板橋志村から歩き出したふじ大山道、途中で深大寺道に入って甲州街道の調布へ出てきました。
その続きを、府中通り大山道合流となる町田の図師へ歩いたので途中経過など記録しておきます。
ふじ大山道・その2 足あと地図《調布~図師》
今回の経路は大まかに次のようになります。
日を改めて調布へ向かい、駅から旧甲州街道に出ます。
旧甲州街道・小島町1丁目交差点
前回右側からここへ出てきました。この日は左正面にのびる旧甲州街道をしばらく進みます。
かつては甲州街道に出るとすぐ、次の辻を左折して現在の鶴川街道の道筋に入り、矢野口の渡しで多摩川対岸に渡るルートもあったようです。
今回そこは直進です。
源正寺前の石塔石仏群(調布市下石原1丁目)
一番右の大きな供養塔の側面に「下石原宿」の文字がありました。
調布周辺の甲州街道は布田五宿といわれ、江戸(東)側から国領、下布田、上布田、下石原、上石原の小さな宿場が5つ、約3㎞の距離のなかにあったそうです。
ちなみに布田五宿には旅籠があわせて9軒だけだったとか、月のうち日を決めて所定の宿だけが開かれていたなどという話を聞いたことがあります。
西調布駅入口交差点前には出桁造りの古い商家の家屋が1軒残っていました。店舗現役でヘアサロンでした。
そのすぐ先、中央高速道の高架手前に西光寺があります。
西光寺、門前に近藤勇座像(調布市上石原1丁目)
右ののぼりに「新撰組 局長 近藤勇 生誕の地 上石原」とあります。
その右側は常夜燈。この付近は布田五宿のいちばん西側、上石原宿になり、この寺院のある場所がその中央部だったそうです。
同じ上石原の名主だった家だそうです
旧甲州街道をもう少し、飛田給(とびたきゅう)に入ってすぐに名前のない交差点を左折します。
ここで甲州街道から分かれます。
折れた先は京王線飛田給駅、ホームが延長されて道が消えていますが、踏切を渡った先に続きが残っています。
飛田給駅ホーム端の踏切
駅ホームがこちら側に延長、古い道が分断されてここに踏切が移動したのだと思います。
道の続きに戻るとすぐに品川道旧道と交差します。
品川道は府中と品川を結んでいた、こちらも古い道です。
その先を道なりに進むと、多摩川段丘崖(布田崖線、立川崖線)から下り、やがて多摩川の河原へと出ます。
段丘から下りたあたり一帯は以前、府中用水の水路跡を追いかけて歩き回った場所でした。その時は路地や遊歩道ばかり巡ってましたが、見覚えのある細い道や建物に何度か出くわします。
府中用水水路跡巡りでも前を通っていた押立神社(府中市押立町4丁目)
もうちょっと行くと正面に多摩川の堤防が見えてきます
ここの河原にはかつて渡し舟”押立の渡し”がありました。
押立の渡し碑
堤防上から渡船場のあったあたりを眺める
向こう岸、右側の大きな建物の前あたりが対岸の船着き場です。
ここの渡し舟は、こちら押立村と南(稲城市)側、向押立村を結んでいましたが、昭和17年、周辺に橋が整備されたことで廃止されました。
この付近は多摩川をはさんで両岸に”押立”の名があります。古くはひとつの地域でしたが、多摩川の氾濫などで流路が変わり、地域を2つに分けてしまったのです。
ここ以外にも多摩川をはさんで同じ地名が残る場所は結構あります。
渡し舟はなくなったので、近くの橋を渡ります。
押立の渡しから少し上流側にかかる稲城大橋を渡ります。
河川敷の白いのはユキヤナギ、ちょうど花が満開です。多摩川の河原にはこの木があちこちたくさん植わっています。
稲城大橋の上から南方向
橋を渡って稲城市側の渡し場跡あたりへまわってみましたが、枯れ草ぼうぼう、工事中でもあり、こちらは殺風景でした。
河原には痕跡も何もありませんが、河原から伸びる道には市が建てた「押立渡船場跡」の古い解説板がひとつありました。
稲城市側堤防上から先へのびる道
こちらが渡船場からの道です。葎草橋(りっそうばし)通りという名称のようです。(葎草=カナムグラ)
この通りを現在のJR南武線稲城長沼駅のほうへ進みます。途中は最近まで農業地域、梨などの果物畑が今も多く残っています。
梨園と大丸用水の間を古い道が通る
左の青いシートの内側が”多摩川梨”の畑だったと思います。(確信ないけど、梨の畑多いのは確かです。)
正面は大丸用水という農業用水路の1本です。
近くに石橋供養塔や庚申塔などがありました
この道では他の大山街道でよく見かけた、不動明王像をのせて道標にもなっている石塔は見つけられませんでした。かつては大山詣での人々も利用した道とはいえ、サブルートで、正式に大山道と呼ばれる区間ではないからでしょうか。
それでもこの石塔前を交差する道は川崎と八王子を結ぶ古い道だったそうで、不動尊はなくても道標が置かれていたかもしれません。
南武線と府中街道(川崎街道)を越えると青渭神社前を通過します。
青渭神社
解説によれば「創建年代は不詳ですが、弘仁年間(810~824)の創建とされ、延喜式神名帳に記載されている多摩八座のうちの一社青渭神社と比定されています。」
この付近、細い道はあちこち曲がりくねって進んでいます。
おまけ的な見つけものですが
稲城”町”時代のホーロー看板
稲城の町制施行は1957(昭和32)年、市制施行は1971(昭和46)年、その間に取り付けられたことになります。
道はその先で鶴川街道(都道19号)に出ますが、すぐ右に折れて坂を上がっていきます。
その途中には石仏、庚申塔などがあり、細いながら古くからある道です。
途中の風景
何百メートルか、こんなところを行きます。
その先は住宅地となり、拡張された道路になります。
流れは三沢川
三沢川分水路工事現場
街道歩きとは関係ないですが、あの軽トラ、どうやってあそこへ到達したのでしょう?
手前には水があって通れそうもなし、トンネルの向こうから水路を走ってきたのでしょうか…
話戻して、
こちらはこの先、坂浜というところまで旧道らしき道をたどり、そこからは鶴川街道を歩いて行きます。
この先は現代の道路歩きの連続となって、単調になってしまいます。
若葉台付近の鶴川街道
道路に表示があるように、ここで都県境を越え、川崎市麻生区に入ります。
横切る高架は京王相模原線で、右へ行くとすぐ若葉台駅という場所になります。
こちらは広い道をまっすぐ進みますが、小田急多摩線高架を過ぎると道路幅が急にせまくなり歩道がなくなってしまいます。
進むべきは左にカーブしていく方ですが、この先の小さな峠付近、歩いて通るのはとても危険な道です。単調な道路歩きだからといっても危ないのは御免です。
ここは回避して迂回しました。
再び都県境をまたいで次は町田市へ、真光寺公園と霊園の間で鶴川街道に復帰です。
左から来て街道に戻りました。
この背後へ進みますが、そちらは道路拡張済みで歩道もあります。
真光寺十字路交差点まで来て右折します。
右折した先から振り返って
この先も最近拡張された一般道です。
鶴川4丁目交差点付近で鶴川街道(都道19号)から鎌倉街道(都道18号)へ、道路の線形が悪いのでショートカットします。
鎌倉街道・岩子山交差点を横断してから振り返って
向こうの階段は岩子山千手院というお寺です。その後ろ側の階段を通ってこちらへ出てきました。
ここで鎌倉街道には乗らず、背後にのびる道へとはいります。
住宅地内の道を進みます(町田市野津田町)
この道は”今昔マップ”で見ると、明治39年測図のものに同じ道すじが表れているので古い道のようです。
そのまま先へ行き、坂を下ると都道57号(芝溝街道)と合流します。
坂の途中から
先の方に大山が見えました。
芝溝街道にはいるとあとは一直線です。
1.5㎞ほど西の方へ進むと並木交差点に達します。
並木交差点手前
この交差点が府中通り大山道との接続点、交差点から先が町田市図師町になります。
府中通り大山道は右側からこの交差点に出てきていますが、右奥側から出てくる細い道で、写真には直接写っていません。
府中通り大山道に合流しましたので、ふじ大山道(このあたりではそのようには呼ばれてませんが)歩きの記録はこのへんで終わりにしたいと思います。
この日はさらに芝溝街道を相模原方面へ。結局、相模原市の淵野辺まで歩きました。
ふじ大山道 その1