散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

南大沢から鶴見川源流の泉・多摩よこやまの道・栗木緑地鶴川台尾根を歩いて柿生

新年最初に歩いたのは少し前にも訪れた2ヶ所をつなぐ、多摩丘陵の尾根づたいをたどると言ってよさそうな散歩になりました。

南大沢あたりの公園緑道を散策しました(八王子・町田) - 散歩の途中

柿生の里を散策 (川崎麻生) - 散歩の途中

早速スタート

京王線南大沢駅

今回は最初の目的地の最寄り駅かな?ということで利用しました。

3㎞近く歩きますが、鶴見川源流の泉へ向かいます。
最初はニュータウンの遊歩道ですがその範囲を過ぎ南多摩尾根幹線道路を越えるとせまい道、車の往来に気をとられながら歩きます。

尾根をこえて谷戸の奥側から出てきます。

もうすぐ鶴見川源流の泉

田中谷戸というところ。源流より山側なのですが、すでに小さな川が見えてますね。
源流の泉より奥にもいくつか沢、小川が存在し、この谷戸に集まって源流の泉の水と合わさります。
なので鶴見川源流の奥にも源源流、源頭などと呼ばれるところが存在してます。〈『源源流』なんて鶴見川以外で聞いたことない〉

着きました。
鶴見川源流の泉

泉は丸く整形されてます。その中央、底から水が豊富に湧きだしています。

何年か前までは周囲に木道や丸木で組み立てた柵などもあって公園広場となっていましたが、いつの間にか取り払われてちょっと殺風景になりました。

道路側からみた泉

右の水路を流れているのは2つ前の写真にあった小川などの水です。

最初と逆方向から

泉から流れ出た水はもうひとつある池に落ちていきます。

そして先ほどの小川と合流

鶴見川のはじまりです。(行政的に定められた鶴見川上流端というのはもっと下流の方にありますが)

ここはすでに何回か訪れていて、その都度山の中へ入っては源源流やなんとかの谷戸頭とかへ紛れて歩いてましたが、今回は素直に流れに沿って下ります。

数百メートル下ったところ


ですが方針変更、方向を変えて丘陵へ

下に見える谷間を右から左へ最上流部の鶴見川が流れてます。

 

のどかな尾根道

人も車も通りの少ない静かな道、右上に白い何かが見えてますが

この建物の頭でした

枯れ草の中に無機質な建物群、通信会社や銀行のデータ/ネットワークセンターといったような大きなハコが並んでます。

スタートの八王子市南大沢から泉の湧く町田市上小山田町を経て多摩市唐木田へ出てきました。
上で写る道は『よこやまの道』の一部分、前方へ進むと鶴見川源源流などがある森の中へも入って行けるので方向的にはそのあたりを迂回してきた形になります。

背後へと進みます。

しばらく行き「展望ポイント」の道標に従うと

唐木田、多摩センター方面がひらけてます。横切る道路橋は南多摩尾根幹線道路の唐木田大橋、谷底は小田急線車両基地。

ちょっと逸れると

清掃工場煙突とガスタンク、その後ろ側はうって変わって

多摩ニュータウンとして開発されなかった(開発を止めたという)町田市側。

開発された側の「多摩市立温水プール」裏の壁


こちらも開発された側ですが公園内
一本杉公園の池あたり


多摩 よこやまの道案内が出てました

よこやまの道について、左下部分を黙読します。

横たわる美しき尾根のシルエット
多摩丘陵は武蔵の国府(府中)から眺めると横に長く連なる山々でした。
夕暮れ時にシルエットとして浮かぶその美しい姿は、万葉時代の人々から「多摩の横山」、「眉引き山」などとも呼ばれていました。
はるかな都へ~横山の尾根道
多摩丘陵の尾根道に当るこの道を「多摩よこやまの道」と名付け、散策路として整備しました。この尾根道は古代より武蔵野と相模野の双方を眺められる高台として、また西国と東国を結ぶ交通の要衝として活用されてきました。
この東西に伸びる尾根筋には鎌倉古道(鎌倉街道早ノ道、鎌倉街道上ノ道本路、軍事戦略鎌倉道)や奥州古道、奥州廃道、古代の東海道などの重要な歴史街道(古街道)が南北に交差し、その痕跡が各所に残され、また様々な伝説等も語り継がれています。
古代~中世~江戸時代に渡って政治、軍事、文化、産業、社寺参詣などを目的として、東国西国間の交易を行う商人や武士団、諸国霊場を行脚する巡礼者や都の貴人・官人、また幕末には新選組ゆかりの人々も行き来したと推測され、歴史とロマンを感じることのできる道です。
万葉ロマン~防人・見返りの峠道
万葉歌では望郷や別れを惜しむ道筋として「多摩の横山」が詠われています。古代、国防警備の目的で北九州に配置された防人という兵士たちは東国から陸路で都へ、さらに難波津(現在の大阪府の海岸)から船で瀬戸内海を通り九州へ向かいました。再び生きては戻れない覚悟の彼らが、この「多摩よこやまの道」の尾根で故郷を振り返りながら、家族との別れを惜しんだ姿が浮かんできます。
多摩丘陵~里山の自然
「多摩よこやまの道」の尾根道は暮らしの道でもありました。農林業が生活の中心だった時代には、多摩丘陵一帯に田園風景が広がっていました。「多摩よこやまの道」には多摩の農村風景が所々に残されています。多摩丘陵の南側(町田市、川崎市)、北側(多摩市、八王子市)の両岸を眺めながら、尾根沿いに残された里山ともふれあえる道です。
《下中央の歌》
赤駒を山野に放し捕りかにて 多摩の横山徒歩ゆか遣らむ*1
  万葉集(第二十・四四一七) 豊島郡の上丁椋椅部荒虫が妻 宇遅部黒女*2
《残り省略御免》

現在よこやまの道として整備されているのは、上の地図を参考にすれば延長9.2㎞
細道から一般道までいろいろな道で構成され、小さな上り下りが各所にあります。道標、案内などが充実しているので迷子になることはないと思います。

 

よこやまの道遊歩道、橋上から
この道路は現在の鎌倉街道(都道18号)

〈鎌倉までは直接つながってません〉

 

国士舘大学グラウンド近くのよこやまの道(多摩市永山7丁目)

左には「古道五差路と軍事戦略的な鎌倉道」と

ここは小野路町別所と多摩市永山の境界にあたり、古道が集まる五差路です。堀切を持つ関所跡のような場所(現在消滅)、頼朝の弟・源範頼の念持仏をまつったと伝わるお寺や鎌倉時代初期(弘安四年・1281)の大板碑、源氏の戦いの伝承地(鶴川団地)などが近くにあります。南北朝時代頃から鎌倉や小田原などへの近道として発達したと考えられるこの鎌倉道は、古戦場伝説や古墳が残る別所の高台(三社大権現、富士塚古墳)を乗り越えて、野津田や金井、本町田へと続いています。交通の要衝である小野路の宿や野津田上ノ原の先へ回り込む早道であったと考えられます。

こんな標柱、解説があちこちに立つよこやまの道です。

今回は全区間歩かず、国士舘大学グラウンドの先で「よこやま」の尾根からいったん下り、次に川崎市と町田市の都県境にのびる別の尾根へ移動します。

間の谷戸(川崎市麻生区黒川)


また都県境の尾根へ上がりつつ、ここは町田市の真光寺公園


尾根の高い位置から北方向

公園裏側の森の中から。下は川崎市の黒川あたり遠くは多摩市や稲城市になるのかな?

 

尾根筋に一本の道が続いてます

道の片側が川崎市、もう一方が町田市の都県境、森の中、尾根筋を先へ進みます。

 

ふと、木がなくなったすき間から町田市側、西の方角


尾根道とその周囲、川崎側では栗木緑地、町田側では真光寺緑地・鶴川台尾根緑地とそれぞれの地名をとって呼んでいる?ようです。

この尾根、特に町田市側から上がってくるのは傾斜がきつくて大変そう


だんだん木の密度が低くなって遠方までひらけてきます。いい眺めです。

ただし景色ばかり見とれていると地面は木の根が浮いていたりで足元は結構凸凹危険です。都県境のため東京都と神奈川県それぞれが埋めたコンクリートの境界杭もあちこちで10㎝くらい頭を出しています。それを勢いよく蹴ってしまいひとり呻きました。〈2度も 十分気を付けましょう〉

こちら川崎側はあまり高所感がない不思議


尾根道が住宅地に入る手前で川崎市側へくだりました。
下る途中工事現場があったのですが、リニア新幹線のトンネル工事、その非常口の穴をあけているとのことでした。
工事用取り付け道路まで造られてましたが、トンネル掘った土砂なんかも運ぶのでしょうか。

住宅が並ぶ麻生区片平というところへ下りてきました。

突き当たりフェンス下を片平川が流れてます。

そしておまけでもう一回、正面先の丘へあがり
修廣寺

曹洞宗のお寺だそうです。山号は夏蒐山(なつかりさん)といいます。
こちらは前回柿生周辺を散策したとき参考にしたガイドにのっていたお寺、その時に立ち寄らなかったので。

仁王門の先、本堂前が『長野善光寺御開帳』のような風景になってました。

正面に柱が立ち、本堂と布がつながっています。

こちらのお寺、曹洞宗なので釈迦如来が御本尊かと思いますが、御前立として薬師如来が安置され寅年に開扉されるとのことです。
そのとき薬師如来像の指にかけられた糸が本堂から回向柱まで五色の布となって繋がり、柱に触れることで大変な御利益があるそうです。訪れたのは年明け次の卯年になってからでしたが、まだ柱も布も残っていました。
お寺の裏山、柿生緑地


坂道を下って柿生交差点、小田急線の駅も間近、この日はそこまでとしました。

 

2023年最初の散策

 

*1:あかごまをやまのにはがしとりかにて たまのよこやまかしゆかやらむ

*2:としまぐんのかみつよほろくらはしべのあらむしがめ うぢべのくろめ