横浜本牧を散策

ソメイヨシノが満開になる頃、横浜本牧を歩いた記録です。

本牧(ほんもく)は個人的にあまり詳しくは知らないところで、歴史をみると戦中戦後に大きな街の変化があったという程度の認識です。
なので本牧界隈のあれこれ調べてから記録まとめようかなと考えていたのですが、結局ちっとも時間がとれずまとめきれませんでした。〈サボってたというのが正しいかも〉

とりあえずカメラで記録してきたあれこれ、ちょうど桜もたくさん咲いてましたのでそちらをメインにアウトプットしていきたいと思います。

歩いたのは横浜公園のチューリップや元町公園などのソメイヨシノなんかを見た日、その続きになります。

 

港の見える丘公園で桜を見た後、新山下へ階段を下るところからかつて崖の下はすぐに海岸線(波打ち際)でした。
大正から昭和にかけて埋立てられ、山下町の隣りなので新山下(町)となりました。

現在海側には巨大な山下埠頭、本牧埠頭など、丘の崖近くは見てのとおりURなんかの中高層住宅がずらっと並んでいます。

丘の上は外国人居留地に端を発する山手地区、昔はこの崖下にあったという海水浴場とを行き来する近道がこの坂(現在は階段)だったということで案外古い道、坂の名は「千鳥坂」というそうです。(近所にある北方小学校5年生が共同作成した坂道の紹介が階段の途中に取り付けられていました。その一部を抜粋させていただきました)

 

坂を下り、崖に沿って少し行くと
山手の丘をぶち抜いて「見晴隧道」が新山下側へ出てきます2つ穴あいてますが、左が1932(昭和7)年に造られ、のちに拡幅された初代トンネル、右は1995(平成7)年に完成した新しいトンネルです。

 

トンネルの少し先「山手見晴らし公園」の桜

 

崖線の下をそのまま行くと
ワシン坂の道と合流します(中区小港町)右背後、山手へ上がって行く古い坂道「ワシン坂」、ちょっと変わった名前です。
前方信号機のあたり崖下に湧水があり〈ガードレールに隠れてしまいました〉「湧清水(わきしみず)坂」がなまったという説があるそうです。今も清水は涸れず湧いてます。

 

そこから少し歩いて「本牧通り」に出ます(本牧町1丁目)本牧通りの原形は明治末から大正はじめに開通した(のちの横浜市電)路面電車の軌道でした。それからまもなく軌道両側に道路が拡げられていき、いまのような幅の広い通りとなっていったようです。

 

本牧通りを👆で前方へ進むと道は「つ」の字に大きくカーブしていきます。

山手警察署前交差点(中区本牧宮原)この交差点あたりからカーブがはじまり、そして沿道は桜並木が続きます。

 

さらに進んでふり返り〈こっち側からが順光〉

 

やがて商業施設などが集まった本牧現在の中心部へ出ていきます(中区本牧原)

ここで本牧の歴史をごくおおざっぱに

この一帯、古くは本牧本郷村(明治に入って本牧村、のち横浜市編入)といい、おもに漁村で海岸からやや離れた平地には水田がありました。

路面電車の開通と延伸により住宅地(別荘地)が広がってゆき、三渓園の開園をはじめとしてその他当時の様々なレジャー施設や海水浴場なども整備されて、行楽観光地としても繁栄していったそうです。

関東大震災ではそれなりの被害を受けたものの持ちこたえました。

昭和10年代から海岸、丘陵などに軍事施設が建設されはじめ、町の施設も軍需工場に転用されるなど戦時下の体制に組み込まれていき、昭和20年5月29日の横浜大空襲では本牧地区も大部分が焼失、壊滅的被害を受けました。

戦後すぐ、その焼け野原の約70万㎡が米海軍により接収され米軍人軍属とその家族の住宅となりました。現在の本牧宮原、本牧原、本牧和田といわれるところがおもな接収地になっていました。
本牧通りの両側には高いフェンスが張り巡らされ『フェンスの向こうのアメリカ』などとも言われ、接収は1982(昭和57)年まで続きました。

ちょうど👆の写真に写るあたりは本牧通り道路両側に米軍住宅がたち並んでいたところになります。

接収解除後は本牧原などの新本牧地区を中心とした再開発事業がはじまり、ここには大規模なショッピングセンター『マイカル本牧』ができました。

マイカル本牧はのちに会社が吸収合併されて現在はイオン本牧店として営業しています。ショッピングセンターの規模も縮小されて一部建物はマンションなどに変わっていますがマイカル時代の雰囲気が残ってもいます。〈ここは個人感想〉

イオン本牧店の周囲、接収地だったところは現在大規模なマンションなどで占有され、その海(東)側埋立地には大きな工場、本牧埠頭などが広がっています。

 

イオン本牧のすぐ南、本牧通り大鳥中学入口交差点付近

このあたりから南側の本牧元町、本牧三之谷、本牧大里町、本牧間門などは接収を免れた地区でした。


もう少し行って本牧桜道との分岐

 

左へ折れて桜道にはいります(中区本牧三之谷)

こちらは三渓園に通じる道になっていてお花見に向かう人でしょうか、けっこう歩いていました。〈バス停にメガネの落とし物?〉

 

自分はその道ちょっと逸れて隣りの本牧大里町などをまず徘徊

細道の途中からこのへんはわりと古くからの住宅が多くあります。道路の先には海岸沿いの工場煙突が1本

 

先に進むと小高い丘へ上がって、かつて本牧岬と呼ばれ、今は本牧臨海公園となっているところへ

本牧臨海公園入口付近前の桜の木の下は崖でその直下はかつての海岸線、本牧岬と呼ばれたところでした。

現在崖下は本牧市民プール、その先首都高湾岸線、さらにENEOS根岸製油所と続いて根岸湾(東京湾)

手前の解説板には、ここ本牧臨海公園一帯は明治時代に生糸貿易商小野光景氏の別荘(約2万6千坪、8.6ha)だったことなどが書かれてます。

 

こちらは『八聖殿』へ向かう歩道上の木立ちの中に 八聖殿:法隆寺夢殿を模した三層楼八角形の建物があります。熊本県出身の政治家安達謙蔵が1933(昭和8)年に建立したもので現在は市の郷土資料館になっています。〈未訪〉

公園隣り、今はマンションになってますが1963(昭和38)年から一時期『横浜入国者収容所』がありました。(現在は茨城県牛久市東日本入国管理センター)

ここでUターン、本牧大里町から本牧元町方面にもどります。

 

吾妻神社を本牧元町公園から(中区本牧元町)


大鳥中学校付近(中区本牧原)左奥緑のネットは大鳥中学校グラウンド、右高架は首都高湾岸線(南本牧ふ頭IC付近)、間の水路(白いフェンスとガードレールの下)がおおよそ埋立前の海岸線だったところ、かつてはここが波打ち際でした。

昔の波打ち際沿いに南へ少し行ったところには「八王子の護岸」という古い岸壁の一部が石碑とともに残され(飾られ)ています。ここに昔の海岸線の名残りを留める唯一の証だそうです。(『八王子』は付近の小字名)

 

個人商店や住宅の混在する本牧元町あたりの通り


こちらは本牧三之谷、三渓園入口から1本隔てた通り奥からなんだか雰囲気がよさげなのでつられて入ってきてしまったところ、この先私有地行き止まりでした。
奥は三渓園の敷地、その手前右側には「原」と記された立派なお屋敷の門がありました。

横浜三渓園についてはたぶん有名な観光地なので言うまでもないのですが、実業家で茶人の原三渓(富太郎)によって造園された、日本建築の建物などが配された庭園です。

 

引き返して近くの道から閑静な住宅地、右の三角屋根建物、手前にはお寺の名前がありましたけどそれらしくないですね。

 

ここから再び本牧通りに出て、新本牧公園前

新本牧公園の前にこの背後の高台をひとまわり

上がる途中(中区本牧間門)こちら丘の周囲も住宅地、特にこれはと思ったものは見つけられず、別の坂から下ってます。

 

本牧通りを横断して本牧和田バス停付近(中区本牧和田)バス通り、向こうへ上がる坂は『アメリカ坂』、坂上一帯の尾根すじは本牧山頂公園になってます。

 

アメリカには上がらず新本牧公園へ

この公園一帯も戦後接収され米軍住宅となっていたところ

 

公園奥に本牧神社本牧地区の総鎮守

かつては海岸線沿いの現「本牧十二天」丘の上にあった神社ですが、戦時中の空襲による焼失と米軍の土地接収で本牧町へ仮遷座ののち、本牧地区の土地返還後にこちら(本牧和田)へ社殿を移したとのことです。

写っているものを見てたら港の見える丘公園にもあった国際信号旗(International Naval Flags)、組み合わせも同じものがあるのに気づきました。(右赤い鳥居が並ぶ上)

2枚の組み合わせで「ご安航を祈る」という意味、港の見える丘公園には「コクリコ坂からの舞台」ということで掲揚されている由の解説もありますが、こちらの神社も関連あるのでしょうか?

 

本牧和田の米軍住宅跡地は当時の雰囲気が少し残る、広い敷地の戸建て住宅地〈ちとお高そうな〉となっております。


和田山と呼ばれる丘のすそをまわってイオン本牧の後ろ側からその先へ、最初に本牧通りを来たときと逆方向に、メインストリートではない道を歩き

ここは和田山・本牧山頂公園への連絡通路(階段)付近右うしろは元マイカル本牧関連の建物(現在はベイタウン本牧5番街)

 

本牧せせらぎ公園から本牧宮原方面へ住宅地の脇を


この先もう少し歩いてますがバッテリーか集中力が途切れたようで何も記録がありません。

本日ここまでといたします。