散歩の途中

散歩の途中で観察記録、その後少し調べて書くノート

野火止用水を歩く 用水本流末端・引又宿

今回の野火止用水は前回の暗渠歩きと同じ日ですが、場所と雰囲気を少し変えて本流の流末に位置する引又(ひきまた)宿と周辺を巡ります。

引又は志木の昔の呼び名で、新河岸川の舟運や引又街道(志木街道、かつての奥州街道の一部とも)の宿場、商業物流の拠点として発展しました。

野火止用水の本流は引又街道と並流し、引又宿の中を通っていました。当初は新河岸川へ放流されていましたが、のちに対岸の宗岡地区の灌漑にも利用するため、川をまたぐ全長260mの『いろは樋(どい)』を設けました。
引又宿、街道沿いにはいまも古い建物が残り、用水やいろは樋に関連する設備、モニュメントなどもあるのでそれらを見ていきます。

 

引又宿のうち、いまは本町という市の中心っぽい場所からスタートします。

本町3丁目交差点近くの志木街道

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正面がかつての引又街道にあたる道、野火止用水本流も道に沿って流れていました。

 

生垣のある家の向こう側へまわると交差点の歩道上に

上(かみ)の水車跡のモニュメント

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野火止用水の水を利用した水車です。左の解説を要約すると

引又宿(現本町1,2丁目付近)にはかつて上の水車・中の水車・下の水車と呼ばれる3つの水車がありました。この水車が開設されたのは1776(安永5)年といわれ、宿内の3つの水車の中ではいちばん新しいものです。
水車は主に玄米を精製するために使用され、できた白米は宿内の宿屋、飲食店、酒造業者などで使用されてきました。
水車は大正時代初期までここにありました。

左に立つ細長いものは上に志木町と書かれた道標、全部読めないのですが、東京市板橋町、浦和市清瀬村などの名前が登場しています。

 

上の水車からは400mくらい用水下流に下ったところ、本町1丁目あたり。

朝日屋原薬局の建物*1

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写っている店舗兼住宅の主屋は明治45年建築、ほかにも敷地内にある土蔵、洋館、離れ等7つの建物が国の登録文化財に指定されているとのことです。(街道沿いの大きな商家の敷地は奥に深く、主屋の後ろにいくつもの建物が存在します。)

 

こちらも店舗の前に道標がたっています

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こっちは『浦和町』と記され上の水車脇にあった道標より古いです。

 

そこから7~80m先にも切妻造り、古い商家の建物があります。

そのひとつ

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こちらは主屋の後ろに棟がつながってます。〈光が入ってしまいました〉

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その奥にも中庭を挟む形で土蔵などがあり、こちらも有力な商家だったと思われますが、店舗正面は大木になってしまいましたね。

 

道路正面にも同じく古くからの建物があり、いっしょに

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建物反対面から

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こちら側には建物がなく、『史跡 市場跡』の標柱がたってます。近くの河岸場や街道を運ばれてきた物資の集積所がここにありました。

 

次は道路反対側へ移って。
正面から

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重厚な雰囲気の切妻の屋根など、先の2棟と似ていますがこちらは何度か改築されてますね。

 

左のほうから

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手前の方は現代風のおしゃれなスペースに変身してます。
また奥には離れなどが並んでいます。

この2棟の建物の先は現在市場坂上交差点です。

 

その前に、街道筋から少し奥に入ったところですが

道路両側に残る古い建物

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こちらは街道沿いの商店建物と造りがやや異なります。道路を挟んで両側で何かを製造販売していた店と想像しました。現在は主屋反対側の建物裏が空き地となってしまってますが、スペースの大きさから広い作業場があったのではと思われます。
そして蔵の前に立つ煉瓦塀も印象的です。

この通りの前後にもいくつか古い建物が残っており、道路自体古いのでしょう。

 

再び野火止用水の通っていた街道沿いに戻ります。

市場跡に隣接した2つの建物の先で市場坂上交差点、ここにもかつての宿場内から移された門が置かれていました。
伝統的建造物旧西川家潜(くぐ)り門

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解説板を要約

この門は、西川家(本町二丁目)の中庭に建てられていましたがここに復元したものです。
門の形式は正式には棟門ですが家の中庭に建っていたことから潜り門とよばれていました。
建築年代は1866(慶応2)年頃とみられ、武州一揆の刀傷跡が扉や柱に残ります。
棟高3.03m、総長5.454mの欅造り、屋根は切妻土葺き桟瓦葺きで昭和2年頃には門の両袖に一間の長さの腰縦板張り黒漆喰塀が付けられていました。
西川家は江戸時代初期にこの地に来住し、幕末には酒造業、水車業、肥料業を営むかたわら引又町の組頭役を務めた名家で西川本家の通称で呼ばれています。

 

市場坂上交差点付近から街道は下り坂となり、新河岸川と柳瀬川の合流地点に出ます。
このあたりから野火止用水の水を川の対岸へ送るためのいろは樋の設備がありました。

高い位置を流れていた用水はまず坂上の小桝に溜められ、続いて大桝に流れ込みます。大桝が満たされると上部から水が落下して一旦地中の樋を通り、勢いで『登り竜』と呼ばれる斜めにかけられた樋を上がって川を渡る掛樋に達し、対岸へ送られるしくみになっていました。位置エネルギーを運動エネルギーに変えてってやつですね。

市場坂上交差点には当時の木製の桝や掛樋の一部が復元され、いろは樋のジオラマ模型があります。
でも屋外に置かれたジオラマのケース防護フィルムがいささか不調でして写真に撮ったらこんなになっちゃったです。

いろは樋大桝から登り竜あたり

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左に立つピン付近が大桝、建物下を埋樋が通って登り竜へ出て行きます。

 

地上に復元された桝と樋の模型。

左小桝、右大桝、間にジオラマのケース

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こちらは左に大桝、水が落ちる下り竜から地面下を埋樋で通って登り竜と掛樋の一部

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掛樋と対岸部分のジオラマ

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いろは樋の長さは260m、地上からの高さは4~5m、48の樋を繋ぎ合わせて造り、いろは歌48文字と同数だったのでこの名前になりました。高さを高く保つのは川で舟の行き来を妨げないためです。

明治になると掛樋は川の下を通る鉄管に改められ伏越方式で川を渡ることとなりました。その時に新たに設けられたレンガ製の大枡が保存されています。〈民家の真ん前なんですよね〉

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間近で

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鋼管上部の壁には「明治三十一年四月竣功」の文字、管にも「MS&Co 明治二七」らしき文字。

いままで書いてきたことの繰り返しになりますが、解説板の文字を

いろは樋の大桝
寛文二年(一六六二)※、宗岡を治めていた岡部氏の家臣の白井武左衛門が、引又(現志木市本町)まで来ていた野火止用水を宗岡でも利用できるようにするため、新河岸川の上をわたす大きな木樋を作りました。この樋は、板を四十八枚継いでいたことから、「いろは樋」とよばれました。 ※一説では、万治二年(一六五九)
この樋は、連通管の仕組みによって、市場通りにあった小桝から地中に埋めた木樋で大桝までつなぎ、さらに木樋をつないで懸け樋の高さまで水を上げていました。
大桝は、はじめは木製でしたが、明治三十一年(一八九八)~三十六年(一九〇三)の工事によりレンガ積みとなり、木樋は川の下を通る鉄管に変わりました。
いろは樋は、昭和四十年(一九六五)市場通りの野火止用水が暗渠となり、灌漑用水としての役目を終えるまで、長きにわたり、宗岡にゆたかな実りをもたらしました。
平成二十六年三月   志木市教育委員会

レンガ大桝の後ろはすぐに川です。

こちらは柳瀬川です

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正面奥で新河岸川と合流しています。合流地点より手前、この視界のなかにいろは樋が通っていました。
引又河岸場もこちら柳瀬川の右岸側、合流地点の少し手前あたりにあったようです。

左は公園(いろは親水公園)ですが、背後の志木市役所建て替え含めて大規模工事中でした。

 

上にも写っていますが、公園内には村山快哉堂という薬店の建物が宿場内から移築されています。

でも工事中で近寄ることができません、当分…

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街道途中にある朝日屋原薬局と同業、こちらの建物は土蔵造りで1877(明治10)年の建築、現在の本町3丁目にあったそうです。
看板の「中風根切薬」はこちらで江戸時代より製造販売されていた家伝漢方薬のひとつ。

それにしても無残な風景ですnya。

 

いろは親水公園の先は新河岸川、いろは橋の上から

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こちらも見える範囲内にいろは樋がかかっていたことでしょう。

左側の宗岡にもいろは樋の遺構がいくつかあるようですが、今回は見逃してしまいました。

 

いろは橋を渡って引又宿方向をふり返り

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宗岡に渡った野火止用水は支流がさらに先へ伸びていました。流路地図を見るとその末流は現在の荒川堤防近くまで達しています。

勢いで流路跡とされる道をたどって荒川堤防まで歩きましたが、これといった痕跡は確認できませんでした。宗岡地区を流れる別の農業用水路などと混ざってしまって区別できないといったところでしょう。

宗岡小学校脇の暗渠蓋というか何かの水路

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いろは樋先の用水路があった通り、歩道部分、下を何かが流れていますが何の水かどちら方向へ流れているのかも不明でした。

 

この先へしばらく進むと荒川堤防にぶつかります。

堤防上から河川敷を望む

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秋ヶ瀬橋、秋ヶ瀬取水堰方面を見てますが広すぎてわかりません。荒川このへんを歩いたときは河川敷の中を進んだので堤防の外側、町の様子は見てなかったです。

野火止用水に絡んだものは一応ここまでです。

 

実はこのほかにも志木市内で野火止用水支流の痕跡を探してあちこち歩き回ったのですが、あまり見つけられませんでした。見つかってもあまり映えるものもなく…

せめてものいちまい

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菅沢・北野堀の暗渠道。市内西側を流れる野火止用水支堀のひとつです。歩道が中央にある道路、下は暗渠があり、この先で流れが顔を出していました。その先は柳瀬川に水が落とされています。(志木市柏町6丁目付近)

 

野火止用水流路地図:引又宿の大体の範囲を赤いラインで示しました。

 

 

これまで野火止用水あるいた記録ノート

miwa3k.hatenablog.jp

 

*1:御主人の姿を拝見しました。