荒川を歩くシリーズその13は、その10の続きです。
前回その9、10では川越市から川島町、吉見町とさかのぼって歩きましたが、右岸側はやや交通が不便なので一旦左岸へ出て行き来します。
今回もスタートは左岸側のJR高崎線北本駅から。荒川を渡る高尾橋までは3㎞ほどあります。さらに前回の離脱点、右岸堤防まで500~600m。
荒川左岸の北本さくら公園から荒川河川敷方向
この付近左岸側は丘陵のため堤防は築かれていません。すぐ下は公園の蓮池、ざわざわした茂みの間を右から左に荒川が流れて、その向こう広く河川敷(高水敷)は畑、さらにほとんど写真では認識できませんが右岸堤防があります。
高尾橋と荒川本流
すでに何回も出してますが『高尾橋』、水量が増えたときは水に浸かる冠水橋です。下は荒川本流、今回も歩きながら本流の流れが見える場所があまりありません。
あと、橋を渡ってから写しているので向こうは左岸の丘陵側になります。
背後に河川敷を右岸堤防まで進みます。
多分これから麦が植えられる畑と遠く右岸堤防
この日はこの先堤防上ばかり歩いていたので河川敷からも1枚、でした。(吉見町久保田新田)
前回荒川右岸からの離脱点、堤防に到着。
前回歩いてきた方を見て(吉見町久保田新田)
やっと本日スタート地点、上流に向かって歩き出します。
しばらく堤防右側河川敷方向は林です
林となっている中は荒川の昔の河道で、よく見えませんが今も長く池のようになって水がたまっています。
昭和初期に流路変更を伴う河川改修が行われ、現在の本流は数百メートル東へ移動しました。〈同じ河川敷内ですが〉
間もなく『海まで60.0㎞』のポストを過ぎると荒川堤防の外側に別の堤防が現れます。
左方へ続く桜並木
桜並木の根元は荒川堤防から分岐した別の堤防になっています。ここは『吉見領大囲堤』(よしみりょうおおがこいづつみ〈長いな〉)といいその一部分です。
大囲堤とは、荒川上流河川事務所の解説では
大囲提は、水害に備えて集落を輪のように囲む堤のことで、昔から、熊谷市(旧大里町)や吉見町、川島町などでつくられていました。
荒川の中流域は低地が続いており、もともと洪水の多い地帯でした。これに加えて、江戸時代前期に物資の運搬路開拓や灌漑目的で荒川の瀬替えなどが行われるようになり、洪水が増しました。しかし荒川では、川を堤防で囲って治めることは難しく、このため洪水に備えていくつかの村が共同し、集落や村の側を囲む「囲堤」がつくられるようになったのです。
木曽三川にある『輪中』と同じものですね。
少し角度、位置を変えて
大囲堤は現在の荒川堤防より少し堤の高さは低い(高さおよそ3m)ですが江戸時代に築かれたものです。
現在は荒川右岸上流の方から大囲堤へサイクリングロードになっています。
吉見領大囲堤から1㎞ほど荒川をさかのぼると次は横堤と呼ばれる堤防が荒川河川敷側に現れます。
荒川の横堤については何回か記してますが、河川敷側に川の流れと直角方向に突き出す形で設けられた堤防で、川が増水して河川敷へ溢れ出したときすぐ下流へ流れないよう遊水や水流を弱める機能を持たせたものです。これによって下流の洪水を防いだり、河川敷の耕作地を守ることができます。
現在、横堤のいくつかは上を道路が通り、堤の先端から対岸へ橋が架けられています。
そんな場所のひとつ、東吉見第2横提(1600m程度)の上を通る道路
横提の先は御成橋(804.8m)が対岸までかかっています。
そしてここ左岸側を歩いたときにも取り上げましたが、川幅日本一の標柱が立っています。
左前方が河川敷、横堤が伸びてます。その先にある橋は目視でも確認できませんでした。
この横提とひとつ上流側にある横提には河川敷の中にも関わらず住宅(集落)が現存しています。昭和初期の河川改修時に河川敷(高水敷)から横提のうえへ移転したそうです。
橋から数百メートル行ったところ、荒川右岸海まで62.0㎞地点です。
ここにも川幅日本一の標示があります。
拡大
ここが川幅日本一(川幅2,537m)のポイントです。
現在地:吉見町大字古名新田
このポイント(河口から62㎞)から対岸(鴻巣市滝馬室)の間の河川幅は2,537mあり、日本一の川幅(河川敷を含む)となっています。この広大な川幅により洪水を遊水させ、下流への負担を軽減しています。
こちらは堤防の外側(でも正式には『堤内』といいます。河川敷側が『堤外』、ややこしい)
外側には荒川堤防に沿って文覚川が流れ、ここには古い橋がひとつ架かっているのが見えます。田畑や集落もありこれが典型的な風景です。(吉見町丸貫付近)
川幅日本一標示のあった御成橋+横堤から1700mほどさかのぼって次の横堤+糠田橋の地点へ来ました。
スマホカメラで最大ズームして撮影
少し引いて〈限度はこんなものか〉
手前は北吉見横提(1140mくらい)、奥で左カーブして架かる糠田(ぬかた)橋(776.0m)。
横提上、道路右側に住宅が並んでいます。手前は吉見総合運動公園。
北吉見横提は荒川の横提としてもっとも上流に位置します。
荒川右岸66.8k地点
右側河川敷はずっと吉見ゴルフ場。
長いゴルフ場が尽きると荒川河川敷内を流れる和田吉野川が右岸堤防近くに寄ってきます。
寄ってくるのですがしばらく水の流れは見えません。
68.0km地点で荒川水管橋と
堤防脇の繁み部分が窪んでいてその下を和田吉野川が流れています。
荒川水管橋は左岸を歩いたときにも取り上げましたが、水管橋として日本一の長さ(1100m)、14連のアーチ橋で2つの河川を一挙にまたぎ、荒川右岸へ水道水を供給しています。
その端っこはあっけない
直角、真下へ水は落とされ、ここからは地下を流れて行くようです。
上流側から見返して
このすぐ上流側には道路橋の大芦橋がありますが、その手前に和田吉野川だけを渡る小さめの橋がひとつあります。
レトロぽい橋脚の吉見橋
古そうに見える橋脚ですが、橋の竣工は1978(昭和53)年です。現在この橋は荒川と和田吉野川の間にある農地との連絡道路を通していますが、現在の大芦橋が完成する前は荒川に冠水橋の大芦橋があり、ここと2つの橋を渡って対岸と連絡していたということです。
吉見橋上から和田吉野川上流方向
ようやく水面が見えました。向こうは大芦橋です。
大芦橋
長さは1016mあり、荒川、和田吉野川を跨ぎます。すでに横提は存在しないので左岸堤防から右岸堤防まですべて橋です〈言い方がちょっと変〉。20径間鋼連続箱桁橋となっています。
大芦橋から300mほど上流、和田吉野川に残る廃橋
橋の向こう、荒川と和田吉野川を隔てる瀬割堤防(導流提)で両河川の合流点をより下流に誘導し、(おもに)荒川からの逆流による洪水を防ぐ役割を持ちます。
もう少しさかのぼると和田吉野川が荒川堤防内に入る地点に設けられた水門に行き当たります。
玉作水門
遠景
近景
水門、全開です。
裏側から
橋上から和田吉野川上流方向
荒川は江戸時代初期の瀬替えによって和田吉野川の流路へ導かれるようになったので、昔ここからしばらく下流へは和田吉野川単独の河道だったのですが、主役は荒川に奪われて支流のひとつになってしまいました。
和田吉野川の源流はここから10㎞ほど先、深谷市本田付近にあります。
玉作水門より上流側の荒川は風景にあまり変化がありません。少し加速して進みます。
荒川右岸70.0k地点
右側が河川敷内(堤外)、左は堤内で田畑の間に住宅ちらほら。
冬の前ですね(熊谷市津田付近から)
吉見町から熊谷市に入り、玉作水門から約3.5㎞、久下(くげ)橋まで来ました。
久下橋上流側から
久下橋は2003(平成15)年完成、長さは778.0mのわりと新しい橋です。現在の橋ができるまでは冠水橋で車1台分の幅しかなく交互通行をしていたそうです。
荒川の瀬替えはこの付近から行われていて、流路が新たに下流側に4㎞ほど開削され(現荒川の河道部)、和田吉野川へとつなげられました。
瀬替え前の旧荒川河道は締め切られましたが、現在も跡は元荒川として残っています。
久下橋から500mくらい上流側にある『切所沼』(熊谷市小泉)
荒川堤防の決壊により溢れた水が跡に残り沼となりました。堤防が切れた所の沼ということで切所沼(きれしょぬま)、できたのは明治の頃とのことです。
現在はいたるところにデッキがあって釣り堀ですね。
海まで75.0㎞地点から河川敷内
光や季節のせいもありますが、ちょっと殺伐として見えます。このあたり河川敷内に墓地が散見されます。河川改修前には集落がいくつもあったのではないかと想像します。
ちなみに対岸左岸側の75㎞地点はすでに熊谷市街地に入ってました。
荒川右岸76.4k地点付近、荒川大橋まできました。
現在の橋の近くに旧荒川大橋トラス橋の一部が残されています。
荒川大橋のあゆみ
残されている橋は1925(大正14)年完成、全長500mある9連のトラス橋でした。
〈文字起こししてません。写真クリックで多少拡大するはずですが...〉
凝った装飾も施されています
そしてこちらが現在の荒川大橋
国道407号が通る、長さ845.9mの道路橋で2本の橋が隣り合って架かっています。
陽が短い季節、もう夕方の色ですね。この日は橋を渡って対岸の熊谷市街地へ出ました。
荒川大橋から見る荒川の流れ
橋の反対側歩道へ移動できない構造上&2度渡るのも面倒なため川上流方向の眺めのみ。
最後にたもとから
荒川、両岸とも熊谷まで歩いてまいりました。
まださかのぼる予定ですがいまのところ計画は未定です。
地図、今回分は紫色のライン
右岸の前回分
左岸の前回分