散歩の途中

散歩しながら観察して記録してちょっと調べて書くノート

府中用水 その1 取入口周辺、根川、緑川

府中用水を、その周辺も含めてあちこち歩いてみようという気になりました。
今回はその1回目、府中用水に多摩川の水を引き込むための取入口周辺の記録です。
多摩川本流から分かれた流れと取入口直前で合流する「根川」と、直接の関係はないのですが、府中用水の取入口付近で立体交差している「緑川」もたどってみたのでいっしょに記録することにしました。

府中用水・関連地図

通常は歩いた跡をマップに落としていますが、今回は府中用水と関連の水路、川の流路を描きました。
ただし今はその1分のみです。だんだん拡張していく予定です。

そして写真を撮った場所をマークしています。
マップ中のマークアイコンをクリックすると番号が出てきます。その番号がノート内の写真の番号になります。

 

府中用水

府中用水は多摩川を水源として立川崖線の南側を流れ、本流の長さは6㎞程度、江戸時代に開削された農業用水です。当時は府中3宿の本町、番場宿、新宿、および青柳村、上谷保村、下谷保村、是政村の4村をあわせて7つの村が利用しており、「七ヵ村用水」と呼ばれていました。
流れは途中いくつにも分かれ、崖線からの豊富な湧水も混じって網の目のようになり、周辺の田畑を潤してきました。

現在も多くの流路が残っていますが、あまりにも入り組んでいて、すべてを見て回ることはできそうもありません。
本流に相当する流れと代表的な支流、それにいくつか湧水からできる流れを今後何回かに分けて紹介したいと思います。

 

最初は多摩川の流れが府中用水取入口に向けて分水されている場所からです。
甲州街道旧道にあたる都道256号日野橋の下流側、立川公園野球場の南側で多摩川の流れが二手に分かれるところがあります。

立川公園南側多摩川堤防上から
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いきなり分かりにくい写真ですが、右端に見えている流れが多摩川本流、そこから手前側へやや色が濃く変わっている谷間が横切って左端まで続いています。その下に分水されて府中用水取り入れ口へ向かう流れがあります。

さらに左側(下流方向)へ進むと、根川排水樋門を通って根川の水が府中用水取入口へ向かう水と合流します。
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ということで、根川の水も府中用水へ取り込まれます。

根川はこの後取り上げます。
左端に見える樋門は2018年7月に完成したもので、大雨時に多摩川の水が根川へ逆流するのを防ぐために設けられました。

少し場所を変えて、府中用水取り入れ口付近から。

取入口水門の上から多摩川、根川の合流した流れ
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水は手前に向かって流れてきてこの下にある水門に来ます。

水門のちょっと上流側の余水吐
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余分の水はここを乗り越えて多摩川へ戻ります。

これが府中用水の取入口水門
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水門は農繁期、5月から9月の間だけ開きます。訪れたのは11月ですべて閉まっていました。(一番左、半分隠れてる門だけは開いているようにも見えますが、そこは使われていないそうです。)
水門が閉じて流れがないので、たまっている水は汚く見えます。
ここ、国立市青柳の取水口は1900(明治33)年に設置されたそうです。

取水口の上には解説板があります。
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府中用水 取入口
府中用水は、多摩川の水を青柳南で取り入れ、谷保南部を通り、府中まで導く農業用水路です。江戸時代には、府中宿のうち本町、番場宿、新宿と、是政村、上谷保村、下谷保村、青柳村の合計七ヵ村が管理していたため、七ヶ村組合用水」と呼んでいました。
いつ、どのように造られたかについては、明かではありませんが、一説には、江戸時代(一六五二年頃)に羽村の玉川兄弟が、青柳から府中までの上水路を計画し、途中まで掘り進んだところ土地の高低差が激しく断念、後の人がその跡を利用したと伝えられています。
また一説には、昔の多摩川の河床を用水路として利用したとも伝えられています。
この下が用水の取入口です。毎年、田植えの前に水を取り入れ、田を潤し、秋の収穫前に水を止める光景が、風物詩となっています。
平成四年三月 国立市教育委員会

水門の向こう、府中用水は少しの間暗渠になります。その上にすぐ、緑川の多摩川合流口が交差します。
緑川排水樋管と流路
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緑川は昭和22年に通水された人工河川で、はじめは「立川排水路」と呼ばれていました。旧陸軍立川飛行場付近(現在昭和記念公園)の水はけが悪く、洪水対策の排水路として設けられました。現在は全区間暗渠ですが完成当時は開渠で、今も橋の遺構などが残っています。

水の吐口は結構大きいですがまったく水は流れていませんでした。現在は下水幹線となって、大雨の時くらいしか水が出てこないのではないかと推測します。
ここも後ほど取り上げます。

府中用水に戻って。

青柳の水門から流れて行くのが本流となりますが、訪れたのが農閑期だったので水は流れていません。
5~600mほど下った谷保堰(やほぜき)の様子
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ここは本流から谷保分水が分かれて行く場所で、左本流、右谷保分水です。本流に流れがあれば両水路とも流れができるのですが、右は水がたまっているだけ、左は草で見えませんが空堀状態です。

もっと下流へ行くと湧水からの水が合流するので冬でも本流に流れができるのですが、そちらの様子はまた別のノートで。

 

根川

府中用水へ引き込むための多摩川の分水と取入口直前で合流する根川です。農閑期は府中用水の水門が閉じているため、水は多摩川へ流れて行きますが、夏の農繁期であれば根川の水も府中用水へ取り込まれて用水の一部になります。
府中用水に関連する川ということで、さかのぼって様子を見にいきます。

多摩川の堤防にできたばかりの根川排水樋門からさかのぼること100m弱、
根川貝殻坂橋
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多摩川左岸を歩いてくると立川公園の端で必ず渡る橋です。下を流れるのが根川。
昔、多摩川この付近に青柳の渡しがあり、渡し場へ降りる坂を貝殻坂と呼んでいました。渡し場付近の土の中から蛤の殻が大量に出てきたことが「貝殻坂」の由来だそうです。

橋のたもとから上流方向
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もう少し先から下流方向
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貝殻坂橋から旧甲州街道との交差部までは川幅が広くとられているようです。右側一帯は立川公園で、川に沿って緑道になっています。

根川の変遷を調べてみると、近年になっていろいろあったことがわかりました。

元々根川は昭島市付近の立川崖線下の湧水を源として多摩川に並行して流れ、現在の合流点付近で多摩川に注ぐ小さな河川でした。
1908(明治41)年に残堀川の改修が行われ、それまで別々に流れていた根川と残堀川が接続(合流)するようになりました。
このときに接続部から下流側の水量が一気に増加したそうです。たびたび氾濫が起きるようになり、1972(昭和47)年に残堀川の流路を、根川を分断して多摩川へバイパスするように変える工事が行われました。
この工事で分断された根川下流部は流れがなくなりましたが、その後人工の水路として整備し、立川市錦町下水処理場の高度処理水が流され、川跡は緑道として現在の形になっています。
また、旧甲州街道との交差部より下流側には玉川上水柴崎分水からの水も導かれています。

現在ここで見ている根川は、人工の河川ということですね。

甲州街道より西側の根川は、東側と雰囲気が変わります。
根川緑道
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現在の根川下流部のはじまり
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供給されているのは立川市錦町下水処理場の高度処理水です。
なんて書くと趣きが感じられませんが、玉川上水なども現在は途中からは高度処理水が流されています。

この場所の背後すぐのところを残堀川が流れています。
現在の残堀川
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かつてはこの付近で右に曲がって根川に接続されていましたが、いまはこの近くで直接多摩川へ流れ出しています。

分断された根川の上流部が別途あるはずですが、ここからは確認できません。そちらはもう少し上流で残堀川と合流していると思われます。

そういえばかつて根川の流路も流れた残堀川ですが、江戸時代には矢川(この後でてくる府中用水の登場人物、緑川でもちょっとふれています)に接続して府中用水へ流れていたこともあるそうで、玉川上水につながれていた時期もありますし、物語が多いです。/話が逸れました。

 

緑川

府中用水取入口の水門からすぐ近くを交差して、多摩川への吐き口を持つという緑川です。交差しているだけで別に府中用水には何も関与していないのですが、興味あったのでたどってみました。

緑川排水樋管上部から
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水の吐き口から先、多摩川方向を見ています。先ほどは前方下へおりて、こちらを向いて写しました。府中用水はここの下を暗渠で右から左に流れます。
多摩川本流はこの先、木々の向こう側を流れています。

先ほども書きましたが、緑川は人工河川で、旧陸軍立川飛行場付近の排水目的、洪水対策として水路が掘られました。昭和19年頃工事が開始、戦後東京都が工事を受け継ぎ昭和22年に通水、最初の名称は「立川排水路」でした。
昭和29年公共下水道に指定、中央線線路の北側は昭和30年代に、昭和46年には全区間が暗渠化されました。現在は下水道雨水幹線となっているようです。

現在暗渠の上部は一部を除きほぼ道路になっています。
水の吐き口から背後へ1本のまっすぐな道路、みのわ通りが続いています。

都道256号みのわ通り入口交差点から多摩川方向
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多摩川に近い数百メートルの区間は道路中央に植栽があって車道幅がせまく、歩道幅が広い通り。暗渠保護のため、重量のある大型車が入って来ないよう対策されています。

みのわ通り入口交差点の北側は幅の広い一般道
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先へ行くとゆるい上り坂になります。

道路の坂道を上がりきったあたりで下に矢川弁財天
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弁財天の後ろ、建物が並んでいてわかりにくいのですが、立川崖線が通っていて崖になっています。みのわ通りは立川崖線を上がるため坂道になっていたのです。その崖線の段差が右側コンクリート壁の高さということになります。
そして弁財天とその背後の建物の間に「矢川」が流れています。

位置を変えて弁財天の後方から矢川
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この地点は現在、緑川の暗渠と矢川が立体交差しています。かつて緑川が暗渠化される前もここに立体交差があったと思われますが、どのようになっていたのでしょう。

下を流れる矢川ですが、立川崖線の際を流れており、すぐ先からは暗渠になっています。この付近の崖線からの湧水を源としているということですが、現在源流の様子はわからないようです。
矢川はこの後、府中用水関連の登場人物のひとりです。

崖線上の台地、立川面に上がったみのわ通り、緑川はその先で逆S字にカーブします。南武線線路があるため、交差部を直角に近くして橋梁の長さを短縮するためです。普通は線路より川が先にあるのですが、ここは線路が先にあったので川のほうが流路調整しています。

現在、南武線線路をはさんだ両側は長細い公園になっています。

川筋が右にカーブしてみのわ通りから離れていくところに橋跡が残っていました。
片側だけ残されている尺串橋(しゃくくしばし)
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親柱にはひらがなで書かれていましたが、調べてみるときちんと整理されている方がいらっしゃって、漢字では「尺串橋」だとわかりました。

欄干の向こう、公園内から
ちょうど南武線電車が通って行きました
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線路を越えて反対側へまわってみます。
線路北側の公園
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この背後、上流側は羽衣いちょう通りという道路になっています。

だいぶ汚れていますが、川が開渠だった頃の写真つきの解説がありました。
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緑川(幹線)と羽衣いちょう通り
緑川は昭和18年から21年にかけて東京都(内務省委任)が立川駅北口一帯の水害原因であった旧陸軍立川飛行場の排水を処理するため多摩川まで素掘の排水路として作りました。当時は、集中豪雨による護岸崩壊もありましたが改修工事完了後昭和23年に東京都から立川市に管理が引継がれました。(右下写真)
それから何度か手が加えられましたが衛生消防および地域発展の面から緑川を暗渠にしようという市民の強い要望があり、昭和29年に公共下水道として『緑川幹線』と位置づけられその後に現在のような地下を下水道、地上を道路として使用するようになりました。
また、平成7年には羽衣橋から緑川第二児童遊園までの道路が市民からの間照明の募集をもとに歩道にいちょうが植えられていることから「羽衣いちょう通り」と名付けられました。(右上図)
立川市

羽衣いちょう通り
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重量制限14tが暗渠の存在を彷彿とさせます。

羽衣町1丁目まで来て都道145号を交差すると、その先はまた川幅そのままの長細い公園となり、JR中央線の線路まで続きます。

JR中央線高架手前にも橋跡がありました。
羽衣小橋
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中央線の北側も同様の公園になっていました。

川の流路跡づたいに太い道へ出てくると
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道路中央の流路跡は長くずっと駐車場となっています。

時折駐車場を横切って通る道路があるのですが、そのようなところはかつて「川を渡る道」だったので、橋跡がいくつか残っていました。
残されている橋跡
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さらに先へ進むと立川の繁華街へ出てきます。交通量が多くなり、道路中央の駐車場も川があった痕跡もなくなりますが、交差点の名前は「東橋」「曙橋」と、かつてそこに橋があったことが分かります。

曙橋交差点
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このあたりは立川駅北側いちばんの繁華街です。

そして次の立川北駅前交差点まで来ると、流れの方向は北向きに変わり、昭和記念公園あけぼの口の方へ向かいます。
立川北駅前交差点
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ここで右正面、昭和記念公園方向へ折れます。

昭和記念公園あけぼの口交差点
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この先がかつての立川飛行場になります。飛行場内の流れの引きまわし方はまったく不明で、痕跡も残っていないようです。ひとつ先のブロック、現在の災害医療センター前まで行ってみましたが何も得られませんでした。
緑川をたどるのはここまでにしました。

 

その1もこのへんまで。その2に続きます。