前回はこちら👇でした。
続きになります。
碑文谷公園(碑文谷池)から離れていったん世田谷区へ「馬」とか「駒」の字がたくさん出てくるところを歩いてます。
はじまりは今回も神社からになりました。
こちら下馬(しもうま)は駒繋(こまつなぎ)神社
拝殿正面
駒繋神社について Wikipediaなどから引用抜粋
主祭神は大国主命。
創建年代は不明である。ただし1056(天喜4)年、前九年の役に出征する源頼義・義家父子が、当社の「子の神(大国主命)」に戦勝祈願をしたとされることから、平安時代には既に存在していたものと推測される。
また源頼朝が奥州合戦に出征する際、先祖の義家の当社参拝を思い出し、愛馬(駒)を松に繋いで参拝したことから、「駒繋神社」と呼ばれるようになった。
坂を下りつつふり返って
下ったところに鳥居
神社反対側の鳥居から境内に入ってこちらへ出てきました。
真っ赤な橋「駒繋橋」があります。
橋上から
下には目黒川支流になる蛇崩川(じゃくずれがわ)という変わった名前の川がありましたが、今は暗渠となって緑道(蛇崩川緑道)が通ってます。
以前歩いた暗渠の緑道がどうなってるか気になってこの辺へ出てきました。
このあとも暗渠となった目黒川の支流をいくつか横切って歩きます。
駒繋橋を渡ってふり返る
蛇崩川緑道は辿らずに
こちらは世田谷公園
園内ミニSLのせたがや公園駅近く。SL運行は本日お休みでした。
噴水広場へ移動
見る方向を変えて
わりと広い世田谷公園ですがさくっと通過
国道246号三宿交差点を渡って北側へ行くと
烏山川(からすやまがわ)緑道に出ます
烏山川も目黒川の支流、流れを暗渠にした上部が緑道になってます。
ここはかつて川にかかる「多聞寺橋」があったところで緑道右側には橋名標が残されています。
多聞寺橋を渡ってさらに北へ進むとまた水の見えない橋に出あいます。
北沢川・三町橋、現在は北沢川緑道
ここの三町橋は当時の欄干などをそのまま残しています。
橋の下に流れがありますがこれは川を再現した人工のせせらぎ。
北沢川も目黒川に注ぐ支流。正確には烏山川と北沢川が合流し、そこから下流が目黒川と呼ばれます。
蛇崩川、烏山川同様暗渠の上を緑道が通っています。
北沢川を渡って北へ進むとほどなく淡島通り(都道423号)、数年前三宿交差点からの道路が伸びて下代田東交差点ができてました。
越えて駒場通りから大学入試センター建物裏手へまわるとそこはまた目黒区。
駒場野公園へ至る緑道があります
右に大学入試センター、左手前は都立国際高等学校、その先建物は目黒区立駒場体育館。
突き当りまで進むと左に駒場野公園入口があるので入ります。
広場など
〈『そださく』は漢字で「粗朶柵」伐採した木の枝や幹を組み合わせて作る柵、目の前のそれです〉
現在駒場野公園や駒場体育館、大学入試センターとなっているところには以前、東京教育大学農学部がありました。
大学が筑波へ移転した跡地を目黒区が国から払い下げや貸与を受け、1986年に駒場野公園が開園しています。
また教育大よりも前には駒場農学校の農場だったこともあり、園内に今も田んぼがあります。
ケルネル田圃
谷戸地形となったなかほどにあるこちらは駒場農学校の実習田だったところ。
農学校のドイツ人教師オスカー・ケルネルにちなんで『ケルネル田圃』です。
現在も田圃は筑波大付属駒場中学・高校の実習田として使用されています。
田んぼの奥にはその用水池があります
全部自然の水と言いたいところですが、田圃を潤すには足りないようで補水されているそうです。
またここの流れは「空川」というれっきとした河川、先で目黒川に注いでいます。〈こちらも目黒川支流ですね〉
ケルネル田圃近くに駒場野公園の正面入口
裏の入口からはいって表へ出てきました。
背後は京王井の頭線の線路、駒場東大前駅近く。
踏切を渡ってその北側へ出ると東大駒場キャンパスや関連施設、そのほか日本民藝館などもありますがこの日は駒場公園(旧前田邸)へ向かいました。
駒場公園は東大駒場キャンパスと通称駒Ⅱとも呼ばれる東京大学生産技術研究所の間にあります。かつてはここも駒場農学校敷地の一部でしたがその後東京帝国大学農学部〈こっちは東京教育大学でなく東京帝国大学の土地でした〉が本郷へ移転、跡地に旧加賀藩主家の前田利為侯爵が移住したところです。
前田家駒場本邸ということで現在は国重要文化財に指定されている1929(昭和4)年竣工の洋館、1930(昭和5)年竣工の和館があります。
東門から入ります
右側の建物は公園敷地内にある日本近代文学館〈建物裏側〉。この時は「三島由紀夫生誕100年祭」が開かれてました。
公園東門を入るとすぐ旧前田家本邸和館
こちらは和館の門と塀

門左側の解説
日本語部分のみ抽出してます
和館門及び塀
重要文化財(建造物)
平成25年(2013)8月7日指定
洋館の東側に設けられた和館は、周囲を和風の門や塀で仕切り、南側には和風の庭を配した和の空間を作り出しています。和館門は、唐破風が両側面につく平唐門という形式で、唐破風頂部の鬼瓦には前田家の幼剣梅鉢紋 (ようけんうめばちもん)が掲げられています。和館塀は、上部を格子に、下部を割竹張りとする形式で、格子から和館が見え隠れします。また、門から和館玄関までは石畳みの回路を斜めに取るなど、重厚になりすぎない配慮がされています。 平成24年(2012) にX線調査を行ったところ、門の柱廊部にアンカーボルトが埋め込まれていることが分かり、関東大震災(大正12年)後の設計ということもあり、当時から優れた耐震対策が施されていました。
門から見た外観
洋館含め内部も公開されてますが今回は入ってません。和館に入れば日本庭園も見ることができますが..
〈言い訳ですが、屋内へはいると案外長っ尻でして時間を食い潰してしまい、ほかの場所を廻る余裕がなくなりがち。年取って歩きまわるのがしんどくなったらゆっくり鑑賞しに来たいと考えてます〉
代わりに建物の解説にて茶濁
和館
重要文化財(建造物)
平成25年(2013)8月7日指定
外国からの賓客に日本文化を伝えるために、昭和5年(1930)に竣工した木造2階建の近代和風建築で、迎賓のほか、前田家の四季折々の行事にも利用されました。外観は、玄関側の北面は破風屋根が重なる重厚な意匠とし、庭側の南面は京都の銀閣寺を思わせる姿となっています。内部は畳敷きの大廊下や広い続き間のほか茶室も股けられています。設計は、 佐々木岩次郎で、茶室は三代目木村清兵衛によるものです。隣接する洋館とは渡廊下でつながっています。戦後は一時期、連合国軍GHQ司令官の住宅などに使用されましたが、 内外ともに創建時の状態を良く留めています。
再び塀の外側から
ちょっと物足りないのですが
続いて洋館へ
和館の先、洋館の側部、後部から。左端は両館渡り廊下の一部
前へまわって
洋館の解説
洋館
重要文化財(建造物)
平成25年(2013)8月7日指定
留学や駐在武官としてヨーロッパ滞在の長かった前田利為侯爵は、駒場本邸(洋館)を内外の賓客をもてなすにふさわしい邸宅として、昭和4年(1929)に竣工しましたが、当主一家の住居でもありました。設計は高橋貞太郎です。鉄筋コンクリート造地上2階・地下1階建で、当時最新の設備を取り入れる一方、外観はイギリス貴族の館であるカントリー・ハウス風の意匠とし、伝統的で重厚なイギリスのチューダー様式でまとめています。外装は石川県小松市産の凝灰岩である大華石(たいかせき)やスクラッチタイルで装飾されています。第二次世界大戦中に前田侯爵が戦死し、戦後は一時期連合国軍GHQが司令官の事務所などとして使用しましたが、内外部とも創建当時の状態を良く留めています。隣にある和館とは、外廊下でつながっています。
玄関と車寄せ近くから


こちらは南側にある芝庭とを区切る塀、パーゴラがあった部分
この右に庭へ出るための門があり、そこをぬけると
木の陰から芝庭
洋館建物南側、庭に面した部分
その左端1階の部屋、中が少し窺えました
再び洋館玄関前を通って駒場公園正門前へ出ました
元は前田家本邸正門です。右の尖塔(三角屋根)付き建物は門衛所、前田侯爵が住んでいた時には門番がいました。
門衛所の建物も国重要文化財に指定されています。
門衛所の右にも門があります。公園敷地には入っていませんが「公益財団法人 前田育徳会」の表札が掲げられ、内部にスクラッチタイルで装飾された立派な建物がみえました。
前田育徳会は加賀前田家と前田侯爵家が収集した文化財を保存管理する公益法人です。
今回はここ駒場公園まで
旧前田家本邸の内部、見て来なかったこと実はちょっと後悔してます。また機会をみて訪ねます〈なるべく早くに〉