前回の続き。はじまりは江東区新大橋1丁目の隅田川テラスから。
そこから上流側を見る
右岸側の首都高は両国ジャンクションにさしかかるあたり、その先で川を渡って6号向島線、7号小松川線に分かれている、そこに架かる両国大橋(りょうごくおおはし)が前方に見える。
2層に分かれて川を渡る
上側が7号小松川線、下が6号向島線。6号線はこの先隅田川の左岸側に沿って北上していき、7号線は東に向かって竪川(たてかわ)の真上を直進している。
両国大橋は1969(昭和44)年の完成。
首都高の橋で大した特徴はないのかと思っていたが、ワイヤーを使用した吊り構造になった部分があり、上のレーンが下のレーンを吊り支えている。
小松川線のレーンが向島線のレーンを吊っている
ここからは分かりにくいがレーン向こう側にもワイヤーが下がっている。
首都高の下で右側から竪川(たてかわ)が隅田川に合流して、いったん遊歩道が行き止まりになっている。
一般道に出て一之橋(いちのはし)を渡る。
一之橋の上から
上は首都高速7号小松川線、下は竪川。竪川は江戸時代に開削された人工河川。
隅田川の川岸に戻る。
前方には両国橋(りょうごくばし)
ここから左岸側は上に首都高速6号線の高架がずっと続く。
両国橋、やや間近から
1686(貞享3)年に国境が変更されるまで、武蔵国と下総国の境界だったために「両国橋」という名称になり、現代に至っているが、はじめて架橋されたとき(1659,1661年の両説あり)は「大橋」と名付けられた。
1904(明治37)年に鉄製の橋梁となり、関東大震災でも大きな損傷はなかったが、他の橋梁復旧工事にあわせて架け替えられ、現在の橋になっている。竣工は1932(昭和7)年。
なお先代両国橋の一部は亀島川の最下流にある南高橋(中央区新川2丁目、湊1丁目間)となり、現在も使用されている。
現在の橋長は164.5m、形式は3径間ゲルバー式鋼鈑桁橋。
両国橋上流側から対岸を望む
両国橋の隅田川上流側に架かるのはJR総武線隅田川橋梁。
総武線隅田川橋梁
橋長は172m、形式は3径間ゲルバー下路式ランガー桁。竣工は1932(昭和7)年、ということは現在の両国橋と同じ年。
両国橋上から見た隅田川橋梁
両国橋を渡り右岸へ、いっときまた中央区に入る。渡った先は中央区東日本橋2丁目。
このすぐ上流側は神田川の合流地点で、そこに柳橋(やなぎばし)が架かる。
柳橋南詰から
橋上から
下は神田川。
柳橋から望む両国橋
この橋も関東大震災で被災、復興事業の一環で再架橋され1929(昭和4)年に完成した。
橋を渡ると北詰は台東区柳橋1丁目。ここからすぐに隅田川川岸へ出る道がないので、総武線線路を越えた先で川沿いに復帰する。
この付近は装飾も凝っている。
隅田川テラスから
川上に向かって少し進むと、人が渡るためではない橋が架かっている。
蔵前専用橋(くらまえせんようきょう)
箱に囲われたようになっているので何があるのかは見えないが、NTT通信線と水道管が通っているそうだ。上部に模様のように見えるのは換気用の窓とのこと。
橋長は155.4m、形式は3径間連続鋼箱桁橋、竣工は1967(昭和42)年。
そのすぐ上流側は蔵前橋(くらまえばし)が架かる。
蔵前橋
近くから
アーチの上側に路面がある上路式アーチ橋で、アーチの2ヶ所の支点に蝶番の役割をはたすヒンジを設けた、2ヒンジアーチ橋と呼ばれる構造の橋である。ウィキペでは「3径間連続上路式ソリッドリブ2ヒンジアーチ、および上路式コンクリート固定アーチ」と書かれている。長いな
アーチの下側から
橋長は173.2m、竣工は1927(昭和2)年。関東大震災復興計画により新たに架橋されたもので、上を通るのは蔵前橋通りである。架橋前には富士見の渡しという渡船があった。
この付近右岸を蔵前と呼ぶが、江戸時代初期、この一帯に幕府の米蔵を94棟建てて天領の年貢米を収蔵し、「浅草御米蔵」と呼ばれていた。これが蔵前の地名の由来だそうだ。蔵前橋の橋体の色は、米蔵にちなんで黄金の稲穂の色をイメージしたものという。
蔵前橋から4~500mさかのぼると厩橋(うまやばし)がある。あるにはあったのだが、残念ながら工事中で橋全体にネットが被されていた。これは予想していなかったが、メンテナンスは当然必要なのでしかたがない。
見えるのは歩道部分の欄干のみ。
反対側から見てみた
逆側からだと橋のようすが少し分かるが。
蔵前橋はアーチの上に路面のある上路式、こちらは路面の上にアーチがある下路式、3径間下路式タイドアーチ橋。3連のアーチ橋は緑色に塗装されているはずだが。
現在の橋の橋長は151.4m、竣工は1929(昭和4)年。関東大震災で被災した先代の橋を復興事業の一環で架け替えたものである。
厩橋の名前は、幕府の御米蔵に米を運ぶ馬の馬屋が近くにあったことによるとのこと。
この橋を渡って対岸へ渡る予定にしていたが、工事中で橋の上の装飾などが見られないので、1つ上流の駒形橋までそのまま右岸を行った。
駒形橋(こまがたばし)を望む、スカイツリーと
近づいて
中央部分のアーチは下流にある永代橋とよく似ている。駒形橋は中央の大きなアーチのほかに、両側径間にもソリッドリブアーチ(上路式)橋が設けられていて、よく見ると中央部分は下路式、両側径間部は上路式という珍しい3連アーチ橋である。
橋長は149.6m、竣工は1927(昭和2)年。震災復興計画の一環として現在の橋がはじめてここに架橋された。それまでは「駒形の渡し」が存在。
橋の上から
歩道上に整然と並ぶ橋灯と、中央アーチの橋脚の上にも大きな橋灯がある。
左奥の親柱の上にも大きな橋灯
この橋もほかの震災復興事業で架けられた橋と同様、リベットだらけで頑丈そう。
渡り終えて振り返る
駒形橋から次の吾妻橋(あづまばし)までの距離はさほどない。
駒形橋から見た吾妻橋
吾妻橋というと近くにあるあの黄金色の物体をいっしょに取り込みたいが、あちらはちょうど改装中だった。
少し遠くから吾妻橋と、金色にしっぽだけ光るアレ
左岸側から
間近から
隅田川で唯一、真っ赤で華やかな橋である。
形式は3径間鋼ソリッドリブタイドアーチ橋(ウィキペでは)で、蔵前橋にも似ている。橋長は150.0m、震災復興事業で被災した先代の橋を架け替えたのが現在の橋で、1931(昭和6)年竣工である。
最初の架橋は1774(安永3)年で、隅田川に架けられた5番目の橋とのこと。当初は「大川橋」という名称だったらしい。
橋の西側一帯は浅草の中心部。
このあたり、当然西側(右岸側)のほうがにぎやか、華やかだが、もう少し上流までその反対側を歩く。
吾妻橋のすぐ上流側には東武線隅田川橋梁が架かる。花川戸鉄道橋とも呼ばれる。
橋を渡ると左へ大きくカーブして浅草駅
東武が浅草駅まで鉄道を延長させるために架けられた橋で、竣工は1931(昭和6)年、吾妻橋と同年である。橋長は166m、ウィキペによる形式は複線中路カンチレバーワーレントラス(3径間)と書かれている。たしかに車両がトラスの上でもなく下でもなくな位置を通っている。(<中路)
橋はこんな感じ
向こうには言問橋も見える
ここから東武線の向こう側へ出るには、北十間川が合流している都合もあり、一度一般道へ出て、枕橋で北十間川を渡り、墨田区側の隅田公園横から河岸に出る。
長くなってきたので、この先は次回とする。
今回よりも下流側の風景はこちら。
その1
その2