわからなくなってしまった。こちらは町田市立陸上競技場をかすめてテニスコート脇の出入口から公園を出る。
野津田公園入口
公園から坂を下りると野津田公園北交差点に出て、横切っている都道156号(町田日野線)に沿って小野路方向へ進む。
しばらく行くと小野神社前交差点。このあたりから鎌倉街道の旧道も合流していた。
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2回目に歩いたときは野津田公園陸上競技場をまわり、公園の西端を通っていた旧大山道に出てから小野神社前へ歩いてみた。
旧大山道といわれる道
ここは古鎌倉街道の一部が時を経て大山道となった場所なのかもしれない。奥に土が盛り上がっているところは「小野路の一里塚」を再現したもので、一里塚は江戸時代にはいってつくられた。
少しの区間、旧大山道を通り、小野神社前交差点で1回目に歩いた道に合流。
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小野神社前交差点
正面奥へ向かって鎌倉街道も通っていた場所。この付近は小野路(おのじ)宿という宿場だった。
写真左側の建物は小野路宿里山交流館。
交流館の中庭をのぞいて
中では夏休みの子供たちが竹筒の水鉄砲製作中だった。
隣りの小野神社を覗いてきた。
小野神社社殿
社殿は鳥居をくぐって階段を上がったところにある。
神社の解説板から
小野神社の由来
小野路は鎌倉みちの宿駅として鎌倉と武蔵の国府の置かれた府中に通づる要衝の地にある。宿の入り口にある小野神社は、小野篁(たかむら)の七代の孫小野孝泰が武蔵の国司として天禄年間(九七二)頃赴任し、小野路のこの地に小野篁の霊を祀ったことに由来する。
小野篁は、平安時代前期の人で和漢に優れた学者で…(以下略)
社殿横から見た小野路の風景
街道沿いに
小島資料館前
新撰組に関する資料などを保存しているとのこと。ここの小島家は小野路の名主で、新撰組のメンバーがたびたび出稽古に訪れていたのだそうな。
小野路の歴史・解説板
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小野路宿から鎌倉古道の残る道へ。1回目に通った時は曲がる場所を間違えて別の道へ入ってしまったので、2回目の記録を。
木塀のある小野路宿のメインストリートの途中で、直角に折れて山へ上がっていく目立たない道がある。
古道にはいってすぐのところ
奥へ進むと舗装もなくなり、古道然とした道になる。
この旧道も3~400m程度で終わりになる。
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鎌倉古道は多摩市の境界線を越え、恵泉女学園大学前に出てくる。大学近くの道路は「多摩よこやまの道」となっている。
よこやまの道についてはこちらも
>
その先恵泉女学園大学前交差点で南多摩尾根幹線道路を横断すると多摩ニュータウンにさしかかる。
恵泉女学園大学前交差点
道路を渡ったところからは団地の建物がずっと続いていて、鎌倉街道の古い道筋はニュータウンの大規模な造成時に崩されてしまったのか残っていない。
ニュータウン内の推定される道筋に沿って歩くことにする。
古道のひとつは、このあたりで現鎌倉街道の道筋に沿っていたのではないかと言われているので、この脇にある緑道(瓜生せせらぎ散歩道)を歩いて行くことにした。
緑道の途中に「瓜生一里塚跡」の解説碑があり、その中に、塚は現鎌倉街道付近に存在していたととれる説明が書かれていた。
とりあえず何の痕跡もないところをずっと北方向に進むと、小田急多摩線と京王相模原線の高架下をくぐり、乞田川(こったがわ)の流れにさしかかる。
乞田川(多摩市永山1丁目、乞田境界)
完全に現代の風景な場所だけど、とりあえずノートその3はここまでとする。
経路上のおもな地名(上道その3)
原町田→本町田→七国山→野津田→小野路→瓜生→乞田